■ 第4章−五月「遠い世界」

LastUpdate:2004/03/06 初出:硝子の雪(同人誌)

 携帯電話を持った。乃梨子にせがまれて少し前に購入したのだけれど、街中を歩きながら人と電話で話す、という行為には奇妙な違和感が付き纏った。自分が年齢の若い人間にしては感性が古すぎるせいだろうか。要は、慣れなのだろうけれど。
 乃梨子は私と同じでクラブ活動をしていないこともあり、暇な日には頻繁に私の部屋にやってきた。とはいえ、先日までの新入生を歓迎する「マリア祭」で慌しかった日々が終わっても、そのせいで後回しになっていた普段の仕事が山積みされていては、あまり早く帰宅することもできない。
 幾度となく繰り返される毎日。家、教室、薔薇の館。触れてくる人や話し掛けてくる人がたくさんいて、そしてそれに返事を答える私がいて。だけどそれは鮮明すぎるはずの世界なのに、どこまでも遠くて。手に触れられるほどに近い距離にその世界はあるはずなのに、どこかそれはテレビの中のように、自分でない無機質な自分が別の世界で演じているような。偽りの笑みを浮かべて、誰にでも一線を引きながら。そんな錯覚を伴った。
 やがて私は考えることを止めた。それはとても楽なことだった。ありきたりな言葉を並べて、ありきたりに生きる、無機質な私。それは普段の私と何が違うのだろう。誰もがそんな私を「藤堂志摩子」だと認めて接してきれくれて、私はそれに対して作り笑いを浮かべるのだ。
 そんな私がテレビの中の世界に帰れる時。それは例えば乃梨子に触れたとき。全身の感覚がざわざわと沸き立って、私は私を取り戻す。それは乃梨子に接する時だけで、祐巳さんや由乃さん、祥子さまや令さま、その誰と触れるときにでも、そこにいる私は虚像でしか無かった。
 なので私の関心は専ら乃梨子に注がれる。逆に言えば、それ以外の人や物事になんて、何も興味が無かった。
 放課後になれば、薔薇の館に足を運ぶ。それは、私の日課になっている。令さまや由乃さんのようにクラブ活動をしているわけではないから放課後の時間を制約するものは無いわけだし、薔薇の館の空間にいて、親しい人と何でもない会話をすることは、私にとって幸せなひとときでもあるからだ。忙しい時期もあるけれど、それも親しい人と一緒にする苦労なら、それは別に面倒でも苦痛でも無い。
 桜の季節も終わり、既に校舎のあちらこちらには緑の世界が着々と広がってきて、夏の訪れを告げている。薔薇の館には校舎から直接入ることができないから、その道程は一日として同じ姿を見せることが無く、私の目を楽しませてくれる。
 世界は移ろっていく。季節は変わっていく。確実に月日は流れていく。なのに、私の中の時間は流れない。私だけが時間の狭間に取り残されて、ただ私だけを見過ごして、時間は忙しく流れていく。世界の時間は確実に、その歯車を加速させながら動いていくのに。
 だから私はこの短い距離を歩く時にも、疎外感にも似た寂しさを感じてしまう。空虚にも似た感情が、「私は何をしているのだろう」と問い掛けてくるけれど、それは私自身理解できていないことなのだ。
 風が強かったので、薔薇の館の扉を僅かに開けて体を滑り込ませる。ギシギシと鈍い音を立てる階段を上り、そしてビスケット扉をゆっくりと開ける。中には由乃さんと祐巳さんが既に来ていて、楽しそうに談笑していた。
「ごめんなさい、乃梨子は今日来られないらしいわ」
 鞄を由乃さんの向かいの席に置きながら告げた。乃梨子は今日はお世話になっている家の方と一緒に出かける用事があるとかで、薔薇の館に来れないらしい。
「ああ、うん。乃梨子ちゃんから聞いてるから」
 祐巳さんがお茶を入れに立って下さったので、テーブルに残っている由乃さんがそう答える。
「今日は令ちゃんも祥子さまもいらっしゃらないから、いっそお休みにしようかって話をちょうどしていたの」
「お二人がいらっしゃらないのも、珍しいわね」
 令さまは剣道部のことがあるので、いらっしゃらないことも少なくないのだけれど、祥子さまは大抵の日には欠かさず来られていた。また、祥子さまが休む日には、令さまがクラブを休んで出るようにしておられるので、お二人が一緒にいらっしゃらないというのは非常に珍しい。
「祥子さまは早退だって。さっき祐巳さんに聞いて初めて知ったんだけどね」
「あら、お加減が宜しいと良いのだけれど」
 ここの所忙しかったからその反動かもしれない。
「令ちゃんはマリア祭で殆どクラブに出てなかったから、今日は出ておきたいんだとさ」
 令さまは剣道部の部長でいらっしゃるから、それは仕方の無いことなのだろう。マリア祭前には二週間近く連日剣道部に出られない日が続いたから、確かにそちらを優先されるほうが良い。
「というわけで、邪魔者はそろそろ退散しようかな」
「そんな、邪魔者だなんて」
 由乃さんが鞄を掴んで勢いよく立ち上がるものだから、私も反射的に声を荒げてしまう。
「祐巳さんがね、志摩子さんに相談したいことがあるみたいだから。じゃあまた明日」
 それにしたって、由乃さんがそんなに急いで帰る必要は無いだろうに。そう思ったけれど、由乃さんは鼻歌を歌いながら軽やかに階段を駆け下りて、その音ももう聞こえなくなってしまった。
 祐巳さんが私の席にお茶を置いて、その隣の席に黙って腰掛ける。仕方が無いので、私もそれに倣って椅子に腰を下ろした。
「私なんかで、お役に立てるのかしら」
 相談事があるとすれば、それは祥子さまにしたほうが良いのではないかと思える。祥子さまに聞きにくいことなら、由乃さんに聞けばいい。私は祐巳さんが抱えている悩みが何であるか聞く前から、多分お役には立てないのだろうな、と漠然に思った。
「うん、志摩子さんに聞いて欲しい」
「そう」
 私は祐巳さんが入れてくれた緑茶に手をかける。
「あのね、私ね。志摩子さんのことが好き」
 あまりにも、祐巳さんが当然のようにそれを口にするものだから。瞬間、意味が解らなかった。
 いや、勿論。私も、祐巳さんのことが、好きだけれど。
「友達としてとか、仲間としてとか、そんなのじゃなくてね。私は、もっと深い意味で、志摩子さんのことが、好き。……恋愛対象としての、好き」
 その言葉が私の脳に届くまで、たっぷり十秒は要しただろうか。瞬間、意識が現実に引き戻された。さっきまでどこか遠い世界から、私が私を演じるのを、まるで他人のようにテレビの外側から眺めていただけだったのに、その瞬間、現実に、強制的に引き込まれた。
 私の心に、不思議な感情が溢れていった。その感情が歓喜であるとに気づくのに、さらに十秒は要したような気がする。心臓の芯の部分から溢れるように、ただただ歓喜が満ち溢れた。体が熱くなって、心臓がどきどきした。体に眠る総ての細胞が、喜びに猛り狂った。その中で私は、どうしようもなくただ満たされていく自分の心を知った。今まで寂寥だけがそこに溢れ、それ以外の総ての進入を決して許さなかった心が、どこまでも際限なく満たされていった。乃梨子と共にいる時ですら、その僅かさえ触れることのできなかった私の心に、祐巳さんへの想いが、深く深く溶けて広がっていく。
 そうしてようやく、私は理解することができた。
 祐巳さんこそが「私が求めていた」人なのだと。


 それから、祐巳さんに依存する生活が始まった。
 次第に乃梨子との距離は離れていく。
 放課後は祐巳さんと務めて待ち合わせをするようにしていた。今日は駅、今日は本屋、学校に通う毎日がそのまま祐巳さんと出会える毎日にスライドしていき、一日の始まりの登校時でさえ、既に放課後に思いを馳せる私が居た。