■ 第11章−十一月「君は笑っているから」
  
  
「おや、もっと死にそうな顔してるかと思ったけど」
    「……お姉さま」
     秋も終わり頃のある一日。不意に鳴らされたチャイムにドアを開けて出てみると、そこには優しく微笑むお姉さまがいらっしゃった。
     居間を昨日掃除しておいて良かった。そう思いながらテーブルの席にお姉さまを案内し、キッチンに飲み物を準備する為に移動する。
    「意外と元気そうじゃない」
     居間からキッチンに声が掛けられる。一人暮らし程度の広さなので、その距離でも会話に差し支えは無い。
    「お蔭様で、なんとか」
    「ははは、私は何もしてないじゃないか」
    「それは、嘘と言うものですわ」
     何もしていない、なんて大嘘もいい所だ。
    熱いお湯で淹れたコーヒーを二人前トレイに準備し、片方をテーブルのお姉さまの方に差し出す。
    「八月に祐巳さんが来てくれたことがありまして」
     私は自分の席に戻らず、お姉さまが腰掛けた席の傍らで立ったままコーヒーを飲む。ちょっと行儀が悪いが、一人暮らしを始めてからは自然にそういうのが気にならなくなった。お姉さまに似てきたのかもしれない。
    「強い雨が降っていました。大雨の警報も出るぐらいの雨が降っていました。私はここから二百メートルも離れた公園で濡れていました」
    「……へえ」
     お姉さまが唾を飲む音がする。表情こそ変わらないが、その癖は、もちろん私はとうに理解している。
    「祐巳さんの家とは逆方向なんですわ」
    「……それは珍しいねえ」
     お姉さまは、あくまでしらを切るつもりらしい。
    「そうそう、先月の終わりに手紙が来たんですよ」
     会話が変わったのが嬉しいのか、すかさずお姉さまが合いの手を入れてくる。
    「おお、乃梨子ちゃん元気してる?」
    「乃梨子からだなんてまだ言ってませんわ?」
    「……」
     コーヒーをテーブルの上に置く。まだ半分以上残っているが、なんてことはない。私はちょっとずつちまちまと飲むのが好きなだけだ。
    「まあ、この時期に手紙の紹介をする相手なんて、乃梨子ぐらいしかいないのでしょうけど」
    「そうそう、そう思って」
    「乃梨子にここの住所教えてませんけど、どうして知っていたのでしょうね?」
    「……さあ?」
     管理者が変わって、一度建物名も変わっているのに。
    「確かにこの部屋に呼んだことはありましたけど、改めて住所を教えたことは無い筈なんですよね。変な話ですよね、どうやって調べたんでしょうか?」
    「祐巳ちゃんに聞いたんじゃない?」
    「あら、祐巳さんがどうしてここの住所を知っているとお思いになられたのですか?」
    「……」
     何度目かの唾液を飲む音がした。
     お姉さまが、降参、と言って両手を上げる。
     私は今まで、どれほどお姉さまに救われてきただろうか。お姉さまがいなかったら、私はとうに私を見失っているに違いないのだ。お姉さまがいつも見守って下さったから、お姉様がいつも八方手尽くして下さったから、ようやく今日の私はこうしてあれるのだと本当に思う。
    「……ありがとう、ございました。お姉さまが色々手を回して下さらなかったらきっと、私は立ち直れなかったと思います」
     だから私は、そのまま正直な気持ちを述べた。
     お姉さまは少しだけ、困った顔をしてみせる。
    「そんなことはないさ。志摩子はきっと独りでも立ち上がれるよ。その強さがあるからね」
    「……ただ、お姉さまに一言、お礼が言いたかっただけなんです。ありがとう」
     お姉さまが頭の後ろをポリポリと右手でかいた。それが照れ隠しであることぐらい、妹の私は知っている。
    「ただひとつ言っておくけどね」お姉さまがおもむろに席を立ち上がる。「私は志摩子の現状を報告しただけさ。志摩子に対して何かして欲しいなんて言ってないし、何が志摩子に必要かなんて話してない。結局は彼女たちの好意が志摩子を救ったんだ。感謝するなら祐巳ちゃんと、乃梨子ちゃんに対してすることだね」
     お姉さまがむすっとした顔で、再び着席する。
    「ええ、とても感謝していますわ。乃梨子と、祐巳さんと、そしてお姉さまに。今の私がこうしてあれるのは、総てお三方のおかげですから」
    「志摩子……」
    「私は志摩子を抱かなかったけれど、志摩子は乃梨子ちゃんを抱くことを選んだんだね」
     お姉さまが何杯目かのコーヒーのお代わりを受け取りながら言った。どうやら気に入って頂けたらしい。
     数瞬その答えを言うべきか迷う。乃梨子を抱いたのは惰性でしかなく、今にして思えばそれは私の身勝手が為す、後悔すべきことでしかない。ただ、
    「……お姉さまがそういう嗜好をお持ちであることは、存じていましたけれど」
     すなわち、お姉さまが女性を愛する嗜好があるということ。それについては私は気づいていた。私たちの間に嘘や隠し事は何ひとつとして通用しなかった。他の姉妹より交わす言葉が少ない分、僅かに触れる時の中にでも濃縮された心を交し合えたから。
    「けれど、お姉さまが私を抱いて下さらないのは、単純に私に魅力が欠落しているからだと思っていましたわ」
     求められたなら。もし、お姉さまが私の躰を求めて下さるのであれば。私はそれを決して断らないつもりでいた。その時にはまだ誰とも躰を触れ合わせたことは無かったし、そういう覚悟をしたことも無かったから、私はある種の潔癖性から来る偏狭のきらいを抱いていたりもしたけれど。それでも、お姉さまがもし抱いて下さるなら。それは間違いなく、嬉しいことだった。
    「それは違うよ、志摩子。……ただ、私は誰かを抱く、という行為に寂寥しか見出せない。そのことに既に気づいてしまっていただけなんだ」
     それに、とお姉さまは付け加える。
    「志摩子は私と同じだから。私と躰を重ねれば志摩子も同じように、寂寥に埋め尽くされる哀しさを知ってしまうことになるだろうから。だから……」
     ――志摩子を抱かなかった。
     つまり、私は、お姉さまに守られていたわけだ。
    「結局、私が乃梨子を抱いたのは過ちでした。乃梨子を抱くことで、私もその感情を知ってしまった」
     お姉さまは私を守ってくださったのに。私は、乃梨子を結局傷つけるだけしか、できなかったのだ。
    「……だからと言って、過ち、だなんて言うべきでは無いよ、志摩子。私たちは結局、いつかこの感情を知らなければならなかった。乃梨子ちゃんと肌を触れ合わせたことで、それを知るのがほんの少し早くなっただけさ。乃梨子ちゃんを恨むのはお門違いというものだよ」
    「ええ、乃梨子のことは感謝こそすれ、恨んでなどいませんわ。乃梨子が居てくれたから、私はどうにかここまでやれてきたのだし、もし乃梨子がいなかったなら、私は祐巳さんのことを信じる勇気さえ、きっと持てずにいたに違いないのですから……」
    「さて、思わず長居してしまった。そろそろ失礼しなければいけないね」
     お姉さまが唐突にそう言って席を立つ。
    「もっとゆっくりして行っても結構ですのに」
     一時間程は話していたけれど、元々山百合会で仕事をしながら会話を楽しんでいる時間に比べれば、一時間のお喋りは特に長く感じるわけでも無くなってしまう。
    「コレがね」
     お姉さまがポケットから取り出したのは、なんと煙草だった。父も母も吸わず、お寺の方も勿論吸わないので喫煙者が身近にいたことの無い私には良くは解らないが、多分電車広告とかで見かける機会もある、有名な銘柄の煙草だと思う。
    「本当はあまり良いことでは無いのだろうけどね。喫煙に逃げるのも、結局はひとつの逃げであって依存でしか無いのだろうから」
     そう言いながらお姉さまは箱の中から一本を取り出し、逆側のポケットから取り出したライターで、火を付けるそぶりなんかをしてみせた。
     正直お姉さまが煙草をお吸いになっているのには驚かされるばかりだけれど、なんとなくお姉さまには煙草がとても似合っているような気がした。なんだか、映画のワンシーンを切り抜いたような、絵になるお姉さまの姿が容易に想像できたからだ。
    「別に部屋の中で吸って頂いても構いませんのに」
     部屋の中は一時荒れていたこともあったが、今は常に清潔に保つように気をつけている。しかし、煙草の匂いはさして気になるものでも無いし、別に部屋の中で吸われてもそんなに嫌な感じはしない。
     それに、ちょっとお姉さまが煙草をお吸いになる姿を見てみたいと思った。もし部屋に煙草の匂いが残ったとしても、それがお姉さまの煙草の匂いなら、好きになれそうな気もする。
    「それは、やめておくよ。これは私の弱ささ。だから、志摩子の前で見せるわけにはいかない」
    「そうですか」
    「そういうものさ」
     笑いながらポケットの中にそのまま封じ込める。少しだけ残念だと思った。見てみたかったのに。
    「好きな人がいるんだ」
     お姉さまが発した言葉にあまりにも関連性が無かったので、意味を理解するのに数瞬を要してしまう。
    「同じ大学の人だけどね。煙草を吸う姿が似合いそう、なんて言うものだから試しに吸ってみたら、そのまま抜け出せなくなってこのザマさ」
     自嘲気味の笑い顔を浮かべながら、お姉さまは続ける。
    「私の弱さも脆さも、嗜好も、求めているものも。総て理解した上でも私なんかのことを好きでいてくれる人。彼女とならば、生きて行ける気がしたんだ。悪く言えば依存だ。……だけど、私は彼女と生きて行きたい」
    「私が……」私の抱いていた感慨とそれは、何も変わらないのだから。「私が祐巳さんをお慕いすることも、同じことなのだと思います。共に生きると言えば、聞こえは良いのですけれど。結局は私が一人で生きていくことができないだけで。それは、依存にすぎません」
     私の中に埋もれている寂寥を失くせるのは、祐巳さん以外に他にいないのだ。私の心も体も、祐巳さんのことを常に求めて止まない。私はもう、祐巳さんを手放すことのできないほどに、依存しきっているから。
    「実を言うとね、志摩子が立ち直れたか心配で、今日は見に来たみたいなものさ。……といっても、志摩子が立ち直っていなかったとしても、私自身にできることなど殆ど無いのだけれどね」
    「そんな……」
     お姉さまも、私にとって掛け替えの無い人だ。
    「だけど、今日来てみて安心したよ。もう大丈夫だね、志摩子。君はきっと倖せになれるよ」
     優しい微笑を浮かべながら、お姉さまが言う。私が、私が倖せになれるのでしょうか。もしなれるとしたら、それはお姉さまのおかげでもある。いつか必ず、お姉さまにお礼をしなければいけない。
    「なれるでしょうか」
    「ああ、なれるさ。志摩子はもう、大丈夫」
     靴を履き、ドアを開けたところでお姉さまが振り返る。
    「志摩子」
    「はい?」
    「ちょっと祐巳ちゃんの百面相を想像してごらん」
     百面相? 祐巳さんの百面相なら――そう、山百合会でお話している時の笑顔。困り顔。照れ顔……。
    「ほら、もう大丈夫さ。志摩子は絶対倖せになれるよ。君は笑っているから。だからもう、大丈夫さ」