■ 1.「目覚め」

LastUpdate:05/04/15

 まるで植物のように、心を持たずに生きることができたら。
 それはどんなに淋しくて、けれど楽な生き方だろうと思う。

 

      *

 


 ――ハッとする。

 後者の壁に体を預けながらも、ふらっと倒れそうになった体のバランスを、志摩子は慌てて持ち直した。
 最近、そういうことが多い。意識を一瞬失うというか、あるいは考え事のあまりに現実が見えなくなるというか。そんな瞬間が、志摩子に唐突に襲い掛かってくる。
 けれど、それに気づくのはいつも事後。こうやって倒れそうになったり、時には実際にへなへなとへたり込んだりして、ようやく僅かに意識を失ってしまっていた自分に気づく。そして、そうしたあと後からどうして意識が飛んでいたのか思い返そうとしても、いつだってそうした理由が思い出せないのだ。
 こんな風になったのは、本当に最近のこと。
 ずずず、と背中を校舎の壁に擦らせながら座り込む。目の前には、志摩子の中で最も大切な桜がある。
 今年もこんなにも綺麗に咲いた、桜。それに対して心のどこかでは「妬ましい」と思う気持ちを不思議と抱えてしまっている自分を、志摩子はどこかで理解していた。
 それが、どんなに変なことかだって、きっとわかっている。
 桜は今年も去年と違わず、期待を裏切らず、ただ雅に咲き乱れた。
 けれど――けれど、私はどうだろう。
 桜はこんなにも今年も綺麗に咲いたのに、私は。
 桜と共に紡がれてきた志摩子の思い出には、良い思い出だけが紡がれているはずだった。それもその筈で、何しろこの桜は志摩子にとってかけがえのない彼女、乃梨子との出会いを与えてくれたのだから。それを上回るほどの歓喜が、どうしてあるだろうか。
「あっ……」
 しゃがみ込んだ身を、志摩子は少しだけ竦ませる。
 ひときわ強い風が、細い校舎脇の道を駆け抜けた。暖かな季節の告げるはずの満開の桜も、けれど今年は少しだけ日時を取り違えたらしい。春まっただ中だというのにまだまだ冷えた空気は、特に小高い場所に立てられた学園ではなおさら冷たく感じられてしまうというもの。
 遠くて、校舎の予鈴が鳴っている。昼休み終了五分前を告げている、予鈴。
 志摩子は体を起こして立ち上がろうとする。けれど、上手く体が動かない。
 体が、ガクガクと震えていた。
 その理由を寒さのせいだけにしてしまえるほど、志摩子は自分の心の程を理解していないだけではない。
 失ったバランスは、体だけじゃない。心のバランスが、ぐらぐらと不安定に志摩子の裡で揺れている。
(ああ――)
 乃梨子ただひとり以上のものなんて、何も望みはしないのに。
(違う、私が妬んでいるのは、桜じゃなくて――)
 満開に咲き乱れる桜。その派手で人の目を引く煌びやかな美しさは、志摩子の対極にあるものだから。
 桜のように眩しい彼女が。乃梨子の傍で、いつだって目を引く彼女が。
 それが、いかに醜い感情かは、志摩子にもすぐに理解できてしまう。
 それでも志摩子は乃梨子以上のものを何ひとつ望むわけではない。乃梨子だけさえ傍にいてくれればいい。ずっと乃梨子の傍に居たい。
 その志摩子の懇願にも似た願いを、容易く手に入れてしまっている、桜のような彼女が。
(ダメね、私は。弱い――)
 志摩子が欲しいと願っているものを持っている彼女。それに対してもはや憎悪に近い感情を抱きつつある自分が見えてしまう。それが、いかに愚かしいことかぐらいわかっているのに。
 それでも、心が過重量に耐え切れない木材のように、音を立てて軋んでいくのを止められない。
 ――また、ひときわ強い風が吹いてくる。
 その風が行き着くのは、志摩子の素肌にではない。志摩子の裡で吹いたハッカの風が、まるで濡れた素肌に吹き付ける冬の冷たい風のように。深く深く、鋭い場所から志摩子を心を切なく凍えさせていた。

 

 それでも、その時にはまだ、二人の関係が「仲のいい親友」というレベルでしかないと、漠然と志摩子は思っていたから。だから、心で傾いでいく感情にも好都合な言い訳をすることで、なんとか自分を保つことができていたのだと思う。
 それは心の裡のどこかで、私がこんなに想っている感情と同じようにきっと乃梨子もまた私のことを想っていくれるのだという不思議な自信が、なぜか志摩子の中にはあったからだ。本当に盲目的なほどまでに私は乃梨子だけを見ていたから。だから、それは何か理由があってそう思ったのではなくて、寧ろ「そうあって欲しい」という願望にも似た希望的な観測が大要を占めていたのではないだろうか。
 けれど――それが真実ではないと。私は知ってしまった。
 あんな現場にさえ居合わせなければ。私はきっといつまでもその妄想に縋っていられたのだろう。

 

      *

 

 けれど、志摩子はいつまでも夢の世界に漂ってはいられなかった。
 事の発端はちょうどその日の放課後のこと。いつも通りにホームルームを終えて手持ち無沙汰になると、薔薇の館へと移動する。
 ちょうど新入生の歓迎式典であるマリア祭を終えたばかり。忙しい時期をようやく乗り越えて、薔薇の館はまだ誰も来ておらず閑散としていた。仕事も一年生から回収した祭典後アンケートの集計だけだし、今日は数人しか顔を出さないかもしれない。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 ステレオの声と共に姿を見せたのは、乃梨子と瞳子ちゃんの二人。
 制服の袖や肩がともすれば擦れ合う程に、近い距離で寄り添っていた二人を見て。
 ズキッと、重い痛みを伴った衝動が体を走った。

 

 ――嫉妬の感情。

 気づけば、いつだって二人は一緒に居た。
 こうして薔薇の館に来るとき。志摩子が一年の教室を訪ねた時。
 始めは「同じクラスだから」と割り切っていた。それからは「友達同士だから」と言い訳し続けた。
 二人の関係を認めたくなかった。

 

「……志摩子さん、聞いてる?」
「……えっ?」
 乃梨子の声で、ふと我に返る。
 いけない……また、意識が飛んでいただろうか。
「もう。……最近志摩子さんぼーっとしてるけど、大丈夫?」
 覗き込むような、近い距離で感じる乃梨子の視線。私はそれをまともに受け止められるほど、平静ではいられない。
「だ、だいじょうぶ、大丈夫よ。どうしたの?」
「あ、えっと、ね。教室に忘れ物したから、ちょっと瞳子と取りに行って来るね」
「ええ、いってらっしゃい」
 いつの間に薔薇の館に来ていたのか、志摩子の向かいの席に座っていた祐巳さんと一緒に二人を送り出す。
(……瞳子ちゃんと一緒に?)
 そうしてからようやく、ハッとして気づく。うつらうつらとしていたものだから、普通に「いってらっしゃい」なんて送り出してしまったけれど。
 どうして忘れ物を取りにいくのに、瞳子ちゃんを伴う必要があるのだろう。
(いけないいけない。考えてはダメ――)
 祐巳さんが来ていたのにも気づかなかったぐらいだから。相当長い間私はぼーっと昏朦状態に陥っていたのだろう。
 乃梨子の存在が志摩子の心を熱くさせる。そして、瞳子ちゃんの存在が氷のように冷たい風をいつだって志摩子の心に滾らせていた。
 いつだって、乃梨子のことを思うだけで躰が火照る。同時に、嫉妬とも憤りとも取れる瞳子ちゃんに対する嫉妬や憎悪の念が、火照った志摩子の心に氷の鋭さで苛んでくるのだ。
 乃梨子のことを夢見ては幸せだった過去がある。けれど、それはいつかの過去でしかない。今もまだ夜ごとに乃梨子の夢を見るけれど、それはいつだって瞳子ちゃんという存在を伴って志摩子の夢に訪れた。だから志摩子が朝になってようやく目覚めるときには、たとえ冬であっても寝巻きに大量の汗を滲ませながら、絶望のような不快感の淵に堕とされながら目を覚ますのだ。
「……やっぱり、志摩子さん、変」
「えっ」
 向かいの席から、祐巳さんが声を掛けてくる。
「大丈夫? 急に暖かくなったから、風邪でも引いたんじゃないの?」
 祐巳さんの優しい心配の声。でも、それが今は志摩子をさらに辛くさせた。
 自分で勝手に傷ついて。勝手に惨めに落ち込んで。あまつさえ親友に心配まで掛けてしまって。
「ごめんなさい、ちょっと頭を冷やしてくるわ」
 私は、その場にそれ以上いられはしなかった。
 祐巳さんの静止する声が聞こえたけれど、私はそれに振り向かずに、ただ黙々と薔薇の館を後にした。

 

      *

 

 何も望まない。誰にも触れない。だから、誰からも触れられずに望まれない。
 中学までのかつての私は、それを信条とさえしていた。自分からは誰を求めもしない代わりに、誰からも決して求められることがない。そんな自分を形成することを理想としていたし、その為に努力だってしていた。
 求めたり、求められたりすること。それを煩わしいことだと思っていたきらいさえある。実際、それは時に煩わしくさえなってしまうことだ。自分ひとりで生きることとは異なって、誰かと生きるうえで関わっていくことは儘ならないということでもあるから。
 幸せになりたい、という意識がもともと菲薄であったこともあるのだと思う。だから、生きていくうえで誰かと一緒に歩いたり、寄り添いたいという感情が元々欠落していたのかもしれない。実際、中学生と言う思春期の三年間の間で、いかに女子高であったとはいえ一度も男性に対して特別な感情を覚えることさえなかったのは、我ながら異常のようにも思えてしまう。
 中学生までの私が描く、私自身の未来のビジョンでは――未来の私はずっと独りきりだったではないか。

 

 近くの水道場で蛇口を捻る。パシャパシャと顔を洗って、はっきりしない意識と眼をこじあけようとする。
 春になってもやはり水道から出てくる水は冷たく、思いのほか意識ははっきりとしてきた。いまなら、多少の同様も上手く隠せるかもしれないし、二人が一緒に居る姿を見ても笑顔ぐらいなら浮かべていられるかもしれない。
 乃梨子と、瞳子ちゃん。――二人の関係は、いったいどういうものなのだろう。
 そういえば、と思う。二人が薔薇の館から出たのは結構前のこと。忘れ物を取りに行っただけだというのに、二人は未だに戻ってこない。
 薔薇の館の近くの水道場。運動部がよく利用するここの傍を通らなければ、校舎から薔薇の館へ行くことはできない。だから、志摩子が二人の姿を見ていないということは、二人はまだ戻ってきてはいない、ということ。
 好奇心ではない、と思う。そんな俗な感情ではなく、真摯に「乃梨子と瞳子ちゃんとの関係を知りたい」という気持ち。それが、志摩子を動かした。
 もしも二人が薔薇の館に戻ってくることがあれば、行き違いにならないように。最短のルートを通りながら一年椿組へと向かう。
 気がつけば、足早に。私は真実を知りたいという一心で……願わくば、心に一瞬想像してしまった冷たい二人の関係の妄想が嘘であることを願いながら。
(――ああ、いけない)
 また、悲しい考えになっていく思考を、ぶんぶんと首を左右に振って振り払う。
 冷静でいなければならない。もしも二人が戻ってくるところに行きあっても、笑顔を作れるように。
 そして、もしも悪い予感が的中し、二人の親密な姿を見てしまっても……。
 私は乃梨子のことが好き。だから、もしも自分の望む乃梨子の姿を見てしまった場合に、自分の欲求と乃梨子の幸せと、どちらを優先しなければいけないかぐらいわかってる。……わかっているはず。
 一年椿組の教室まであと十メートルといったところ。人影はなく、志摩子は半ば無意識的に廊下にパタパタと響かせていた自分の足音を消すように、静かに歩みを進める。
 あと五メートルの距離になると、何を話しているのかわからないけれど、教室の中から声が聞こえた。
 あと三メートル。二メートル。一メートル。志摩子は、こっそりと窓から教室の中の様子を覗き込む。

 

 ――悪い予感は往々にして的中する、と言ったのは誰の台詞だっただろう?
 冷静に保ってきた筈の思考が一瞬のうちに瓦解して、涙が幾条にも涙の線を頬に走らせた。
 それでも志摩子はなんとか中の二人に気づかれないように、ひっそりと音をしのばせながら廊下に崩れ突っ伏すことができた。
 とめどなく、どこまでも涙は溢れてくる。
 座り込んでみてわかったけれど、志摩子がいる教室の後ろ側の扉は閉じきっておらずに、少しだけ開いているようだった。
 志摩子は立ち上がらずに座ったまま、こっそりとドアの隙間から覗き込む。
 数メートルは離れているはずなのに――まるで志摩子にはその教室のすぐ傍で見ているかのように。二人の息遣いまで聞こえてくるような、生々しいぐらいリアルな程に中の二人の様子を伺い知ることができた。

 

      *

 

「いやらしい匂い……瞳子の匂いだね」
「なっ!? そ、そんなこと……!」
 乃梨子が、瞳子ちゃんのスカートを捲った先。白いショーツに包まれたそこに顔を近づけて、顔を近づけて鼻をくんくんとわざとらしく鳴らしてみせた。瞳子ちゃんがそれに対して嫌悪感からか激しく抗議の声を上げる。けれど、抵抗はしない。
「やりにくいから、持ってて」
「……あ、はい」
 乃梨子に促されて、瞳子ちゃんは自らの両手で自分のスカートをたくし上げる。両手が自由になった乃梨子は、厚いスカートによる護りを失ったそこに右手の指先を這わせた。
「はあっ……」
 瞳子ちゃんの吐息が漏れる。始めはゆっくりだった指先の動きは徐々に加速していき、ショーツの布地の上からではあるものの、やがて暴れ踊るように布地の上で激しく動き回る。指先の爪と布地が奏でる音までもが本当に聞こえてくるほどで、だからそれが薄い布地を挟んでいるからといって決して軽い愛撫でないことは想像に難くない。
「んはあ……! ちょ、の、乃梨子さん……っ!」
 リズムが加速すれば、瞳子ちゃんの声も高い音程になる。そんな瞳子ちゃんの反応に満足したのか、乃梨子は開かせていた瞳子ちゃんの両足を一旦閉じさせると、ショーツの両端に手を添えた。
「ちょっとだけ、腰を浮かせてくれる?」
 乃梨子の命令におとなしく瞳子ちゃんは従う。するするとショーツがお尻から抜かれ、膝の辺りをすぎて脚から完全に抜き取られる。そうしたあとで再度乃梨子は瞳子ちゃんに脚を開くように命令し、瞳子ちゃんはそれに逆らわなかった。
「いつみても、瞳子のここ、綺麗……」
「や、やだっ……!」
 乃梨子の指先がゆっくりと瞳子ちゃんの下腹部を責める。もはや護られるものを失った瞳子ちゃんはその指先が与えてくる刺激をただ直接的に甘受することしかできないらしくて、くねくねと身を大きく捩らせた。
「ふああああ……!」
 喘ぎの嬌声が上がる。目を強くつぶって、けれど涙を流している瞳子ちゃん。そしてそれとは対照的なほどに、妖艶に微笑んでいる乃梨子。
「そんなに大きな声をあげて……廊下を通る人に気づかれても、知らないよ……?」
 ハッとしたように瞳子ちゃんは大きく瞳を見開き、廊下のほうを警戒してみせた。

 

      *

 

 志摩子もまた警戒されるのを恐れて、すぐに扉の死角に姿を隠す。ちょっと置いてから再び瞳子ちゃんの嬌声が聞こえてきたところをみると、どうやら気づかれてはいないようだった。
 責められていたのは、もちろん瞳子ちゃんだ。なのに志摩子の肌にはたくさんの汗が滲み、まるで自分が責められていたかのように吐息は荒く、自分の脈拍の音まで聞こえてしまうぐらいに体が火照っていた。
 このまま覗き続けたい、という誘惑もある。けれど、それ以上にどうしようもなく昂ぶってしまって行き場のない衝動が、志摩子の中でゾクゾクと拉いでいた。
 音を立てないように気をつけながら、ゆっくりとその場から遠ざかる。
 忍び足のまま遠ざかること十数メートル。それぐらい離れたところにある女子トイレに急いで駆け込み、個室に入って鍵を掛ける。
 これだけ離れていれば、よほど大きい声を上げてしまってもあの教室まで届くことはないはず。
 もう、自分の中で溢れんばかりの衝動が、どうにも抑えきれない。
 便座に腰掛けて、そうして自分のスカートをゆっくりと捲くってみる。
 白いショーツのそこに、少しだけ濡れた沁み。

 『いやらしい匂い……志摩子さんの匂いだね』

 心の中で思う乃梨子が。乃梨子が志摩子を責めてくる。
(ああ、乃梨子……!)
 志摩子はスカートを自分の口に銜え、そして自由になった両手でショーツの上から秘所を優しく愛撫する。
「ふうっ……!」
 軽く撫でるだけで、驚くほどの快感が志摩子の脳を蕩かしていく。その刺激が志摩子を満たし、新たに渇きに似た欲求を導く。だから志摩子もその欲求に応えるようにさらなる愛撫をそこに課す。
「んふううっ……!」
 だから、志摩子が自分の手でそこに刺激を与え続ける限り、それはエスカレートしていくばかりなのだ。事実志摩子の指先の動きはより速く、そして鋭く敏感な箇所へと付与され続ける。
 シュッシュッと幾度も幾度も生地を擦り続ける爪の音がトイレの個室の中に響く。
 ある程度にまでボルテージが達したところで、志摩子は自分に課す責めの手を突然中断する。両足を閉じて、キュッと眼をつぶる。

『ちょっとだけ、腰を浮かせてくれる?』

 乃梨子の声が志摩子の脳内でリピート再生される。脳裏に焼き付けられたさっきの乃梨子が命令してくるそれに志摩子が抗えるはずもなく、閉じた両足と少し浮かせた腰からは、もはや何の苦もなく簡単にするするとショーツを抜き取られていった。
 腰を落ち着けると、今度は脚を開かされる。最後の防御壁を失ったそこに、愛撫の手が這う。
「ふうんっ……!」
 たった布地一枚。それが、いかに刺激をガードしていたかがわかる。今の指先が与える刺激は、そのひと擦りひと擦りでさえ、志摩子から思考力や理性を取り払うのに十分な威力を持っていた。すぐに何も考えられずに、ただ自身のそこに愛撫の手を這わせるだけになる。
「ふああああっ……!」
 銜えていたスカートの端も落とし、ひときわ大きく上げてしまった声。このまま続ければすぐに絶頂が来るのは間違いなく、事実それを求めてスカートの中で志摩子の指先の責めの手は休まらない。

  ――ドンドンドン!

 びくっ、と志摩子の体が震える。打ち鳴らされた壁のその打撃音は他でもない、志摩子が入っているトイレの個室のドアを叩き、打ち鳴らされた音だったからだ。
(――誰かが居る!)
 ドアの前に誰かが居るのが、トイレの電灯が映し出す影、個室のドアの下から見える僅かな影で簡単に見てとれた。
「……志摩子さん」
 誰だろう、と思った矢先。ドアの前のその人が、志摩子の名前を言い当てた。
(――まさか、そんな)
 居るはずがない。ここに、居るはずがない。
 だって、数ブロックも向こうの教室に居るはずの、彼女が――。
 だけど、どうして聞き違えることがあるだろう。どうして最愛の人の声を、聞き違えることなんかがあるだろうか。
「乃梨子……」
 姿が直接的に見えていなくてもわかる。
 ドアの向こうにいるのは紛れもなく乃梨子。
「志摩子さん、開けて……」
 乃梨子が。ドアの向こうにいる乃梨子が、確かに乃梨子の声でそう囁く。
「志摩子……『開けなさい』」
 それは、志摩子がつい今しがた脳裏にリピート再生していた、責め手としての乃梨子と全く同じ声で告げられた『命令』。
 だから今の志摩子が――完全に乃梨子に従順していた志摩子が、それに逆らえるはずもなかった。

 

 トイレの床に脱ぎ捨てたショーツをいまさら身に着けられるはずもなく、そのまま立ち上がって志摩子はトイレの鍵を開ける。
「きゃっ!」
 カシャッ、という音を立てて扉を開くや否や、乃梨子がドアを強く押しのけて個室の中に身を乗り入れてきた。
 乃梨子は後ろ手にトイレの鍵をスライドさせて再び施錠する。トイレの狭い個室の中でドアの側から乃梨子に入られては、もはや志摩子に逃げ場など残されているはずもなかった。
 乃梨子はさらに身を乗り出して、後ろ斜めの壁に志摩子の体を押し付ける。
「――志摩子さん」
 俯いていた自分の視線を徐々に乃梨子の顔のほうへと近づけていき、彼女の顔を見つける。
「ここで何してたの――?」
 そこにある乃梨子の顔は、まさに瞳子ちゃんを責めていたときの乃梨子と同じ顔。妖艶な笑みを浮かべて、そして有無を言わせないような――責め手としての、乃梨子の顔に他ならなかった。
 志摩子は乃梨子の問いにもちろん正直に答えられるはずもなく、だからといって総てをドアの前で乃梨子に聞かれてしまった以上いまさら偽りの言葉を並べられるはずもなく。
「……っ!」
 志摩子が回答に躊躇うと、乃梨子は志摩子のスカートの中に手を差し入れてくる。
「下着、つけてないんだ……?」
 さっきとっさに便座の裏に隠したショーツ。それが誤解を招いたのか「志摩子さんって、いやらしい」と乃梨子は志摩子を言葉で弄る。つんつんとスカートの中に差し込んだ右手の指先で志摩子のおそらく最も敏感な性器の突起をつついてきてから、
「もう一度聞くよ? 志摩子さんここで何してたの――?」
 と、志摩子を脅迫した。
「あ、あ、あ……」
 つついていた指先の刺激が、突起を軽くつまむ仕草に変わる。乃梨子は志摩子の最大の弱点をその指先の間に納めて、そして志摩子を脅していた。
 答えなければいけない。けれど、上手く答えが纏まらない。乃梨子にそれだけ脅されてなお、志摩子は上手く答えを口にすることができなかった。
「んふぁあああっ!」
 痺れを切らした乃梨子がぎゅっと志摩子のそこを抓り上げる。悲鳴とも嬌声ともつかない大きな声を志摩子は上げてしまい、慌てて自分の両手で口を塞ぐ。
「んはっ……ふあっ……」
 いちど強く抓り上げた後は、きゅっきゅっと志摩子のそこをただ玩具のように乃梨子は指先で玩ぶ。そのじんじんとした刺激が深く強大な快感を齎し、立ったままの志摩子の膝ががくがくと震えた。

 

  

 

「志摩子さん、シスター希望だからこういうの興味ないかと思ってた……」
 乃梨子の声。それは今までの責め手としての有無を言わさない口調ではなくて、あるいは素直な、あるいは何かを悔いるように吐き出された言葉のように志摩子には聞こえた。
「そ、そんな、事は……んぅ……っ」
 だから、志摩子も重圧から解放されて、乃梨子に対して素直な気持ちを答えることができた。
 興味がない、と思われても仕方がないかもしれない。
 だけど――興味なんて、ずっと昔からあった。
 いつからか、志摩子はこうやって乃梨子と深くつながれることだけを望んでいた。
 いまは乃梨子が一方的に志摩子の秘所をつまみあげている。けれど――きっと私たちは対等に、どんなにも深くいま結ばれているのだと感じることができる。
「シスター志望なのに、こういうことしていいの?」
「そ、そうね。いけないこと、ね……んっ」
 乃梨子が言ってくる言葉は否定できない。けれど、乃梨子も完全に志摩子に責任を問うているわけではない。
 体では愛撫の手を課してきていても、心でまで否定しているわけではない。だから志摩子もこれがいけないことだとはわかっているのに……乃梨子がそれを認めてくれているから、だから口にしてしまうことができる。
「い、いいんだよね、私? 志摩子さんのことを、求めても、いいの?」
 乃梨子は急に弱気になる。
「乃梨子――」
 頬には涙さえ浮かべて。
 ついさっき瞳子ちゃんと愛し合う乃梨子の姿を見て、志摩子は乃梨子に拒絶されたような気持ちになった。
 けれど――けれど、いま乃梨子を泣かせているのは誰だ?
 他でもない、私じゃないか――。乃梨子を泣かせてしまう程追い詰めていたのは、志摩子自身に他ならないのだ。
 乃梨子に拒絶されていたんじゃない。私が、乃梨子を拒絶していたんだ。
 私が、シスターになりたいという夢も、ひとりでいたいという孤独も、乃梨子に総てを話してしまっていたから――だから乃梨子は志摩子を決して求めずに、その衝動を瞳子ちゃんにぶつけていたのだろうか?
 私たちは、お互いに相手のことを重視しすぎる。だから、相手を求めたいという気持ちが自分の中に確かな形であったとしても、なかなか相手にそれを伝えることができない。
「私のせいで、擦れ違っていたのね。ごめんなさい、乃梨子――」
「ううん、私のほうこそ、ごめん――」
 こんな形で乃梨子に襲われていながらも、結局私たちはお互いの感情を理解しあってしまう。お互いに涙を流しあうことで、鬱積し続けていた寂しさや哀しみの感情を共感という形で理解しあってしまう。
「ふぁ……」
 志摩子に課されている責めの手が再開される。敏感に、深い快感を齎す――けれど決して相手を傷つけることがない、優しい愛撫。
「ふはあっ……乃梨子、っ……!」
 愛しい人の名前を呼ぶ。
 妖艶な笑みではなく、優しい微笑で乃梨子が答えてくれるから。
 志摩子は、この深い快感の酩酊の底に溺れてしまってもいいのだ、とようやく自分に許してあげることができたのだ。