■ 第2章−「Proof of Love.」

LastUpdate:2005/08/08 初出:姉妹の絆・恋人の絆(同人誌)

 今日に限っては休み時間も昼休みも、そして放課後の現在でさえ校内はとても騒がしいけれど、通り過ぎる教師の方々は見て見ぬ振り。
 二年生が帰ってきた。それだけで学校中に溢れる音が一段と大きくなるのは仕方がないことで、ましてや上下の繋がりの厚いリリアンのこと、いくつかの無音だった教室にまた音が溢れて来ること以上に、大切な妹であったり、あるいは大切な姉が無事に帰ってきてくれる意味は大きいのだろう。
(……昨日はつい、勢いであんなことを言ってしまったけれど)
 そんな、にぎ賑やかな校舎の中にあっても、細川可南子の心中は暗い。
 緊張で鼓動が高鳴っている。いま、この学校には祐巳さまが帰ってきているはず。薔薇の館に行けば会うことができるわけだけれど。そう、薔薇の館。そこには……祥子さまとの約束もある。
 祐巳さまに、会える。その破裂しそうな想いが可南子の中でぎゅっと濃縮されて、嬉しさだけで胸の高鳴りが可南子自身にもよくわかるぐらいに熱く早くなってくる。けれど、祥子さまと約束してしまった可南子の果たすべき告白は、無垢な祐巳さまの心を、きっと苦しめる結果にもなってしまうだろう。それを考えると、本当に辛い。
 よく歌のフレーズなんかに『関係を壊してしまうのが怖くて、だから友達のままでいい……』なんていうのがあるけれど、可南子はいまになってそれを痛感する。
(あんなこと、言うものじゃなかった……)
 すこしだけ後悔してから、可南子はブンブンと首を左右に振る。そうして、あれでよかったのだ、と自分を慌てて肯定する。昨日からずっと、そんなことを幾度も頭の中で繰り返している。
 女性が女性に対して、恋人であることを求めること。それがどんなに異常なことかぐらい、可南子にもわかっているつもりだ。だけど、それでも自分の感情を止められないのは、常識で自分の感情を押し込めようとする理性さえ、祐巳さまをちょっと心に慕うだけで簡単に吹っ飛んでしまうほどまでに、深く祐巳さまを愛してしまったからだ。
 祐巳さまを求めることで嫌われてしまうかもしれないという恐怖、それは可南子の中にも確かにある。けれど、それでも告白せずにはいられない、求めずにいられないのは……どうしてだろう。
 自分の中に溢れる感情を、恋や愛なんて言葉で嘯いて、安易に美化してしまうのは簡単なことだけど。
 ……ほら、そんなことを考えているから。足取りは重くなって、緊張で体がぎくしゃくしてきてしまう。
 こうなることはわかっていたのだ。可南子は割と冷静に自分を務めていられるほうだけれど、それでもそこに『祐巳さま』というエッセンスが加わってしまう、ただそれだけで簡単に自分というものを制御できなくなる。それほど可南子にとって祐巳さまは特別な存在であり、いまの可南子の心の殆ど全てを占めきっている。
 だから昨日、祥子さまにあんなふうに強気にも言ってしまったのは……その場の勢いとしか言いようがない。
 可南子が祐巳さまを確かに愛しているのと同じように、祥子さまが祐巳さまを確かに愛しているのが可南子にはよくわかるから。祥子さまにそう宣言しておくことで、祥子さまを牽制しておきたかったのだろうか、あるいは自分の逃げ道をふさ塞いでおきたかったのだろうか。
 ……こうしてもいられない。
 細川可南子、一世一代の大勝負。
 私は自分を偽らない。だから、素直な心を伝える為に精一杯の努力をするだけだ。
 そう割り切ると心がすこしだけ軽くなった気がして、足取りもすこしだけ軽くなった気がする。
 その先にどんな結果が待っているかわからないし、あるいは私は必死にそれを後悔することになるのかもしれない。だけど、それでもいい。きっといま動けずにいるほうが、後になってよっぽど後悔すると思うから。

      *

 ――今日ほど一日を長く感じたことはない。
 薔薇の館に誰よりも早く着いた祥子は、席に着いた後に大きな溜息を漏らした。
 授業なんてちっとも耳に入らないし、同じクラスの人に話しかけられても上の空。考えるのは、ただ妹の祐巳のことばかり。
 いまになってようやく痛感する、姉妹としての関係。
 祥子は祐巳を愛している。それはいわゆる慈愛のようなものではなくて、可南子と同様に、恋人として求める愛。
 その自分の抱えていた感情に、祥子は気づいていたはずだ。だから、妹として祐巳に触れ合う傍では、いつだってそれ以上に「求めたい」という衝動に駆られていた。けれどそれができなかったのは、祐巳が他でもない祥子のたったひとりの「妹」だったからに他ならない。
 姉妹という絆で繋がっている限り、祥子と祐巳は一緒にいることができる。それは仮初めのものかもしれないけれど、それでもいま二人が確かに繋がっていられる絆。祥子はきっと、素直な自分の感情を祐巳に知られることで、いまの関係すら失ってしまうのが怖かったのだ。
 姉妹の絆と恋人の絆。二つのどちらが強固であるかといえばやはり後者だろうし、祥子が本質的に求めているのもまた、後者に違いないだろう。なのに前者に甘んじてしまっているのは、やはり祥子が臆病だっただけだ。
 可南子と……それに瞳子も。ふたりが、祐巳に対して特別な感情を抱いているのはわかっている。なぜなら、それは祥子が抱く感情と同一のものであったから。
 もっと祐巳に対して、真摯に恋人としての絆を求めれば良かったのだ、と祥子は痛感するものの、それはいまとなっては手遅れというものだろう。恋愛は先着順ではないけれど、誰かに先手を取られて後手にまわってしまうようなこと、祥子にはできることではない。
 ……しかし同時に、これでいい、と思う自分もいる。
 今日、可南子が告白して祐巳を射止めてしまうのか、あるいはそれに背中押される形で瞳子が祐巳に思いを伝えて射止めるのか、それは祥子にもわからない。
 だけど、たとえどちらと祐巳が結ばれても、その結果祐巳が幸せになれるのであれば、それでいいのではないかとも思ってしまう。
 もちろんそれは決して簡単なことではないはずだ。それでも、可南子にしても瞳子にしても、彼女たちなら必ず祐巳を幸せにできるに違いない、と祥子には信じることができてしまうのだ。なぜなら、彼女たちの心は本当に、とても真摯なものだから。
 ……それは、いつかの日に志摩子を置いていった白薔薇さまが、抱いた感情に近いのかもしれない。
 恋人にはなれなくても、これからもかつての姉妹の関係を理由に、祐巳の傍にいられればいい。祐巳のことは、確かに幸せにしてくれる誰かが、一番の傍に居てくれればいい。
 幸せにつつまれた祐巳の笑顔がこれからも絶やされることがないのなら、私はそれでいいのだ。
(……こんな考えは、年寄りくさい考え方なのかもしれないわね)
 とも、祥子自身ちょっぴり思ってしまう。
 不思議なことに、いまは心がとても穏やかに落ち着いていて。心に想い描くは、いつかの未来の祐巳に浮かぶ微笑ましい笑顔。幸せな祐巳の姿を心に思えば、祥子もまた、簡単に幸せになれてしまう。
(なんにしても、どちらかが祐巳を幸せにしてくれることを、ただ願うわ)
 そう、祥子は心の中で決心する。その時、
「ごきげんよう、お姉さま!」
 その声の主を祥子が聞き間違えるはずがない。
 そう叫びながら開け放たれたビスケット扉から飛び出し、祥子の場所まで駆け寄ってきたのは、ちょうど心に浮かべていた祐巳だった。考えごとをしていたので、階段を軋ませる音も耳に届かなかったらしい。
 慌てて席から立ち上がった祥子に向かって、祐巳がそのまま顔をうずめるように飛び込んでくる。
 暖かい祐巳の両手に体を抱きしめられながら、その嬉しさのあまり、つい十数秒前に心に決めたばかりの身を引く決意が、早くも崩れてきている音だけが祥子の伽藍とした心の中に大きく鳴り響いていた。

      *

「瞳子ちゃん、久しぶり!」
 そう大声で言いながら駆け寄ってくる祐巳さまを前に(犬か、この人は)と瞳子は思った。実際に、なるほどそんなにハズレでもない気がするのが怖い。
「……そんなに大きい声でなくても聞こえてますから」
 そうなだめるように言いながら、瞳子は空いてる席へ腰を下ろす。山百合会の全員勢揃いプラス二名。たかだか修学旅行の間だけだったというのに、なんだかいまはこの空気がとても懐かしいものにすら感じられる。
「今日は何をすればよろしいですか?」
 瞳子や可南子はただのお手伝いの立場であるのだから、その日その日によって担当する仕事が違う。だからまず今日やるべきことを訊くのだけれど……そう尋ねてみて初めて瞳子は祥子さまの雰囲気がいつもと違うことに気がついた。上の空というか、瞳子の声がまるで届いてないみたいに、ただ心ここにあらずといった感じだ。
 だけど、それは祐巳さまが久しぶりに帰ってきているのだし、別に変なことでもないのかもしれない。
「今日はお休み。修学旅行から戻ってきたばかりなのに、こき使うのもかわいそうだしね」
 横からそれを察してか令さまが答えて下さる。令さまがいつも通りなのは、きっと帰ってきたその日のうちに由乃さまと十分に時間を過ごされたからなのだろう。
 もう一組の白薔薇姉妹はというと、のんびりとふたりでお茶をすすりながら、乃梨子さんが志摩子さまの旅行話に聞き入っている。クラスに居る時の乃梨子さんと、志摩子さまと一緒にいるときの乃梨子さんの違いようと言ったらもう。にやけきって、普段の凛とした表情はどこにもなくなっている。
 こんな空気の中に居るのも、嫌いではないけれど。
「お仕事がないのでしたら、今日はもう失礼してもよろしいでしょうか」
 あくまで瞳子はお手伝いとしての立場。もちろんこのままここで旅行話に耳を傾けているのも悪くはないし、山百合会の誰もそれをとが咎めはしないのだろうけれど。なんとなく瞳子にはそれが許せなかった。
 祐巳さまが(行っちゃうの?)と言わんばかりの視線を投げかけてくる。それ以上それと視線を重ねていてはその甘い誘惑に負けそうになる気がして、瞳子は慌てて目を逸らした。
「……まだ帰らないで貰えるかしら?」
 瞳子を引き止めたのは、他でもない祥子さま。
 ついさっきまではぼーっとしていらしたのに、いまは何か覚悟を決めたみたいに、しゃんとしていらっしゃる。
「可南子さんがね、みんなに報告したいことがあるそうなの。だから、それまで帰らないでくれるかしら?」
「……それは、私も居たほうがいいのですか?」
「ええ、居て頂戴」
 そう言われれば、瞳子もまだ帰るわけにもいかない。持ち上げた鞄をそのまま降ろして、席に座りながら斜め側にいる可南子に、
(手早く済ませてもらえます?)
 と、意味ありげな視線を送ってみせる。
 可南子は急き立てる瞳子の視線を軽く受け流して、その場に姿勢良く立ち上がって開口一番、
「私は祐巳さまが好きです」
 と高らかに宣言した。

      *

 誰もが呆気にとられたという感じで口を開いている。だってそうだろう、いきなりそんなことを宣言されても、普通冷静に対応できない。
 だいたい、可南子が祐巳を好きなことぐらい、ここにいる誰もがわかっていることなのに。
「続けなさい」
 唯一その状況で平静を保ち、お茶を啜っている祥子さまが先を促した。きっと祥子さまはこうなることを、前もって知っていらっしゃったに違いない。
「……私は、祐巳さまが好きです。祐巳さまのことを、愛しているのです。恋愛対象として、祐巳さまが、好きなのです……」
 徐々に声が小さくなっていき、最後には搾り出すように可南子がそれを口にした。
 可南子の視線の先にある、当の本人の祐巳さまはというと、未だに呆気にとられた様子で思考停止しているみたい。
「なっ、なにを言ってるの!」
 その祐巳さまの隣で、ようやく事態を把握した由乃さまが、激昂しながら立ち上がった。
「大体、あなたは祐巳さんの妹にはならないって、前に言ってたじゃない! いまさらそんなことを言って、どうする気!」
「はい、私は祐巳さまの妹にはなりません」
「……っ!」
 激昂した由乃さまと、務めて冷静に返答する可南子。その横で、令さまはただオロオロしている。
「私が欲しいのは、祐巳さまの妹としての場所ではありません。私は、祐巳さまの恋人になりたい。私が欲しいのは、祐巳さまの恋人としての場所、ただそれだけです」
「そっ、そんなの変だよ!」
 由乃さまの激昂はどんどん勢いを増していくばかりだ。
「だって、あなたたち、女同士じゃない! それなのに、恋人同士だなんて……どうかしてる!」
 そう由乃さまが叫ぶと、すこしだけ可南子は辛そうな表情をみせた。しかし、その表情も、可南子はすぐに覆い隠してしまう。そういう強がりなところは、瞳子自身に似ているかもしれない。
「では、由乃さまは、令さまと、恋人でありたいとは、思わないのですか?」
「……」
 ひとつひとつの文節を区切って、強調するように可南子が問う。由乃さまはそれに抗い答えることができず、そのまま意気消沈して席に腰を下ろした。
「……いえ、すみません由乃さまを責めたいわけではないのです。確かにおっしゃる通りに、私は『どうかしてる』のだと思います……」
 再びそこに表れる可南子の辛そうな表情。今度はもうそれを隠すことができないでいるようだ。
「それでも私は、祐巳さまのことを、恋愛対象として『好き』なのです。ずっと自分の中でこの感情を何度も消化しようとしてみましたが、無理でした。ですから、もう祐巳さまに、この気持ちを伝えてしまうしか、ないと思ったのです……」
 そう可南子が静かに告げた。
 今度はもう、誰もそれを否定することなんてできなかった。だって、可南子の抱いている感情が、偽りのないホントの感情だって、嫌でも気づかされるから。
 それに、姉妹の場所と、恋人の場所。
 きっと可南子が言ってることは、正しいのだから……。
 冬が近づくにつれて、夜の訪れは日に日に早くなる。沈む前に色濃く光る夕日が、その場で佇む可南子を始めとして、全員の表情を橙色に染めていく。
 そうしたまま十分近い沈黙が流れる。
 誰も、動くことができない世界。それがずっと続いてしまうのではないかと思われた瞬間、それを可南子が静かに破った。
「言いたいことはそれだけです。失礼します……」
 そう言って、彼女は薔薇の館を後にした。

      *

 薔薇の館を出ると、季節の割に強風で、バサバサと木々が音を荒々しげにたてている。だけど、それもいまの可南子にはまったく届かない。
「………………はぁっ」
 必死に押し留めてきたたくさんの感情と緊張を吐き捨てるように、可南子は大きく息を吐いた。糸が切れたように動機が急速に早くなってきて、眩暈すら覚えてくる。
 火照るように熱くなった気持ちをなんとか静めようとしながらも、どこまでも早くなっていく動悸の音だけが可南子の体中に反響して鳴り響いている感じ。
(私、とうとう言ったんだ……)
 その達成感が、可南子の中にあった。
 全く後悔していないといえば嘘になってしまうのかもしれないけれど。それでも、自分の気持ちに嘘をつくほうが、きっと後悔するに決まっているのだから。だから、例え祐巳さまに受け入れられなくても、それはきっと仕方のないことなのだから。
 実際、これがそんなに分の良い賭けではないことぐらい、可南子にもわかっているつもりなのだ。
 可南子自身、私なんて祐巳さまの中でたいして重要でない、脇役の様な存在だってわかってる。もし脇役でないとするなら、きっと逆側での意識、つまり嫌われている側での認識だろう。
 祐巳さまは優しいから、きっと私のことも、いままで通り親しく接しようとしてくださるだろうけれど。
 今回のことで祐巳さまとの関係に溝ができて、疎遠になってしまったりするようなことは、やはりどうしても仕方のないことだろうと思う。もちろん可南子は祐巳さまの傍にありたいと思うけれど……気持ちを伝えてしまったことで、可南子が傍にいれば祐巳さまの心に負担を掛けてしまうようであれば、やはり可南子にはもう、祐巳さまの傍にいようとすることはできない。
 可南子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
 後悔しないって決めたばかりなのに。そう自分に言い聞かせようとしても、涙はとめどなく溢れてくる。
 校舎の中は、まだ賑わいの音で騒々しい。だけどその騒々しさが、いまは可南子の影を、他人から隠してくれているような気がした。
 騒々しい校舎とクラブハウスの脇をひっそりと抜けて、そのまま校門のところまでひとり歩く。
 マリア様に祈りをささげた後、最後に薔薇の館のほうをもう一度だけ振り返ってみる。校舎が遮蔽になって見えないけれども、確かにその方向についさっきまで可南子が戦ってきた場所がある。
 今日、可南子がしたことは、決して許されることではないのだろう。山百合会の中にいつも変わらず存在しているあの心地よい空気を完璧に壊してしまったわけだし、それにたくさんの迷惑を掛けてしまった。
 もう、あの建物の中に足を踏み入れることはないだろう。そう痛感すると、またすこしだけ涙が可南子の目元に滲み出てきた。そうしてようやく、そこに通ったわずかな期間のうちに、可南子自身もまた、あの場所を愛してしまっていたのだという事実に気づかされた。

      *

 ――負けた、と思った。
 可南子に続いてひとり薔薇の館を出た瞳子は、あらためてそう痛感した。
 いまだから言える。瞳子は祐巳さまを、愛している。
 そんなあまりに簡単なことに、いまのいままで気がつかないなんて……私の馬鹿。
 違う、きっと本当はわかっていたはずなのに。それを認めようとしなかったのは、きっとくだらない私のプライドのせい。それと同じぐらいにくだらない、恥ずかしさのゴマカシ。いつだって瞳子は、素直に自分のコトを確認できない自分に気づかされてきた。
 ようやく認めることができたきっかけが、よりによって細川可南子……。瞳子は、いっそう自分の不甲斐なさに腹を立てた。だけど、その怒りがすぐに覚めてしまうのは、きっと細川可南子のことをそんなに嫌いじゃなくなりつつある自分がいるから。
 だって、彼女は素敵で、そして瞳子なんかよりもずっと、格好良いのだから。たとえ瞳子が自分の気持ちに確かに気づいていたとしても、果たしてどうしたら、あんな風に高らかに自分の心を表現できるだろうか。きっと瞳子には、やろうとしたって、できない。
 瞳子はきっと、祐巳さまの妹になりたかった。
 それは漠然と、妹であることが、恋人であることに同義であると思い込んでいたからだ。だけど彼女の言うとおり、それらは決してイコールでない。本当は恋人でありたいと願う心を、妹という場所に無意識のうちに掏替えていたにすぎないのだ。
 私も、祐巳さまの恋人になりたい。
 くやしいけれど、その気持ちに気づかせてくれた彼女には、すこしだけ感謝せざるを得ない。
(さて、これからどうしよう……)
 可南子に先手を取られてしまった以上、後手にまわるのは瞳子のプライドが許さない。だけど……いままで祐巳さまに自分の心を伝えられなかったのも、このプライドが邪魔していたせいではなかったか。
 祐巳さまに思いを伝えたい。私も、祐巳さまのことを愛していると。祐巳さまの恋人になりたいと。
 だけどそんなふうに可南子の後手を踏んでしまうのは、プライドの高い瞳子からすればとても惨めなこと。
 校舎に近いところまで来て、ようやくハッとする。
 校内からはとても騒がしい声が聞こえる。二年生が帰ってきたことを歓喜する声。
 どちらにしても、ここではひとりで泣くこともできない。
 まずは家に帰ろう。部屋に帰って、せいいっぱい泣いてしまおう。せいいっぱい祐巳さまのことを想おう。
 そうして出た答えには、きっと間違いなんて、ないに決まっているのだから。

      *

 可南子ちゃんに続いて瞳子ちゃんが居なくなり、由乃さんと令さまが居なくなり、志摩子さんと乃梨子ちゃんが居なくなって、すこしだけ席を外すと言ってお姉さままで居なくなって。薔薇の館にひとり、祐巳は取り残される形になった。
 最初にこの場所に溢れていた喧騒は、いまはもうどこにもない。ただ、無意味に広いなぁと痛感するような、そんな空間がここにあるだけ。そんな場所でひとりになって、祐巳にはようやく涙が溢れてきた。
(……え? え?)
 戸惑う祐巳をよそに、涙はどんどん溢れてくる。私はどうして泣いてるんだろうと考えてみても、祐巳にはその理由がまったくわからない。つらいわけでも、悲しいわけでもないと思うのに、とめどなく涙は溢れてくる。
「祐巳、あなた泣いてるの?」
 いつの間にか戻ってきたお姉さまが、そんな惨状を見て慌てた声を掛けてきた。
「どうしてでしょう……別に痛いところも、悲しいこともないはずなのに、不思議にどうしても涙が」
 祐巳が両手で目をこするのを祥子さまが静止して、ポケットから取り出したとても柔らかいハンカチでそれを拭ってくれる。それがあまりにも優しいものだから、祐巳の涙はよりいっそう強く溢れ出してくる。
「それはね、きっと嬉しいからじゃないかしら」
「……嬉しい?」
「そう、可南子ちゃんに好きって言われて、きっと祐巳は嬉しいのよ」
 お姉さまが、優しく祐巳の体を抱きしめてくる。暖かいお姉さまの温もりが、祐巳の心まで温めてくるみたい。
 嬉しい……私は嬉しくて涙を流しているのだろうか。もうこれだけ涙を流すと思考もぐにゃぐにゃしてきて、なんだかもうよくわからない。
 けれど、確かに可南子ちゃんが、私を『好き』だと言ってくれたことは……私は嬉しかった気がする。
「……涙が出てくるときにはね、無理に泣き止まなくてもいいの」
 お姉さまは優しい。祐巳のまわりにいるひとは、みんな優しい。
 みんなが優しくしてくれるから、私はいつだって幸せでいられる。
「でも、可南子ちゃんはせいいっぱい自分の気持ちを伝えてくれたのだから、祐巳はちゃんと悩んで、答えを出して、彼女に伝えてあげなきゃダメよ。時間が掛かっても構わないし、ダメならダメで仕方ないと思うけれど、曖昧なままが一番良くないわ。家に帰ったら、ちゃんと悩んで答えを出しなさい」
「……はい」
 それはお姉さまの言うとおりに思えた。このまま曖昧にしておくのが、きっと一番良くないことなのだと祐巳自身も思う。
 可南子ちゃんの言うように、恋人として、祐巳が彼女といられるかは正直わからない。だけど、ダメならダメでも答えは出さなきゃ。そうしないと、ずるずる先回しにしちゃって、ちょっとずつ可南子ちゃんとは疎遠になってしまうに違いないから。
「……よくできました。素直な子は、私は好きよ」
 そう言ってお姉さまが、抱きしめていてくれた腕を、すこしだけぎゅっとしてくれる。
「いい子にご褒美。鍵を閉めて預けてくるから、校門ですこし待ってなさい。ケーキが美味しい、私のお気に入りの喫茶店があるのよ。そこでお茶でもしましょう」
 そんな風に子供をあやすように言う祥子さまの台詞がちょっと面白いものだから、祐巳はすこしだけ笑ってしまう。それを見たお姉さまも、すこしだけ笑ってみせる。
 祥子さまが、お姉さまでよかったと思う。
 お姉さましか、祐巳にこんなに元気をくれる人なんて。他に絶対いないんだから。

      *

 お姉さまに案内された店は、なんだかもう、外観からしてびっくり。中に入って二度びっくり。
 こう言ってしまっていいのかわからないけれど、女子高生が入る店じゃないって感じ。リリアンの制服は深い色を基調にしてあるから、このお店の中でもそんなに違和感はないかもしれないけれど、普通の学校の制服だとこの店にはきっと入れない。
 装飾は派手ではないのだけれど、質素な作りの中に、溢れるほどの高級感が満ちてる感じ。全部で十席もないぐらいの小さな店だけれど、決して高級レストランや料亭にも負けないだけの空気がある感じで。他にもお客さんは数席いらっしゃるみたいだけど、みんな落ち着いた服装をしている。
 案内に出てきたのは人のよさそうなおばさんで、出てきたほうを見ると、いかにも珈琲好きのマスターという風貌のおじさんが奥でお冷を入れていた。
「今日は奢っちゃうから、なんでも好きなもの頼んでいいわよ」
 おばさんに案内された奥の席に座った後、祐巳がメニューを開く前に祥子さまがそう言った。なんだか祐巳には到底考えられそうにない金額がメニューに並んでいるのではないかと思って怖かったけれど、メニューを覗いてみると思ったよりも良心的な価格。これなら祐巳にも気軽に払える……と思ったけれど、そんなことを言い出したらまたお姉さまはきっと嫌がると思って、祐巳は素直に「ご馳走になります」と頭を下げた。
 祐巳はお姉さまが前に食べて美味しかったと薦められてガトー・オペラを注文し、お姉さまは抹茶のケーキ。飲み物は温かいものが飲みたかったので、ホットティーをふたりとも頼むことにした。
 数分で紅茶と一緒に出てきたケーキはとても冷たくて、チョコレートの味がとても美味しくて、お姉さまがまだ半分も食べきらないうちに、祐巳はそれをペロリと平らげてしまう。
 紅茶のほうもこれがまた美味しくて。テーブルに置かれたティーポットにたっぷりおかわりできる量を置いていってくれるおかげで、久しぶりにお姉さまと楽しく会話をすることができた。

      *

「ねえ、祐巳」
「はい」
「あなた、恋人、という関係をどう思う?」
 お姉さまが急に真面目な顔をしてそう言った。
「あら……ごめんなさいね。せっかく祐巳に元気を出してもらうつもりで来たのだから、ここではさっきの話はしないつもりだったのだけれど……」
「いえ、私もその話をしようと思ってましたから」
 家に帰ってから考えるつもりだったけれどお姉さまが傍にいるほうが心強いから。それに、ひとりで悩むとどんどんどつぼにはまっていきそうで、とても暗い考えにもなってしまいそうだから。
「例えば、恋人同士って、なにをすると思う?」
「ええと、そうですね。一緒に手を繋いでお買い物したりとか、こうやって一緒にお茶したりとか」
 そう言ってから、祐巳は自分の頬がすこしだけ熱くなったのを感じた。
 まるで私がお姉さまと恋人みたいだって、自分で言っているみたいなものだから。
「あと……キスもするわよね」
「そうですね、好きな人とは……キスもしたいです」
 そんなことを考えているから。キス、からそのまま、お姉さまとのキス、を想像してしまったりして。
「それから、なにをすると思う?」
「そ、それからですか……!」
 キスをして、その後。……祐巳だって一応高校生なのだから、その辺の知識は漠然とある。だけどそれは、興味はあっても、普段はできるだけ考えないようにしていることでもある。
「その、女同士の恋人でも、やっぱりその……エッチなことはするのかしらね?」
「え、ええええっ!」
 思わず驚きの声を上げてしまってから、祐巳は慌ててそれを押し込める。ここは静かな喫茶店なのだから、あまり大声を上げるのは良くないことだろう。
 その驚きは、祥子さまが出した疑問に対する驚きというよりも、むしろ祥子さまがそんなことを口にするとは思っていなかった、という驚き。
 だって、祥子さまから、その、『エッチなこと』なんて単語が出てくるとは、思ってもいなかったから。
「そんなに驚かなくたっていいじゃない……」
「……すみません」
 祐巳に思いきり引かれてしまったからだろうか、お姉さまはばつが悪そうな顔をしてみせた。
 でも確かに、祥子さまの疑問はもっともなことかもしれない。
 もしも私が可南子ちゃんと恋人の関係にあったとして、可南子ちゃんと手を繋いで買い物して、キスをして、そしてその後に。……だめだ、そういうことに経験のない祐巳には、なかなかいきなりには考えられそうにない。
「お姉さまは、その……好きな人とは、そういうことを、したいと思いますか?」
 そう祐巳が訊くと、ボッとお姉さまが顔を真っ赤にした。
「そ、そうね……」
 おばさんがさっき暖かいティーポットに交換して祥子さまのカップに注いでいったそれを、祥子さまは中身入りでコースターの上でカタカタ言わせながら、必死に悩んでいる様子だった。
「たぶん、したいと思うわ。好きな人とならやっぱり、そういうこともしたい……」
 お姉さまが悩んでいる間、祐巳も必死に悩んでみた。
 出た答えは、やっぱりお姉さまと同じものだった。

      *

「今日は、すみませんでした」
 ちょうど夕食を終えたころの夜半に掛かってきた祐巳宛ての電話。祐麒に代わって電話口に出た祐巳に、通話先の可南子ちゃんがいきなりそう謝った。
「……だけど、私の言った気持ちに偽りはないんです。私はやっぱり、祐巳さまの恋人になりたい……」
 いまにも消え入りそうな声で、可南子ちゃんが言う。
 電話という無機質な回線を通じても、それを冗談だと思えないぐらい、真摯であることが祐巳にも伝わってきた。だから、下手にごまかしたりすることなんて、祐巳にはできないと思った。
「……一度、すでに可南子ちゃんには失望されちゃってるし、こういうことを言うのも変かもしれないけどさ」
 そう前置きしてから、
「私は本当に、たいした人間じゃないよ。可南子ちゃんが言うほど魅力的な人間じゃないし、それに」
「いえ」
 祐巳の言葉をさえぎると、可南子ちゃんの声がすこしだけ優しいものに変わった。
「祐巳さまが魅力的かどうかなんて、祐巳さまを好きな人だけがわかっていればいいことです。……もっとも、いまの言葉はどなたがお聞きになられたとしても、全力で否定されるでしょうけどね」
「むむ……」
 可南子ちゃんは平然と笑い飛ばしてみせるけれど、祐巳にはそれがどうしてもわからない。
 私なんかのどこがいいのだろう? 私は、祥子さまや可南子ちゃんが持つ魅力の、そのひとかけらさえ持っていないというのに。
「……私は、お姉さまのことが好きなんだよ」
 祐巳は正直に自分の気持ちを伝えることにした。
 可南子ちゃんのことが、好き。だけど祐巳は、お姉さまのことがそれ以上に好き。それが、家に帰ってせいいっぱい悩んだ祐巳が、最後に出した結論。
「知ってます」
「今回の可南子ちゃんのことで私もあらためて気づかされたんだよ。私は、お姉さまの恋人になりたいんだ、って」
「……」
 可南子ちゃんが祐巳に心を伝えてくれなかったなら、祐巳もまた、祥子さまを想う自分の心に、きっとずっと気づけずにいたと想う。
 そういう意味では、むしろ可南子ちゃんに感謝しているぐらいだ。
「祐巳さまが、私のことを嫌いだと言ってくだされば、私も諦められます」
「え?」
「なので、どうかもしそうなのでしたら、はっきりと言っては頂けないでしょうか。私のことが嫌いです、と」
 可南子ちゃんが淡々と言うものだから、なんだか無性に祐巳は腹が立ってきて、
「可南子ちゃんが嫌いだなんて言ってないよ! むしろ可南子ちゃんのことだって、大好きなんだからっ」
「……ホント、ですか?」
「こんな時に嘘はつかないよ」
「じゃあ、私も諦めません」
 えっ、と祐巳は言葉に詰まる。
「祐巳さまが私を嫌っていらっしゃらないのでしたら、私も諦めません」
「で、でも……私はお姉さまのことが」
「構いません。私も祐巳さまのことが好きです」
「……」
 そんな風に強気で言われると、祐巳も言い返すことができない。
「私は、祐巳さまのことが好きなんです。祐巳さまのことを好きになれて、初めて祐巳さまのことを好きな私を、私も好きになれた気がするんです。……どうか嫌いでないのでしたら、片思いのままでもいいので、ずっと好きでいさせて下さいませんか」
 気がつくと、私はまた泣いていた。受話器を涙が濡らしていて。
 なるほど、きっとお姉さまの言うとおりなんだ。
 私は、嬉しくて、泣いてるんだ。

      *

 涙の余韻が残っているところにいきなり電話が掛かってきたら誰だって驚くはず。いきなり鳴り出した受話器を「わわわっ」と取り落としそうになりながらも、祐巳は慌てて通話のボタンを押す。
「はい、福沢です」
「あ……祐巳さまですか?」
「その声は、瞳子ちゃん?」
 電話の向こうから聞こえる瞳子ちゃんの声は、なんだかいつもの強気な瞳子ちゃんとは程遠いくらい、元気がない声。
「……なんだか涙声ですね。都合が悪いのでしたら、今日でなくても構いませんが」
「あ、ううん、大丈夫。どうしたの?」
「あのですね、もし祐巳さまさえ良ければ、明日……」