■ 第4章−「虹色の林檎」

LastUpdate:2003/05/27 初出:Monotone(Guest)

夢の中にいる。
掌から離れた現実は、私を責めたてない。
だから、私はいつまでも自由な心でいられた。

 

      *

 

 ストーブの音と、風鳴りが窓を叩き付けた音で目が覚めた。
 一糸纏わぬ体。ストーブに暖められた部屋でもさすがに気分からか肌寒い。外はもう暗くなっており、慌てて時計に目をやると、短針は既に七の数字を示していた。
 シスターや用務員の方に見つからなかったのは幸いとだった。さすがに私も祐巳さんもこんな状況では、とても言い逃れができるものではない。完全閉校まであと一時間、薔薇の館の存在がシスターにとっても一種の治外法権となっているから良かったものの、そうでなければこんな時間に明かりもストーブも付いた部屋、見回りに来られないほうが珍しいだろう。
 傍には祐巳さんの寝顔だけがある。
 私は、たくさんの人を傷つけた、たくさんの人を裏切った。祥子さまや乃梨子は勿論だし、令さまや由乃さんもそうだ。蔦子さんや、瞳子さんもそう。あるいは、私を生徒会の一員として信任してくれた、全ての方々に対する裏切りとも言えるのかもしれない。
 それでも、祐巳さんの寝顔を見ていると、私に在る感情が、現状を良しとしているのに気づかされる。結局私はこの学校や、友達よりも、祐巳さんただ一人を選ぶのだ。参っているというか、狂っているというか。人間はここまでに浅ましく貪欲になれるものなのだと、自分の中から思い知らされるばかりで。
 いつまでも眺めていたい所だが、そうはいかない。
「祐巳さん……。祐巳さん……」
 祐巳さんの額に触れて囁く。やがて薄っすらと開いた瞳は私と目が合うと、優しそうに細められた。
「……おはよう、志摩子さん」
 それだけで胸の動機は、勝手に走り始めてしまう。


 外はもう暗かった。連続的に窓に当たる雪の粒が、埋めては消えていく。この様子では当分止みそうにも無い。
 雪は私を責めたてない。だけど、冷えた心を暖めてくれるわけでもない。雪の中に埋もれてしまえばどこまでも冷たくなっていける自分を知っている。だから、空虚のようにぽっかりとした感情だけが、雪を目にして思い浮かぶ。
「はい」
 急に顔の前に差し出された紅茶が、湯気で窓を白く染めた。甘そうな香りを漂わせたそれを、私は笑顔で受け取る。
 そのまま後ろ向きにずるずると座り込む。今は冷たい壁を背に床に座り込んで飲みたい、そんな気分だった。祐巳さんも倣って私の隣に座り込んだ。
 紅茶は小さく私の躰を暖めてくれたけれど、心まではそうはいかない。これからのことを考えれば考える程に、精神的に気重に落ち込んでいくだけだった。
 昨日までの友達と明日も友達でいられるだろうか。そんなことが脳裏に霞むたびに、私は私の犯した罪の苛みに、ただただ押しつぶされそうに思う。
「……ごめんね」
 祐巳さんが横から、私のほうを見ていた。
「志摩子さんばっかりで、ごめんね」
 あるいは表情にまた出ていたのかもしれない。祐巳さんの目に溢れた涙をハンカチで拭っても、やがてまた溢れてくる。
「聞いて」私は祐巳さんから目を背けて行った。「少しだけ、話させて」
 目を瞑るとたくさんのものが浮かんだ。あるいは人物であり風景であり、あるいは澱んだ感情そのものでもあった。
「私はね、祐巳さんが思ってるほど、綺麗じゃないのよ」
「そんなことない、志摩子さんは私なんかより……」
「……今は、一方的に話させて?」
 祐巳さんに、おねがい、という視線を送る。渋々ながらに頷いたのを確認し、また視線を外して、目を閉じる。
「私はプラトニックな愛だけで満たされるほど、純粋じゃなかった。私は祐巳さんが本当に好きだって、胸を張って言えるけど、でもそれは結局性的な欲望と同じことなんだわ」
 なんて、安易な感情。
「いつだって祐巳さんの傍にありたいという気持ちと、祐巳さんの躰に触れて、犯して、蝕みたいという気持ちは、いつだって一緒にあるの。禁欲的に人を愛せないなら、それは決して綺麗な愛じゃないと思うの」
「……だけど、私だってきっと同じ気持ち」
「そうね、だから私は自分を赦せたと思うの。だから私は今、こんなにも満ち足りて、幸せでいられるの」
 目を開けて周囲をぐるっと見渡してみる。
「気が付けばこの部屋が、私にとってはとても大切な場所になってるの。祐巳さんがいて、祥子さまがいて、乃梨子がいて。由乃さんがいて、令さまがいて。誰もが私を赦してくれたから、私も私を赦すことができたの。……だけど私は、それを裏切ろうとしている」
 祥子さまは祐巳さんを愛していた。それだけは、私の心にも、痛いほどによく解った。
 そして私は、乃梨子さえも裏切った。
「私は絶対に赦されない方法で二人を傷つけたわ」
 それでも遠巻きに日常を演じる自分ではいられなかった。
「それは、私も同じだから」
「祐巳さんと一緒なら、私は罪人でも構わないけど」
 だけどね、と付け足して私は言った。
「謝りましょう。赦してくれるまで謝りましょう。私も祐巳さんも、この場所を失いたく無いから。祥子さまも、乃梨子も、絶対に失いたく無いから。だから、頑張って謝りましょう」
「うん……」
「だけど、二人は優しいから、きっと私たちを簡単に赦してしまう。だから、私たちの犯した罪は私たち自身で背負っていきましょう」
「うんっ……!」
 諦めることができないのなら、求めるしかできない。
 赦されない罪を犯せば、一生罰せられるしかできない。
 だとしたら、それはあまりにも不器用な生き方なのかもしれない。
 もっと身軽に生きようと思えば、きっと簡単にできるのに。私にはそれができない。
 だけど、私はそんな生き方しかできない自分が、きっととっても嫌いじゃない。

 

      *

 

 夜を怖いと思う瞬間があった。
 かつての私の世界には色が無かった。
 雪の中に埋もれた帰り道はなおさらで、そこには退廃的な色しか存在しない。
 だけど、私はもう、怖くない。

 目を閉じれば、色が溢れた世界を思い出せるから。
 教室。薔薇の館。あるいは、祐巳さん自身。

 聖典だけが私の心を占めていた時期があった。
 私は自分の存在を認められなかった。
 私は自分の意味を見いだせなかった。

 だけど、私を必要としてくれるひとがいた。
 それは、なんて嬉しいことなのだろう。
 それは、なんて幸せなことなのだろう。

 だから、私は人を愛することを覚えた。
 そして、人に愛されることを知った。

 だから、今はとてもとても、幸せなのだ。

 帰り道、白銀灯の下で祐巳さんがはぁーっと息を吐いた。
 灯りに照らされて輝いた白い吐息は、私の心にそのまますうっと沁み込んでいった。