■ 第3章−「肩幅のララバイ」

LastUpdate:2003/05/15 初出:Tempest(Guest)

自分の中で処理出来ない想いは、どこに棄てればよいのだろうか。
そんなことを漠然と考えては見たものの、答えが出るわけではない。
幸せそうな二人の姿、それを見ていると、自分の判断は正しかった事を信じられる。
同時に、自分の判断がいかに愚かな物だったかも見せ付けられている気がした。
だけど、もう他人の華。
そう思えば思うほどに、嫉妬心の残滓だけが心を掠めていく。

通り抜ける風が、葉も無い、剥落した木々を擦り抜けて行く。
季節は冬。私も然り。

 

      *

 

 真剣な眼差しが向けられていた。「逃げない」と心に決めた眼差し。それを見せ付けられていては話をはぐらかす事もできない。私は覚悟を決めるしかなかった。
 逃げない、と心に誓ったのは私も同じだった。しかし、二人の目を見ると、やはり心苦しい思いにただただ締め付けられるばかりだった。それでも、話さないわけにはいかない。
 上手く飲み込めない熱っぽい唾液が口の中に溜まっていた。私の喉はカラカラに渇ききっている。淡い痛みにも似て、少しだけ涙が出そうになる。
 見れば隣に座る祐巳さんも同じ心境を露にしていた。なまじ隠し事ができない、感情が表情となり端的に現れる祐巳さんだけに、その形相は見ている私にすら痛々しく感じられてしまう。
 彼女が、辛い事も、私も罪。
 既に伝えた内容だけでも、おそらく私たちの関係を伝える事はできた筈だ。しかし、まだ最も大切なことを伝えていない。それは、伝えないわけにはいかなかった。誰の心にも終止符が
必要で、そうしなければ同じ場所で回旋するだけの思いの交錯は、絶対に断ち切れないのだ。
「……先週末、祐巳さんを私の家にご招待し、お泊り頂きました」
 私は、意を決して口を開いた。
「私は今まで一度も自分のお客様を招いた事がありませんでしたので、両親も祐巳さんを大変歓迎していた様子で……」
「……そんな事はいいわ、要点のみを話しなさい」
 祥子さまの苛立った声が痛い。しかし、確かにおっしゃる通りなのだ。
 私は、逃げようとしている。逃げたいのだ。しかし、逃げるわけにはいかない。
 言葉を選ぶこともなく、終止符の言葉を放った。
「祐巳さんを、抱きました」
「……そう」
 祥子さまはそう言ったきり、黙り込んでしまわれた。
 その右隣に座る乃梨子はといえば、先程から何も言わず、ただじっと涙目のまま、まっすぐに私の目を見据えている。泣き出さないように我慢しているのが目に見えて解る。解るだけに、私にも辛かった。おそらく、私の心労をこれ以上に増やすまいとする、乃梨子の最大限の努力に違いなかった。
 軽蔑しただろうか。私はこれ以上無い方法で、乃梨子を裏切ったのだ。今の私はどんな穢れた姿に見えているのだろうか。
 また、祥子さまが祐巳さんを愛しているのは明白だった。
 いわば祐巳さんとの行為は、二人の想いのそれを知っている上でやった事だった。二人から嫉妬されるのも恨まれるのも、とりわけ祥子さまについては頬への一発や二発、あるいはそれ以上を覚悟している。
 ――私は、殴られて当然の事をしたのだ。
「志摩子」
 不意に、自分の名前が呼ばれた。
 席を立った祥子さまが、私の目を厳しく睨んだ。
「はい」
 私は、逃げない。
 それだけは、変えるつもりが無かった。
「やめても、いいのよ?」
 私の所へ歩み寄りながら、尋ねた。
 しかし、覚悟を決めた私には、甘んじる考えは無い。
「いいえ」
 私は、逃げない。
「どうぞ、グーで構いません」
「そう」
 私は目を閉じて、総てを祥子様に委ねた。
 これは、通過儀礼なのだと思えた。必要な痛み。暴力は野蛮だけれど、痛みは必要な場合も少なくない。痛いのは私だけではない。祥子さまも、きっと同じだけの痛みを抱える事になる。横で悲痛な顔をした祐巳さんも、乃梨子も例外ではない。寧ろ、現実の痛みとして少しでも消化することのできる、私が一番軽い痛みなのではないかと想う。
 閉じている瞳の奥で、祐巳さんが薔薇の館へ足を入れた初めてのときを思い出した。あの時には特別な感情はなかったし、やがて祥子さまと一緒にいる祐巳さんを好きだった。いつから、この行為が欲望へと変わり、祐巳さん独りへの醜い独占欲へと壊れたのか。それは私自身、全く解らないでいる。
 気がつけば、狂おしいほど求められずに入られなかった。手を伸ばしていた。
 少し長い間の後に、祐巳さんとも乃梨子とも解らない、ヒッ、という小さな悲鳴が上がった。
 そして、ガッ、という鈍い音と同時に、左の頬に鮮烈な痛みが走った。
「……乃梨子、行きましょう」
「……はい」
 静かに言った祥子さまの言葉に、乃梨子は黙って頷く。
 私が再び目を開いたときには、背を向けた祥子さまと、目を閉じる前よりも酷い顔になった乃梨子の姿があった。二人が部屋を出て行くときに開けた扉のきしむ音だけが、なぜかとても長く、そしてとても物悲しげに聞こえた。
 私の頬を、耐えていた涙の線が走った。
 痛み、にではない。自分の犯した罪に対する、ただただ申し訳なさへの涙だった。
 頬に後を引く強い痛みがあった。一切の手加減の無い殴打だった。手加減が無かった事で私の頬はきっと見事に赤く腫れ上がっているのだろうが、そうしてくれた事が今の自分には大変ありがたかった。
 痛ましげなまなざしを頬に送る、祐巳さんが居た。私は何も言わずに首を横に振った。
 祐巳さんの左手が、腕が私の首に掛かる。祐巳さんは、ただ抱きしめてくれた。何も言わず、何も訊かず、ただ緩慢に抱きしめるだけ。
 それがありがたかった。昨日にはより深く、近いところで感じたはずの祐巳さんの温もりが、今になって改めて新鮮に感じられた。それくらい祐巳さんの体は温かで、私の心は無条件にも温められるのだった。
 私は仕切りなおすように背筋を伸ばし、抱きしめ返しながら、祐巳さんに言った。
「越えなきゃ、いけないから」
 誰に諭すでも無い、自分への言葉だった。
 痛みは必要な要素だと信じられた。私も、祐巳さんも。祥子さまも、乃梨子も。越えなければいけないことだと思った。私たちは変わらなければいけない、そうしなければいけない。
 その為の変革には明瞭なきっかけが必要だった。そして、祥子さまもきっとそれを諒解されていたのだろう。私怨ではない、愛のある殴打。私たちのそれぞれが、それぞれに明日を生きていくために必要な痛み。
「志摩子さんだけに、辛い思いはさせないから」
 私の傍で、一点のためらいもなく祐巳さんが涙を溢れかえらせながら言った。
 我に帰った。そう、二人で越える壁だった。私は祐巳さんの体をより強く、制服という境界を感じないほどに抱きしめた。そうする事で、祐巳さんに私の鼓動が伝わって、私の全てを伝えられて、今よりももっと深い細胞から繋がれたならいいのに。

 

      *

 

薔薇の館の外には、ひっそりと薄い雪が降り始めていた。身を切るような冷たい空気が、私の心により一層の寂寥感を掻き立てた。寒空のなかに埋もれていると、自分がどうしようもなく小さくて、そして不要な存在ではないかという、ただ弱気な感情だけが芽生えてくる。
 乃梨子が涙を止められなくなったのを慰めようとした矢先、塞き止めていた何かが張り裂けたように私の頬にも涙が伝った。悔しさがあり、憤りがあり、悲しみがあり、それはなんとも複雑な涙だった。この涙と一緒に、私という人間の価値が失われるような、そんな奇妙な喪失感さえあった。
 わかっていた、覚悟していたのだ。二人が相思相愛にあること、おそらく性的な関係を持ったこと、そして泣くしかできない自分のこと。
 とうとう声をだして、乃梨子が泣き出した。無邪気に泣ける乃梨子を子供だなと想う反面、羨ましくもあった。私もこんな風に素直に自分の感情の侭に生きられたらどんなに良いだろうと思った。私もこんな風にプライドも痛みも悲しみも、全て涙と一緒に流して惨めにもなれる弱さを持てたなら、どんなに良いだろうと思った。
 私は、静かに乃梨子を抱きしめた。こんなにも小さな肩が震えて、今にも凍え死んでしまいそうにも思えた。彼女も辛い立場だったに違いない。不幸にしても私と同じく、身を引かねばならない立場。もっと貪欲になれたら良い、喪失に対して無闇に怒りをぶちまけたり、相手を遠慮無しに引き止められる我侭さがあれば良いと思った。
 心の片隅に瞳子の姿が思い浮かんだ。彼女ならこんな時に我侭にも泣いてすがりついたりもできるのだろうか。あるいはその演技力を駆使してプライドを守るのだろうか。愛する人を手に入れるために貪欲にも我侭にもなれるほど、私も乃梨子も若くは無かった。肉体的ではなく、精神的な若さ。今の私達はとても格好悪い。こんな時には、惨めったらしく泣いて哀願できるぐらいの女性は、とても格好良いと思う。
 結局、不器用にしか生きられないのだろう。私も、乃梨子も。志摩子も、祐巳も。
 一息つける頃には、雪模様の空気は思ったより寒く感じなかった。きっと、私のほうが冷え切っているのだ。

 

      *

 

 薔薇の館の外には、ひっそりと薄い雪が降り始めていた。冷たい空模様に似合わず、芯の方から体を火照らせていた私には、努めて冷静になろうと意識した今まで、そんな簡単なことに気付くことができないでいた。
 理性がブレーカーを落とさなかったなら、私は人間としての最後の優しさも棄ててしまっていたかもしれなかった。蔦子には目の前の二人が涙する光景は、余りにも神秘的すぎた。
 常々から、自分がなぜ山百合会の人間に惹かれるのかが解らなかった。大衆趣味とか、地位とかに自分の興味や関心が影響される人間でない事は、自分が一番良く知っていた。だから、他の被写体に対してどうしてあの場所の人々が輝いて見えるのか今まで解らなかった。だが、今なら明確な答えを出せると思う。結局、私自身が単純に個人の嗜好として、あの方々のことを好いてしまっているだけなのだ。
 この状況になって、自分にも最後のブレーキが掛けられると理解できたことを、蔦子は悲痛にも似た苦笑いと同時に受け止めるしかなかった。部室と自宅の写真の山を確かめる度に密かな自信と達成感に満たされるのと同時に、自分という人間性がもの凄く擦り減ったような気がしていた。カメラを手にする前の自分のことは考えない様にしていた。それはきっと今の自分とは異なり、まだ生きていた頃の自分を顧みるのが怖かった。
 いつからか、自身が写真に映るのが怖かった。被写体としての私では、美しさとかそういうものに対して掛け離れていて、どこか澱んだ負の印象しか見取れない気がした。
 カメラを通して見る世界には、私は住人ではいられないのだ。妹を持たないのも自分の趣味とか、嗜好とか、そういうレベルの問題ではなかった。自分の被写体となりうる全ての人間に比較して、自分という存在はそのどれよりも、余りにも釣り合わない人間であった。
 ふと我に帰ると、目の前では紅薔薇さまと白薔薇のつぼみが、抱き合っているでは無いか。
 左手が重心に肘を据え、右手の指がシャッターに触れるのを感じた。
 ――ああっ、ゴメン!
 蔦子は目の前の被写体に謝りながら、数枚の写真を取った。この写真は自分の中でもかなりトップランクの写真になると自負できるものになると、撮った瞬間から理解できた。
 結局、自分には最後の防波堤も無かったか。
 そう感じることが蔦子をより一層惨めにさせた。しかし、そんなことはどうでもいい。
 解せない。直感的に蔦子が出した結論はその1点に尽きた。紅薔薇さまと最近つぼみになったばかりの白薔薇のつぼみとでは、接点が見つからなかった。少なくとも、泣きながら抱き合わなければならない程の状況というのは、全く見当も付かなかった。
 一体何が二人に合ったのか。あれは一体何を示す涙なのか。
 ふたりとも悔し涙が良く似合う。そう思ったが、どう見ても白薔薇のつぼみの泣き様は尋常ではなかった。紅薔薇さまは白薔薇のつぼみを慰めようとしているように見えるが、なるほど自分も涙を流していては説得力がまるで無い。
 原因を考察してみる。薔薇の館には2人組で2回に分けて入っていた筈だ。先に入ったのは祐巳さんと志摩子さんのふたり、後から入ったのが紅薔薇さまと白薔薇のつぼみのふたり。
 つまり、祐巳さんと志摩子さんが、紅薔薇さまと白薔薇のつぼみを泣かせ――。
 蔦子の思考は混乱した。あのふたりが、誰かを泣かせるなんて考えられない。
 逆の状況なら理解できるような気もする。紅薔薇さまは物をはっきりと言う性格のせいで人を傷つけてしまうことが多々あるし、最近白薔薇のつぼみになったばかりの少女はまだ情報不足ではあるが、どこか一本気な気質がありそうに見えた。おそらく感情が昂ぶると周りが見えなくなるタイプだろう。
 しかし、あのふたりが、紅薔薇さまを泣かせている――。
 紅薔薇さまは心から祐巳さんの事を愛していた様子だった。祐巳さんも、祥子さまのことを大変大切に思っていた様子だった。実際には紅薔薇さまは思慕を超えた感情を持っているような節があったけど、おそらく祐巳さんはそれには気付いてはいないだろう。
 最近白薔薇のつぼみになった乃梨子さんもまた、敬愛とか心服を超えた感情を志摩子さんに向けていたような気がする。
 頭の中でひとつの仮説が生まれた。即座に蔦子はそれを否定する。あり得ない。
 だが、万が一にもあり得ないとは思いながらも、あながちはずれでも無いような気もした。少なくともこの仮説の通りであるならば、自分の中の不可解な浮遊点についての説明が一気に片付き、点と点とが繋がって線になるのも事実だった。
 ――だけど、まさか。
 これ以上深く考える事は躊躇われた。考えれば考えるほどに、その仮説を裏付ける要素だけが、どんどん蔦子の脳内に増えていった。
 もしこの仮説が真実であるならば、祐巳さんと志摩子さんは全てが片付いたときに、きっと自分にも話してくれると信じられた。どうしてだろう、あの二人とのことになると、全くの無責任に信じられる自分がいた。
 その場を静かに後にした。泣いているふたりに音が広がらない距離まで走ってからフィルムを巻き戻し始めた。
 今日見たことは全て何も見なかったことにすることにした。受験生とはいえ築山三奈子さま当たりにでも零せばそっちのけで飛びつきそうなネタではあったが、仮説についてもそれ以上考えず、今回のことについては全て忘れることにした。
 校舎にやがて着く頃にフィルムが止まる音がした。今回のことはこのフィルムと一緒に、心の深いところにしまっておくのだ。今の悲しいことも辛いことも、きっといつかは良い思い出にもなるはずだから。だから、その時まで自分ひとりが心の深い場所にしまっておこう。
 部室に着くまで思案してみたものの、フィルムをカメラから取り出す勇気は持てなかった。取り出せば現像せずにはいられない自分の姿が容易に想像できた。
 どうやら、当分の間は代わりのカメラで我慢するしかないらしい。
 お気に入りだったのに。そう小さく部室で呟きながら、蔦子はフィルムの前半に入っていた演劇部の立ち稽古写真をどう言い訳しようか、その1点だけは避けられない悩みだった。

 

      *

 

 ストーブのコトコトという音が妙にせわしなく感じられた。冬の空気はあまりにも澄み切っていて、そこにある紛れもない音の無い世界によって学び舎とは切り離された薔薇の館には、今は二人分だけの定員しか受け止め切れない世界があった。
「あ……」
 吐息とともに熱い声が漏れた。こう言っては申し訳無いのかもしれないが、祐巳さんの外見は決して人と比べて異なものを持っていないように思える。だから、誰も祐巳さんの魅力を簡単には識る事ができない。だけど、その心はとても温かで、自分の心が冷たくなるたびにその温かさが羨ましくなる。そして祐巳さんの体を抱きしめた時、唇を重ねたとき、一糸纏わぬ姿、その全てに艶く祐巳さんの魅力がある。一度それに触れてしまえば、簡単にその擒にされてしまう。私は、キスをするだけで祐巳さんを離せなくなる。
 制服を脱いだ私は先立って床に背を付けた。薔薇の館は祐巳さんや由乃さんがいつも掃除を熱心にして下さっているおかげで(私はといえば、いつもお手伝いを遠慮されてしまうのだ)比較的他の教室よりも清潔とはいえ、床に祐巳さんを触れさせるのは躊躇われた。冷える側や、汚れる側は私でいいのだ。祐巳さんがどんなに拒んでも、私は自分の手が及ぶ限りの範囲では、祐巳さんに影を踏ませることはさせないつもりだった。
 ストーブのおかげで部屋は裸になっても寒くはなかったが、床は氷のように冷たく、不意に私の背筋が嫌悪感を訴えた。
「ごめんね」
 制服を脱いだ祐巳さんは、立ったまま私に向かって謝罪した。多分、私が早々に床に陣取ったことを指しているものと思われた。
 祐巳さんの温かな躰が私の上に被さった。祐巳さんは体重を掛けないように気を使っている様子だったので、私はその支点を掴み、祐巳さんに首を横に振ってみせた。祐巳さんが遠慮がちに体重を預けてくる。
「今日は、私が」
 私が「いいのよ」と言うと、祐巳さんはそうしたいから、の一点張りで譲らなかった。
 私はと言えば祐巳さんがそう言ってくださったことに歓喜を覚えつつも、実は微妙に残念な気持ちが浮かんでいるのも正直な気持ちだった。昨日は一方的に私が祐巳さんにする立場だったのだが、私には特に不満は無かったし、快感に昂ぶる祐美さんの姿は可愛くて、そしてなにより愛おしかった。その姿が今日も見てみたいと思う願望があったから、その提案は祐巳さんが私にしてくださるという喜びに対して、ちょっと残念な気持ちでもあったのだ。
 祐巳さんの唇が私の首筋に触れた。そのまま骨格をなぞるように舌を這わせて身柱元を過ぎ、盆の窪に達する頃には私はただ唇と舌が触れるその快感だけで気が狂いそうになった。今まで自分を慰めた事もある。祐巳さんを思い、自分の指先で自分を昂ぶらせる行為は私の週に数度の中毒的な行為の一つであり、未だに私はそれを止める事ができなかった。私は決して敏感で感じやすいほうでは無かった。寧ろ、人よりは冷めているのではないかという認識すらあった。不感症という程ではないが、躰の動機が激しくなっても、私の中では冷静な感情が常にあった。
 しかし今はどうだろう。ただ唇が触れ、舌が触れただけで、私は自分の体の火照りを意識せざるを得なくなった。私の精神は麻のように乱れ、実は意識して作り上げている面もある自分の均斉な精神は、あっという間に崩壊してしまっていた。
「あっ……、あっ……」
 私は声を上げずにはいられなかった。うねりのように歪んだ意識が、早い段階で理性を消し飛ばせていた。やがて祐巳さんの舌が胸を舐め、臍をほぐし、下腹部に辿り付く頃には、まだこれから達するであろう最後の地点に触れずにして、ともすれば達しそうになっていた。
「はああぁっ! はああぁっ!」
 いつもは、自我が無くなるのはやがて達する頃だった。それまでは、ともすれば冷ややかな感情がいつでも自分に襲い掛かる準備をしているぐらいに冷静でいられる私であった筈が、祐巳さんの愛撫の前では、数分もしないうちにもう自我を失ってしまっていた。
 もう夢中で私は喉の下のほうから吐き出すように声をあげつづけるしか無かった。僅かにだけ残された理性が禁戒せよと警鐘を鳴らすが、それさえほぼ全損状態にある理性が抑するのはあまりにも無理な事でしかない。
 汗ばんだ躰が蒸れるようにストーブと疎通していった。きりりとした床の冷たさはこの僅かな時間の間にどこへいったやら、私は熱気の中で感情に身を任せて床を這いまわる、ただそれだけの蟲に成り下がっていた。
 昨晩私がそうしたように、祐巳さんが「いい?」と私の耳元に囁きかけてくる。私はすぐにでも、「はい」と返事をするつもりだったのだが、「ゅひ……」という理解不能な言葉を放擲したに過ぎなかった。祐巳さんの口から小さな笑いが漏れる。言語中枢までもが、祐巳さんの愛撫の前にとろけるように溶解していた。だから私は、頷くことでようやく肯定の意思だけを祐巳さんに伝えるに留まった。
 そこからは私が認識できる官能の度合を超えてしまったようで、意識は途切れ途切れになり、性のもたらす快感と疲労感の前に私は躰の自由さえも奪われ、嬌声を上げながら屈服する肢体をひとつ、そこに存在させているにすぎなかった。

 

      *

 

 暖房の規則的な動作が温風を躰に吹き付けるたびに、裸である自分と冷たくなった自分とを認識させられている気がした。
 自分の手を、半月も前にはこんな目的では触れた事が無かった場所に這わせる。いつからか、明確な日時は覚えていない。ただ、一度この快楽に流されてしまうと、もうその毒からは抜け出せない。私の手は、ただ自分を慰める為に動く。
「あ……」
 発端は嫉妬だった。ただ、志摩子を赦せないという気持ちよりも、哀れな自分の姿を赦せない、という意識の方が強かった。そして、こんな行為に耽る自分の姿もまた赦せないのだ。
『祐巳さんを、抱きました』
 志摩子の台詞が脳裏に霞んだ。志摩子には、私がどれほど欲し、欲を走らせたかわからない、自分には触れることすらできなかったものを手に入れることができたのだ。嫉妬心よりも先に敗北感が蔦のように心を絡めとった。それは志摩子に対する敗北感というよりも、祐巳に対する敗北感と表現した方が相応しいかもしれない。祐巳という存在に手が届かなかった、そんな自分への憤りが支配していた。
「ふっ……、く……」
 だから、この行為は自分を快楽へ導く為の優しい手ほどきなどでは無かった。期待感を持つ自慰とは異なり、どちらかといえば不甲斐無い自分への仕打ちに近いものがあった。そもそも自慰という行為自体が祥子の自尊心を大きく傷つけた。しかし、自分という存在が、自分が求めるという行為が、祐巳や志摩子、そして乃梨子さえもを傷つけたことを理解していない祥子では無かった。いわば、この行為は自分の罪へ与える罰と解釈することもできた。
 自分の手が空を走った。私は本当に手加減をしなかった。志摩子もそれを望んでいることがよく解ったから、だから手加減は一切しなかった。私は令と違ってそう大した力が無いことを理解しているが、それでも相当に痛かったと思う。だが、殴られた志摩子は私を睨みつけるでも無しに、ただ謝罪の意思を浮かべていた。そうさせる程に、自分の存在が志摩子を締め付けていたに違いない。
「はあっ……」
 頭がどんなに冷静な思考をしていても、やがてそれは朧げな快感にふにゃふにゃに消失する。そしてそうした時、自分は全ての思考を停止し、ただ快感のままに自分の秘所を弄り続けるのだ。『思考』を辞めてしまう人間など、もはやそれは猿に過ぎない、とも思ってしまう。今の自分はただ猿のように官能のままに指を導くだけだった。
「んあっ……!」
 濃厚な密が指先に纏わりついた。
 ――祐巳!
 思いは彼の無垢な少女へと飛ぶ。同時に私の中の感覚があっけなく達した。
「はっ……あぅっ……んあっ!」
 じんじんと何かが突き当たる感覚がして、同時に時間とともにそれは薄れていく。やがて行為の後には寂寥感が残るだけだった。
 もう、これで最後にしよう。祥子はそう決意した。もう祐巳は誰もが想いを馳せてよい相手では無いのだ。ましてや、セクスプロイテーションに祐巳を掲げて自慰に耽るなどは、人のものになってしまった祐巳相手には絶対にしてはならないことなのだ。
 祐巳が私の妹なのは変わらない。志摩子が私の友であることも変わらない。
 明日からまた普通に付き合える。ただ、今までよりも一歩祐巳に距離を置けば良いだけ――。
 僅か一歩の距離を噛み締めながら「恋人」が欲しい、と祥子は痛烈に思った。