■ 4.「頭痛」

LastUpdate:05/04/19

 頭が、酷い痛みに軋みを上げていて、私はそれに心が上げる悲鳴をただぼんやりと眺めていた。自分の躰が痛がったり、苦しんだりすることは乃梨子にとって必ずしも逃れたいと思う苦痛ではなく、ただ苦痛に委ねていたいと思うときもあるのだ。今がまさにそんな気分だった。
 ――ここは、どこだろう。
 ふと乃梨子はそう考える。けれど、一瞬の後にはその気持ちさえどうでもい感情のひとつとして処理されてしまうのだ。
 だって、目の前には志摩子さんがいるから。
 斜陽もずいぶん前に堕ちてしまった暗い夜。それでも、窓から僅かに漏れてくる燐光にも似たぼうっと光る礫が、暗順応した乃梨子の視界には壁に靠れかかっている志摩子の肢体も、表情さえ鮮明に読み取らせていた。
 志摩子さんは、ずっと微笑んでいた。
 ゆっくりと、けれどどんなに時間が流れても。乃梨子がどんな形で志摩子さんの肌に触れても。ただ、優しく微笑む志摩子さんの表情は崩れることはなく、ただぼんやりと。
 その笑顔は誰に向けられたものだろう。私だけに向いているものだろうか。志摩子さんの顔は乃梨子のほうに向けられてはいたものの、志摩子さんの瞳は乃梨子を映し出してはいなかった。まるで空虚な硝子玉を瞳に嵌め込んだみたいに、ただ寂寥だけが瞳には宿されていた。
「ねえ、志摩子さん。私のこと好き?」
 耐え切れなくなって、乃梨子は志摩子さんの肩を掴んでそう問う。
 けれど、志摩子さんは何も答えない。瞳は虚無の海だけを見つめ続けて、まるで乃梨子がそこに居るということにさえ気づいていないかのように。
「ねえ、志摩子さん?」
 ぐらぐらと、志摩子さんの肩を揺さぶる。予想外なほどに硬く硬直していた志摩子さんの上体を、それでも力を込めてぐらぐらと揺らす。それだけのことをしても、求めたい視線は虚ろなままでしかない。
 乃梨子を見つめてはいない。何も見つめてはいない。乃梨子が覗き込むように志摩子さんと瞳を重ねても、そこに映るのは硝子に反射した乃梨子の視線だけであって、求めたい彼女の視線でなどありはしない。
 志摩子さんの瞳を介して反射する光は、どこまでも淋しくて。
「ちゃんと、私を見てよ!」
 半ば起こり気味にそう叫ぶ。狭い部屋の中で、乃梨子の悲鳴にも似た叫びが鳴り響いたが、それでもやっぱり求めたいものは何ひとつ及びはしないのだ。
 奪うように、無理に力強く唇を奪う。咬むようなキス。ガチッと、歯が音を立ててぶつかる。首の後ろに回した腕は、志摩子さんの躰ごと自分の体内に取り込みたいという欲望を果たさんと言わんばかりに、ぎゅっと力の限りに襟首から締め付けた。
 けれど、やっぱり志摩子さんは、何も返してきてはくれなかった。
 それでも、乃梨子は唇を重ねるその行為に、不思議なほどに満たされていく自分の心を知った。
(はああっ……!)
 心地よさではない。どちらかといえば、純粋な快楽。性的な充足感に似た快楽が、自分の躰を高みに導かせたその時よりも、ずっと深く、そして鋭く快感の刃となって乃梨子を抉っていた。
 しかし、ふと唇が離れてから、乃梨子は気づいた。
(志摩子さんの、唇が冷たい――)
 体温を感じない程度ではなく、純粋に熱がそこからは取り払われている。雪や氷のような鋭い冷たさが、乃梨子の唇に感じられてしまったのだ。
 それに、志摩子さんの唇は柔らかさを失っている。硬いカサカサした唇をおしあけて舌を入り込ませても、志摩子さんの口の中は乾ききっていて、乃梨子を潤してくることはないのだった。

 ――キーン、キーン。
 何かが反響する音。音叉を渡り歩くかのようなその音はどんどん反復するたびに音圧を増していき、やがて思考力さえ奪い取って乃梨子の脳裏を埋め尽くす。
「あ、あ、あ……!」
 頭痛がした。あまりの痛みに、乃梨子は頭を抱えて上体を震わせる。大きくなっていくだけの音が、乃梨子にはどんなにも不快で。
 カシャン、と。何かが割れるような音がして、その音は急速に乃梨子の脳裏から遠ざかる。
 そうして、乃梨子はようやく我に返った。
(……ああ)
 志摩子さんは笑ってなどいなかった。初めからずっと、乃梨子に笑いかけてくれてなどいなかったのだ。
 現実の中にいながら、何かの幻想を見ていた。そこに志摩子さんはあっても、乃梨子が見ていた志摩子さんは幻像に過ぎない。真実の志摩子さんは、ずっと笑ってなどいなかったのだ。

 

  

 

 志摩子さんの唇の端からは、血が垂れていた。血が残す線が少しだけ滲んでいるのは、乃梨子は唇を重ねたときに乱れてしまったせいだ。暗い中でも、狂ったように目を引く朱が、志摩子さんの唇から溢れていた。
 その志摩子さんの躰を乃梨子は抱きしめる。志摩子さんは裸だった――それは、乃梨子がそうさせたからだ。志摩子さんの手は後ろ手に縛られていた――それは、乃梨子がそう縛ったからだ。志摩子さんの瞳からは光が消えていた――それは。
 抱きしめた乃梨子の手は、志摩子さんの躰から離れると夥しい程の朱をその両手に纏わせていた。唇は氷のように冷たかったというのに、乃梨子の手に絡みついた志摩子さんの朱はまだ生きていた頃のように熱かった。
(そうだ、志摩子さんは私が、殺していたんだった――)
 絡み付く朱は、志摩子さんが生きていたという証。絡みつく朱は、志摩子さんが私に殺されたという証。
 滑稽なほどに喪失感は乃梨子を苛んでは来なかった。志摩子さんを失ったというのに、乃梨子が最も大切に思っていた志摩子さんが失われたというのに、乃梨子の胸には欠落に対する喪失感は不思議なぐらいに得られてはこないのだ。
 むしろ、志摩子さんを失ったことによる不自然なほどの充足感があった。
 失うことで、心が満たされることなどあるのだろうか。
 殺したのは私。この結末を願ったのも、やはり乃梨子に他ならない。
(ああ――)
 頭がじくりじくりと、滲むように深く痛む。
 けれどもそれさえ、恍惚感の最中にある今の乃梨子にとっては、快楽しか齎しては来ないらしかった。