■ 第5章−六月「仮初の恋」

LastUpdate:2004/06/10 初出:硝子の雪(同人誌)

 乃梨子に抱いていた、溢れるほどの感情。
 私はその感情を『愛情』だと思っていたのだけれど、それはただ、『愛情に似ている』だけで、『愛情』では無かった。求心力と愛情は別物で、求めることが愛だと思うこと、それは錯覚だったのだ。
 きっと私は、誰でも良かったのだ。誰でも良いから、私の裡にある渇きに気づいてくれる人を求めていたのだ。
 だけどそれは、意味の無いことなのに。渇きの痛みは潤されなければ、いつまでも罅割れるように痛み続けるだけなのに。決して痛みは和らがないのに。
 飢えを満たす為に求めることや性的な吸引を、愛とは呼べないのだろう。ただ、孤独を満たす為だけに求めるということ。寂寥を知ってもらう為だけに求めるということ。それはどんなに傲慢なことだろうか。
 私は、乃梨子を玩んだに違いないのだ。
 お姉さまという、唯一私を理解してくれる人を失った私には、それの代替として理解してくれる人が、安易に必要だったのだろう。乃梨子は、いつも私の傍に居てくれた。それは私がいつも傍に居てくれるように乃梨子に対して求めていたからだ。


 乃梨子と一緒にいるだけで、楽しい気分でいられた。
 一緒にいるだけで、暖かくなれた気がした。
 一緒にいるだけで、倖せになれる気がした。


 それらは、真実だったかもしれないし、あるいは総て錯覚だったのかもしれない。お姉さまというただ一つの光を失った私には、水鏡に映る月さえ眩しく輝いて見えたのだろう。孤独に凍えていた私に本当に必要だったのは、暖めてくれる温もりだったのに。どんなに手を伸ばしても触れられず、心は決して暖められないのに。
 いや、そんなに生ぬるいものではない。乃梨子は私と全く同じ存在なのだ。どこまでも深く、寂寥に包まれた孤独の中で、どんなにも冷たくなっていられる。
 氷のように冷えきった私と乃梨子が一緒に傍で肌を擦り合わせても、やはり熱は生じないのだ。二人で一緒にいることで、暖かい世界を錯覚するだけ。暖かい世界を夢見ているだけに過ぎない。
 慰めあうだけの関係。お互いが相手のことを絶対的に理解できるから。僅かな倖せさえも分け合って、悲しみは二倍にも三倍にも無尽蔵に溢れかえる。触れ合うことですら哀しみでしかなくて。傷口に手を触れても、同じ傷を自分も同じだけ、抱えることしかできないのだ。
 それでも、乃梨子の存在は私にとって確実に不可欠のものだったのだ。
 乃梨子の居ない日常など、決して考えられない。
 乃梨子が居たからこそ、今の自分がかろうじて在れるのだし、乃梨子が居なければ、とうに私は自分を見失ってしまっているだろう。
 ――だけど。
 今にして思い返す、二ヶ月間の自分。そして乃梨子。
 私たちはただ、どこまでも悲しみに苦しみに、呻いていただけでは無かったか。私たちはただ、痛みを訴えてとめどなく泣き叫び、喚いていただけでは無かったか。
 そこに自制は働かない。理性はきっと失われている。
 ただ、子供が泣き叫ぶように。総ての感情は幼児的な形で倒錯され、幼い子供のように粗暴な形で、怒りや、悲しみや、苦痛に、ただ泣き叫んでいただけではないか。
 違う。あんなものは、倖せなんかではない。
 集合的な人間愛に飢えていながら、ただ自分の中で抑圧されている感情を、解りあえない、と逃避しているだけでしかないのだ。
 私はようやく、その枷に気づくことができた気がする。
 それは、祐巳さんがいてくれたからだ。祐巳さんが、私が本当に求めていたものに、気づかせてくれたから。
 乃梨子も、そんな誰かと巡り合えればいい。
 私はそう願わずにはいられなかった。


――それから、毎日が、祐巳さんと一緒に流れていく。


 六月八日。
 祐巳さんと一緒に水族館に出かけた。
 輝きを増す魚やイルカに、一喜一憂する祐巳さんは、見ているだけで倖せな気持ちにさせられる。

 六月九日。
 祐巳さんと一緒に遊園地に出かけた。
 一緒にジェットコースターに乗ったり、一緒に観覧車に乗ったり、一緒に歩きながらアイスを食べたりした。
 とにかく、どんな時も祐巳さんと共に居られること。
それがただ、どんなにも嬉しかった。

 六月十五日。
 祐巳さんと一緒に喫茶店に出かけた。
 甘い紅茶を口にしながら、学校のこと、進路のこと、そして私たちの今後のことを話したりした。
 いつまでも一緒にいることを約束した。
 祐巳さんと一緒の未来を想像することは、それだけでとても倖せな気持ちになれた。

 六月十六日。
 祐巳さんと一緒に映画を見に行った。
 映画はとても感動的な話で、決して結ばれることの無い二人が、愛を誓う物語だった。
 祐巳さんと二時間の間、ずっと手を繋いでいた。
 祐巳さんの手は暖かくて、それだけで私もどこまでも簡単に暖められていった。

 六月二十二日。
 祐巳さんを私の部屋に招待した。
 初めて触れる祐巳さんの衣の内は、触れるだけで気が遠くなりそうになるほど、気持ち良かった。
 祐巳さんが、私を求めてくれることが、堪らなく嬉しかった。私はもう、祐巳さんを手放せない……。

 ただ毎日が倖せ。
 倖せすぎて、怖い。

 祐巳さんが傍に居てくれることが、倖せ。
 祐巳さんの傍に居られることが、倖せ。

 言葉を交わせば、私はただ満たされて。
 手を触れ合わせれば、私はただ暖かくて。
 肌を重ねれば、私はただ倖せになる。

 祐巳さんの姿が視界に入るだけで。
 祐巳さんの視界に映るだけで。

 心はどきまぎしてしまう。

 ただ毎日が倖せ。

 誰かと一緒に夜を過ごすことは、体が渇望する飢えを満たす為のものだと漠然と理解していた。しかし、祐巳さんと肌を重ねて眠ること。それは、とても安心できることだった。

 祐巳さんとの関係が深くなるほど、乃梨子との関係が急速に疎遠になってくる。私から遠ざかるのか、乃梨子から遠ざかるのか。あるいは両者なのかもしれない。
 乃梨子と会う日々に間隔が開き始める。
 乃梨子と肌を重ねる日々が減り始める。

 それでも。
 私は乃梨子を手放せない。
 祐巳さんだけで、総て満たされているはずなのに。

 乃梨子に別れを切り出せない。
 心はまだ、乃梨子を失うことに怯えている。