■ 5.「素絹の裸婦(前)」

LastUpdate:2008/01/21 初出:web

 授業で利用することも多いから、慣れ親しんでいる第三美術室の光景。
 けれど彩井学園に在る美術室の中では最も手狭なその特別教室は、ただキョージュさんが暗幕を掛けてしまうだけで随分といつもとは違う雰囲気を見せてくるかのようで。慣れ親しんでいる筈なのとは裏腹に、不思議な緊張感のようなものを如月は感じずにはいられなかった。
 もちろん暗幕を引いたとはいえ、蛍光灯の光に満たされているから部屋の中は十二分に明るいのだけれど。廊下と美術室とを繋ぐふたつの引き戸の窓にもカーテンが掛けられてしまえば尚更、どこか外界との光の接点を失って部屋毎遮断されたかのような、そんな気分さえ抱かせてくるようにも感じられる。授業で使うときとは違って――如月は内心で、それだけで心に密かな高揚感めいた感情さえ覚え始めていた。
 光の繋がりが失われると、まるで音さえも外からは届かなくなったようにも思えてしまう。放課後の今ごろには雑音はもっと絶えず外から聞こえてきてもおかしくないぐらいなのに、如月の耳には僅かにさえ届いては来ない。本当に二人きり、どこか切り離されてしまったかのような感覚が、はっきりと心の中にはあった。
 最後に鍵を掛けてしまって部屋の準備が終わると、キョージュさんがちらっとこちらを一瞥してくる。何かを促されたわけではないのだけれど、それだけで如月はするべきことをはっきりと自覚して、その場に立ち上がった。
「寒かったり、しないだろうか」
 キョージュさんが掛けて下さる言葉は、二人が初めての交歓を求め合った最中に掛けて下さった言葉と全く同一のもので、カチカチに緊張していた如月の表情はそれひとつでたちまち破顔させられてしまう。もしかしたらキョージュさんも緊張して下さっているのだろうか――そんなことを考えるぐらいの余裕が出てきて、そう想ってしまえば尚更、無意識に溢れさせられてくる小さな笑みが如月の躰に蟠った緊張感をゆっくり溶かしてくれるようにも感じられていた。
「大丈夫です。……脱ぎますね」
 本当は少しだけ、教室に漂う空気はまだ冷たかったけれど。
 この程度の寒さなんて。きっとキョージュさんと一緒にいられさえするなら、この身に届きはしないのだと。あれから幾度となく交わしてきた逢瀬の経験から如月は学んでいた。今日は裸で求め合うことが目的ではないから、躰に触れてくれる温かな手のひらや指先を求めることは叶わないけれど、それでもキョージュさんの傍にいられるならきっとそれだけで、じんと込み上げる不思議な温かさがあるだろうから。
 ブレザーを脱いだ後、緩めたスカートをずり下ろして取り払う。さらにはシャツのボタンを外して脱いでしまって――事実、そこまで脱いでしまっても如月は寒さを漠然とした感覚以上には感じることができなかった。寒さで服を脱ぐ指先がもたつくこともないし、緊張感で指先が震えるようなこともない。激しい熱情の内で求め合う機会を重ねていく度に肌を露出することの緊張は薄まっていて、今では下着姿程度では恥じるべき所もなくなってしまったかのようでもあった。

 

 

「――如月殿の、裸を描かせては貰えないだろうか」

 

 数日前の放課後。みんなと別れて二人きりになった後にキョージュさんから言われたとき、如月はそれをあまり『特別なお願い』だとは思わなかった。
 だってキョージュさんからお願いされなくても、きっとあと数回の逢瀬を交わす内には如月の方からお願いしていたと思うから。幾度となく躰を触れあわせてきて、幾度となく相手の裸体を眼に焼き付けてきて。相手の躰を描き留めておく為の技術も知識も私たちにはあるというのに、それで相手のことを描きたくならないほうがどうかしていると思う。
 だからキョージュさんからそうお願いされても、先に言い出すのはキョージュさんのほうが早かったな、程度にしか如月は思わなかった。愛し合っているというのなら尚更、たぶん私たちがお互いを描き合うことを求め始めるのはあまりにも自然なことで、たぶん本当に特別でも何でもないことだから。
 もちろん断る理由は無くて。快諾する傍らで、如月は「次回は私にも描かせて下さいね」と付け足すことも忘れない。キョージュさんもまた、すぐに如月の望みを快諾してくれて。
 それから――キョージュさんが場所を手配して下さって、今日を迎えたのだった。

 

 

「はあ、っ……」
 もう慣れてしまったから、感じないと思っていた恥ずかしさ。けれど下着までもを脱ぎきって生まれたままの姿になってしまうと、さすがに熱い溜息が自然と如月の喉元からは漏れ出てきてしまう。教室の空気に白く溶けていく熱い吐息が引き出されている以上は、恥ずかしさから躰が熱くなってしまっていることを自覚しないではいられない。蛍光灯がびっしりと点いた美術室の中……こんなに明るい部屋の中でキョージュさんに裸を見確かめられてしまうのは初めてのことで、恥ずかしさの要因はきっとそれなのだと思う。
「……隠さないで」
 何一つ無理強いするところがない、優しい言葉。けれどキョージュさんからそう求められてしまえば、もう如月には自分の躰の恥ずかしい部分を覆い隠すことは許されなくなってしまう。乳房、そして下腹部。覆っていた手のひらを逸らせば、冷たい空気が直に敏感な箇所に感じられてくる。
「きょ、キョージュさんっ……」
 冷たい不安が少しだけあって、無意識に愛しい人を呼ぶ。
 けれどキョージュさんはふるふると静かに首を左右に振って、そして、
「いつものように、雅と呼んで」
「あ、すみません。……雅さん」
「うん」
 名前を呼べば、小さく微笑んで応えてくれる。
 最近になって如月には、キョージュさんの。……雅さんの、笑顔が判るようになってきていた。そして同時にこうした優しい笑顔を見せて下さるのが自分だけだとも判ってしまって、だからこの優しい笑顔を見せられてしまうと、それだけで嬉しさで胸がいっぱいになってしまう想いがした。
 ふと、全裸の如月の躰に、静かに雅さんが何か布を掛けて下さって。
 それは、ごく薄い素絹みたいだった。おそらく裸婦画のアクセントとして用意されたのであろうそれは、如月にとって恥ずかしい箇所を隠す為にはなんの寄る辺にもなりはしない。けれど何の華やかさを持たない装飾でも、それを躰に掛けて頂いたことで、いよいよ自分のことを『作品』として描いて下さるのだという意識が如月の胸の裡では高まってくる。
「今回は素描だけだから。ゆっくりやっても、二時間掛からないと思う」
 頷いて答えると、それを見確かめた雅さんはすぐに鉛筆を走らせ始める。気持ちの切り替えなんて必要ないみたいに、雅さんの表情にはもう授業の時に見せる『芸術家』の顔が見えているみたいだった。
 きりっと締まった凛々しい視線が、時折貫くように躰に突き刺さってくる。左右の手は躰を隠してしまわないように、それぞれ椅子の座面に触れさせているから、雅さんの鋭い視線はそのまま隠せない恥部に降り注いでくるようで、それだけで躰は否応なく昂ぶらされる思いだった。
「そ、そういえば、どうやってこの教室を借りられたんですか?」
 恥ずかしさを紛らわせたいという想いのせいか、ふとそんなことを訊いてしまっていて。訊いてからすぐに「あっ」と如月は口元を押さえて後悔してしまう。
「……すみません、集中しているのに、邪魔をしてしまいました」
「ああ」
 申し訳ない気持ちから頭を下げて謝ると、雅さんは首を振って否定してみせて。
「いや、大丈夫だ。この絵は課題なんかと違って別に誰に見せるわけでもないし、元々個人的に書き留めておきたいだけだから。……だから、こちらこそすまない。描くことに集中して、如月殿を退屈させるのは本意じゃないんだ」
 雅さんはカリカリと鉛筆を走らせる手もそのままに、いつもの表情に戻って、優しく言葉を掛けてくれた。
「変に熱中するのは私の悪い癖だな。……何か、雑談でもしよう」
「……すみません」
 どんなに見られても、隠すことが許されない。その恥ずかしさはじっとしていて拭えるものではなくて、だから素直に如月はその好意に甘える。
「ここの教室だが、外間先生に借りた。快く貸して下さった」
「……ということは、外間先生には私たちの関係がバレたかもしれませんね」
「いや」
 雅さんは、首を左右に振る。
「裸婦画を描きたいとは言ったけれど、相手が誰かとは言わなかったから。だから如月殿のことを描いていることさえ、外間先生は知らないのではないかな」
 そう、答えてみせて。
 けれど雅さんは……今度は如月にではなく、まるでいま発した自分の言葉に向けて否定をするように、もう一度首を左右に振ってみせた。
 そんな妙な言葉仕草の意味が、けれど如月にはなんとなく読み取れて。
「気付いていらっしゃる……かも、しれませんね」
 だから如月は、小さくそう口にする。
 その言葉に、今度は雅さんも頷いてくれた。
「外間先生なら、たぶん理解して下さるだろう」
 雅さんの言葉に、如月もまた頷く。外間先生なら、たぶん私たちの関係を知っても咎めることはしない。咎めることも後押しすることもせず、ただ黙認していて下さるように思えたから。
「如月殿」
「あ、はい」
「もしも如月殿さえ良ければ……話したいと思うのだが」
 誰に対して。何を、話したいのか。
 雅さんの言葉には主語からして足りなかったけれど、如月はすぐにその言葉の真意を読み取ることができた。……如月もまた、同じ気持ちを抱えていたからだ。
「私も、そうしたほうがいいと思います」
 だから明確な意志を統べて、如月もそう推す。
 私にとって最も大切な人は雅さんに他ならないけれど、だからといって他のみんなが大切でないことにはならない。かけがえのない親友たちだから、できれば真実を打ち明けたいと如月もまた思って止まなかったのだ。
「……明日、話してもいいだろうか?」
 訊かれて躊躇いもなくすぐに、如月は頷く。
「私も、一緒にお話しますから」
 話すことで何かが変わってしまわないだろうか。――そうした畏れはもちろんある。同時に、きっと何も変わらないと、対峙する親友への信頼もある。私たちの関係についてノダちゃんやトモカネさん、ナミコさんがどう判断して、どう思うのかは判らないけれど。例えどう思われるのだとしても――如月はこれ以上、この関係を秘密にしておきたくなかった。
「ありがとう、如月殿」
「そんな……そんな風に、お礼なんて言わないで下さい」
 ふるふると、如月は首を左右に振って拒む。
「キョージュさんばっかり、好きになったと思わないで下さい。私だって……私だって、すごくキョージュさんのことが好きなんだからっ……!」
 喉を詰まらせるような声で如月は訴える。
 気付けば呼称も、慣れているものに戻ってしまっていて。
「そうだね、二人で好きになったんだ」
 けれど雅さんはそれを咎めずに、ただ頷いて下さった。
「だからみんなに、二人で打ち明けよう」
「……はい!」
 優しい瞳で、みつめてくれる最愛の人がいる。
 そのことがより一層、如月の倖せを確かなものにしてくれるのだった。