■ 7.「恋情は幻想の理(前)」

LastUpdate:2008/04/17 初出:web

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 初めてお互いの躰を求め合った頃のことを、霊夢はもう、詳しく覚えていない。
 まだあれから三月も経ない程度の、ほんの少し前のことの筈なのに。
 咲夜と愛し合ったあの日から。それまでの日々があたかも嘘か幻であったかのように、私の中の世界は――豹変した。
 例えば、咲夜と一緒に過ごす事ができる一日。それは霊夢にとって、今までのどの一日よりも充実した一日で。
 逆に……咲夜と一緒に過ごすことができない一日。それは、どんなに辛い想いをした過去の日よりも淋しく、長く感じられる一日になった。
 たった三ヶ月、という言い方は決して適切ではない。
 満ち足りた三ヶ月もの蜜月。霊夢と咲夜は数え切れないほどのデートを繰り返し、数え切れないほどのキスをしてきた。……もちろん、そうして親密な時間を重ねた日々の殆どを、濃密な交歓を求め合う逢瀬で締めくくってもいる。

 永い、永い三ヶ月。
 けれど、濃縮に濃縮を重ねた、蜜月の中では。
 霊夢からも、咲夜からも。
 どちらからも……「愛している」という言葉を、告げたことは無かったような気がした。

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 ふと、そのことを夢に想った気がして。
 未だ朝影も確かめられない程の、暗く静かな世界の中で。霊夢はそっと目を覚ました。
(どうして今更になって、そんなことを……)
 心の中で、霊夢はひとりごちる。
 恋愛で大切なのは常に現在と未来に纏わることであって、現実として『愛し合って』いる現在があるのだから。始まった頃のことなんか思い出してもきっと意味が無いことで、まして言葉ひとつのことなど、今まで意識したことさえ無かったのに。
 眠りなおそうかとも思ったのだけれど、変に心がざわめいた中ではもう一度睡魔を誘うこともできなくて。仕方なく未だ布団の中に身を委ねたまま、眠ることを諦めた。
 隣には、まだ静かな寝息を立てている咲夜の姿がある。
 ――手を伸ばせば、触れることができる距離に愛する人が居てくれる。それ以上に望むべきことなど、ある筈がないのだと、きちんと理解しているつもりだったのに。
(まだ不安が、あるのだろうか……)
 もしかしたらと、そんな疑問さえ心の中には沸く。
 紅魔館の仕事を殆ど一手に引き受けている咲夜が、忙しくない筈がないのに。それでも咲夜はなんとか暇な時間を作っては、こうして霊夢の元まで遊びに来てくれている。本当は暇な霊夢のほうからこそ出向くべきなのに……咲夜が頑張って足繁く通ってくれている事実に甘えて、いつも霊夢は迎え入れる側ばかりで。
 咲夜が霊夢の為に費やしてくれているのと同じだけのものを、きっと霊夢は返せていない。
 愛は無償こそが尊いという。でもそれは……たぶん真実でないと霊夢には思えた。愛している人になら何でもしてあげたいと思うけれど、愛していればこそ、相手からもまた自分に対して何かを与えて欲しいと希う心もあるからだ。だからもしも咲夜が霊夢に対して不満や、あるいは不安を抱いているとしたら、それは当然のことだとも思えるのだけれど。
 なのに、霊夢のほうが不安を抱くだなんて。
(……烏滸がましい、こと)
 そう、思えた。
「霊夢……?」
 不意にすぐ隣から、愛しい声が霊夢の名前を紡ぐ。
「ごめんなさい、起こしてしまった?」
「いいのよ。霊夢が起きているなら、私も起きていたいから」
 起きたてでさえ、彼女が囁き掛けてくれる言葉には隙がなくて。優しい言葉ひとつで、たちまち霊夢の心は嬉しさで満たされてしまう。
 交わす言葉はそれだけで途切れて。咲夜はそれ以上には何も言わず、ただ布団の中でそっと霊夢の手を探り当ててぎゅっと握ってくれた。霊夢もまた握り返すように力を籠めると、暖かな布団の中でもより温かな咲夜のぬくもりが直に伝わってきて、それだけで倖せをとても身近に感じられるのだから不思議だった。
 冴ゆる冬の風が雨戸を鳴らす中でも、泣きそうなぐらいに温かな世界があって。――だというのに、何を不安がる必要があるというのだろうか。
「ねえ、咲夜」
「うん?」
「私に……何か、あなたのためにできることはない?」
 霊夢が訊くと、咲夜は少しだけ怪訝そうな顔をしてみせて。
「私も、あなたに何か返したいのよ」
 けれど、霊夢がそう付け加えると、すぐに得心したように頷いてくれた。
 暗い部屋の中でもすっかり順応した眼だから、霊夢には咲夜の顔もきちんと見確かめることができる。頷いてくれた後の咲夜の表情は嬉しそうに見えて、けれど同時にどこか困り顔のようにも見えた。
「そんなの気にしないで。――頻繁に通うのも、雪の中を霊夢に逢いに来るのも、私が好きでやっていることだわ」
「そうはいうけれど……」
 咲夜が与えてくれるもの。それに見合うものを自分が返せていないというのは、それはそれで淋しいものなのだ。
 まして咲夜はどれだけ霊夢なんかの為に尽くしてくれているだろう。思えば思うほど、淋しいというよりもただ申し訳ない気持ちばかりが心には募るばかりだった。
 ……けれど咲夜の為に、自分が何をしてあげられるのかが判らない。冬の寒い中を逢いにきてくれるお返しに、こちらからも会いに行きたいとは思う。けれど他でもない咲夜が、霊夢が紅魔館に来ることを「ここは職場だから」と言って好まないから、それさえも霊夢にはすることができなくて。
 思い詰める霊夢の心を見て取ったのか、咲夜ははあっと大きな溜息をひとつ吐いてみせて。
「……わかったわ。じゃあ霊夢に、ひとつだけお願い」
「うん。何でも言って」
「どうか、これからもずっと。……私のことを嫌いにならないで」
 咲夜が口にしてくれた言葉は、何よりも嬉しい言葉だったけれど。
「……駄目よ。そんなお願いじゃ、駄目」
 嬉しさを灼き付けるように心に留めながらも、気持ちとは裏腹に霊夢は首を左右に振って咲夜の言葉を拒む。
「もっとこう、安直というか、即物的というか。そういうのにして欲しいのだけれど」
 第一、そんなことは願われるまでもなく、当たり前のことだから。
 もっと今すぐにでも咲夜に返せそうな。そんなことを、咲夜には望んで欲しかった。
「そう? ……それじゃあ、やっぱり」
「んっ」
 布団の中で、霊夢の寝着の中に差し込まれてきた咲夜の指先が、直接に霊夢の肌に触れてくる。指先は冷たくなかったけれど、あまりに不意をつかれた感触だったので、少しだけびっくりもしてしまう。
「……していい?」
 未だどこか驚かされながらも。
 もちろんその誘いを拒む理由なんて、霊夢にはなかった。