■ 第3章−四月「あるいは、逢瀬」

LastUpdate:2004/03/06 初出:硝子の雪(同人誌)

 傍の時計が電子音を立てる半時も前には、明確な意識が戻っていた。高血圧なわけでは無いが、朝は割と苦手ではなくて、数分も布団に潜ったまま曇った意識を抱えているだけで、やがて正常な思考と感覚は簡単に戻ってくる。それと、目覚まし時計のプレッシャーがどうにも苦手で、大抵セットするとその半時前には起きてしまう難儀な自分がいたりもする。多分に漏れず、今日もそんな感じらしい。
 一人寝の朝には冷えた布団に自分の体温の低さを思い知らされてしまうのだけれども、乃梨子の体温が混じった日の毛布は二人分の熱を確かに持っていた。隣に眠る乃梨子の首筋にそっと唇を重ねたあと、乃梨子を起こさないようにゆっくり布団を抜け出す。
 思わず出た欠伸が、予想以上に咽に痛みになって響いてしまったので、思わず顔をしかめてしまう。エアコンを強風のままで付けっ放しだったこともあり、乾燥した空気で咽を痛めてしまったらしい。
 目覚めてまずポットから注いだ白湯を、ゆっくり飲み干すのが一人暮らしを始める前からの習慣の一つ。お茶やコーヒーでは目覚めにいきなり飲むには少しきつすぎるので、注いだお湯そのままの味を楽しむことにしている。といっても煮沸した水道水の味しかしないのが正直なところで、味というよりはそれを飲んでいる間の時間の流れを楽しんでいる、と言うほうが的確かもしれない。
 まだ物が少なすぎる部屋は閑散としすぎていて。以前住んでいた一室よりは格段に綺麗な部屋ではあるのだけれど(そもそもこの築年数の差で比べても仕方の無いことでもある)寂しい空間だけがそこに埋もれていた。
 それは私が望んだことなのかもしれない。いつの時にも私の心を小さな寂寥が責めたてていた。それは以前の部屋にいたときにも、薔薇の館で友達と話していても、乃梨子と一緒に居ても変わらない。決して目減りすることの無い感情で、私はそれと一生を生きていかなければならない事実を、いつしか覚悟すらしていた。
 私の中でのもう一人の私が、私の中の私をどこまでも孤独にしようとしたがっている。言葉に表すと「私」が入り乱れてよく解らなくなるけれど、そんな感じだった。
 あるいはこれは、私の本質なのかもしれない。表面上の私は寂寥を恐れているのに、その影で私は寂寥を失えばもう生きていけないところまで追い詰められているのかもしれない。そんな風に思うこともあった。同じ細胞にあるはずの背反した自分が心を引き裂くから、寂寥が私の中で呻くたびに心の置く底から締め付けられるような重く鈍い痛みが走るのかもしれなかった。
「おはようございます、お姉さま」
 首筋に乃梨子の両手が回されてくる。私はそれを心地良いと思ったけれど、それはどちらかと言えば乃梨子と一緒に居ることで、あるいは乃梨子に触れられることで、心のように深層的な部分ではなく、もっと表層的なレベルで満たされる飢えがあるからなのだと思えた。誰も本当に大事な場所にある飢えには触れて来ないし、それは決して満たされない。傍にあることでも満たされない感情があることは一時期私を絶望させた。回された腕は寝起きだというのに暖かい熱を帯びていて、私はそれに頬を擦り合わせてみる。乃梨子と共に居れることは一時的に私を心の渇きから遠ざけてくれるけれど、それは錯覚的な忘却に過ぎず、奥深いところに流れるザラザラした感情はちっとも目減りしてくれない。その錯覚ですら、今は私の貪欲さを埋めるには及ばず、乃梨子と一緒の部屋にいても、肌を触れ合わせていても、いつしかまた孤独に包まれている時と同じように鈍い痛みを感じるようになった。それが私の狂ったような飢えや血の渇きのそれらがより深くなったせいなのか、あるいは乃梨子への感情が薄れてしまったのか、それは判らない。
 しかしその中でも(今はこれでいいのだ)と割り切る私もいる。躰の飢えと心の飢え。その両者を単一の対象で満たそうと漠然と考えていることからして、そもそも私の浅慮なところなのだろう。私自身が何年かかっても触れることができず、一方的に苦しめられるだけだった心の闇に触れられる人など、いる筈が無いのだ。
「……お姉さま?」
「ああ、ごめんなさい、乃梨子」
 咄嗟に首に回された腕に手を添えて、頭の重みを預けて乃梨子の胸に委ねてみる。乃梨子の躰は温かくて、私はいつまでも乃梨子の胸の揺りかごの中で眠っていたいという錯覚を覚えた。その錯覚とは裏腹に、私の心が求めて止まないカッコ付きの感慨は、その暖かさからでは何ひとつとして伝わっては来なかった。
 乃梨子と居て倖せ。しかし、乃梨子と別れた後にその時間をひとたび反芻してみたなら、私はそのとき哀しみの中に居たことだけが再確認できてしまう。それですら(乃梨子と居ても哀しい)に変わるのに時間はそう必要無かった。
 あるいは乃梨子を性欲対象としてしか見ていないのかも知れない。もしそうであるなら、自分はなんと卑劣な人間であるのだろうか。結局自分の為に、乃梨子を利用しているだけなのかもしれない。
 気づいて欲しい、と思った。自分はこんなにも低劣で浅ましい人間なのだと。自分はこんなにも弱くて卑屈な人間でしかないのだと。乃梨子は私の中にある真実の私をその一欠けらでさえ知らないだけなのだ。きっと私の本質にある闇を知れば誰でも、私という人間に失望し、そして離れていくに違いない。
 このまま一緒に居れば乃梨子を傷つけてしまうのかもしれない、という恐怖。乃梨子に棄てられれば生きてはいけないという恐怖。二つの、決して共にはあれない恐怖が私の心を大きく揺さぶり、せめぎあっている。
 乃梨子、と私は彼女の名を呼んだ。
「はい、お姉さま」
「私のこと、好き?」
「はい、勿論です」
 そう言って笑顔で微笑む乃梨子。
 いまはこれでいい、と思えた。私には私の心の痛みに耐えつづけるのが精一杯で、せめて躰を満たしてくれる乃梨子の存在がどうしても必要だった。
 ……けれど、私は覚悟しておかなくてはいけないのだろう。いつか乃梨子が私の闇を知ってしまう日が来てしまうのかもしれない。あるいは私は乃梨子をどうしようもなく傷つけてしまうのかもしれない。そうした時に、乃梨子が私の許を去って行くのは仕方が無いことなのだ。
「乃梨子、愛してるわ」
 私は乃梨子の胸の中で静かに眼を閉じる。
 それは本心から出た言葉だった。乃梨子が嬉しそうに顔を赤らめて答えてくれたので、今はこれで良いように信じられた。いつか乃梨子が失望して、蔑みの目を向けてくる日が来るのだろうか。だけどそれは、仕方の無いことなのだ。仕方の無いことなんだから……。