■ 第1章−「紅薔薇のつぼみの不在」

LastUpdate:2005/08/06 初出:姉妹の絆・恋人の絆(同人誌)

「あなた、いま、何と言って?」
 祥子は思わず訊き返していた。驚きの表情をそのまま隠しもせず、口につけようと持ち上げたティーカップもそのままの位置で止まっている。
 それは聞こえなかったという意味ではなく、どちらかといえば反射的に出てしまった、確認を求める言葉。
 九月の終わりのある日。長く後を引いた残暑もとうに消え失せ、やがて来る冬の訪れを感じさせる冷たい風が薔薇の館の窓を叩く。その建物の中に、祥子と、そしてもうひとりの少女だけがそこに存在していた。
「たぶん、聞こえた通りの意味、です。――聞き違いをなさったわけではないと思います」
 祥子に答え返すのは細川可南子。長身に映える長い髪を、わずかに開いた窓から漏れた風が優しく撫でていく。
 そう言われれば、祥子も一瞬聞き違いかと思ったその言葉を認めざるを得ない。祥子の左手に支えられて宙に迷ったままのティーカップにようやく気づいたが、いまさらもう一度それを口にする気にもなれずに、そのままティーカップとお揃いの色をしたコバルト色のソーサーの上に静かに置いた。
 何秒かの空白の時間。祥子も可南子も、なにも喋ろうとしない。ただ時が止まったかのように、ふたりの間に沈黙だけが悠然と佇んでいる。
 風の吹きつける音に、それに木々が傾き伏す音。それだけが耳に届いてくる。
 お互いに逸らせない視線。交わされる祥子と可南子との視線に、祥子は胸が拉ぐ思いがした。
 結局それを先に破ったのは祥子のほうだった。
「……ごめんなさい、どうしてだか自信が持てないの。確認してもいい?」
「はい」
 可南子は祥子への視線を一瞬も外さずに、ほんのわずかに頷いてみせた。
「……まず、あなたは祐巳の妹になる気はない、と」
「はい。祐巳さまの妹になるつもりはありません」
「祐巳がそれを望んでも?」
 祥子が慌てて、訊き足してみたりする。
 そんな祥子に可南子が、不思議そうな顔をしてみせた。
「それでも気持ちは変わらないと思います。……ですが、祥子さまが訊き返したいことは、そんなことではないのではありませんか?」
 可南子が逆に訊き返す。悔しいが、彼女の言うことのほうが正しい。
「……そうね。こういうことは遠まわしにしても意味がないわ……私の悪い癖ね」
 認めた上であらためて問い返す。
「あなたが欲しいのは、妹としての場所じゃない……」
「はい、私が欲しいのは……祐巳さまの恋人としての場所、ただそれだけです」
 そう告げる間も可南子は全く視線を逸らさなかった。
 だから、祥子もその気持ちが可南子の本心からのものであると、認めないわけにはいかなかった。
「……それは、私に言っても仕方がないことだわ」
 祥子は捻り出すように、重々しく言葉を発した。
 カップの中の紅茶は見るからに冷めている。けれどもそれを承知の上で祥子はまだ半分ほど残っていたそれをいちどきに飲み干した。どうせ味なんてわかるわけがないから構わない。それよりも、灼けるような喉の渇きを満たせるなら、なんでもいい。
「祐巳の目の前で……いえ、みんなが揃っている時に、それでもあなたは同じことが言えて?」
 それは、あたかも挑戦的であるような台詞だったかもしれない。しかし可南子はそんな祥子を特に気にする様子もなく「はい」と簡潔に答えた。
「お望みなら、祐巳さまたちが旅行から帰ってきたならすぐにでも」
「……好きにすればいいわ」
 そこまで決意が固まっているなら、祥子がとやかく言えた義理ではないのだろう。
 あとは、可南子と祐巳の問題だ。私には関係ない。
 そのはずなのに。
 可南子が取りに戻った忘れ物を携えて扉を閉めた瞬間、独りになった祥子からとめどなく涙が溢れた。
 きっと、彼女は正しい。
 祥子が祐巳に抱いている感情は、妹、なんて絆で定義できるものではないはずだ。
 祥子もまた、確かに祐巳を愛している。
 だったら、彼女の言うように、恋人としての場所を求めてしまえばいい。そうすればいいのに、そうできないのは……きっと祥子がどうしようもなく臆病なせいだ。
 ――負けた、と思った。
 もう消え失せた感情とはいえ、かつては彼女に対し、祐巳のことで憎んだ時期もあったと思う。
 それでもいま、祥子に向かって高らかに宣言した彼女の姿は、とても凛々しく、そして輝いて見えてしまった。