■ 6.「復讐」

LastUpdate:05/04/26

 日々だけがただ虚構のように過ぎていくのを、乃梨子もまたどこか虚ろな感覚で傍観していた。
 時間は流れている。とても流動的なその本流の中で、けれど乃梨子だけがどこか取り残されているかのような。虚無の中でただぽつねんと佇んでいるかのような、喪失感に似た奇妙な寂寥感だけが、乃梨子の傍にいつもあった。
「いいかい、二条さん。どうか気を落とさないで聞いてほしいんだが――」
 名前も知らない男性教師の方がひどく悲痛そうな顔で、生徒の誰に告げるより早く乃梨子に知らせてきた報せを、けれど乃梨子はやっぱり虚ろな心で聞いていた。
 志摩子さんが、死んだ。
 辛すぎる気持ちを吐き出すように教師が漏らした言葉さえ、乃梨子の心にはなんの感慨さえ沸かせることはなかった。
 だって、乃梨子は実際に文字通りの意味で、それを肌に感じていたのだから。
 弱弱しくなっていく呼吸や心音。熱を失っていく志摩子さんの体温を。緩やかな死へと堕ちていく志摩子さんの総てを、ただ乃梨子だけが誰よりもはっきりと感じていたのだから。
 志摩子さんの白魚のような指先は、死の淵でも乃梨子を拒まなかった。
 鈴を転がすような声さえ、一言さえ乃梨子を責めはしなかった。
 だから乃梨子は死に堕ちていく志摩子さんを、喪失の意味で乃梨子の許から離れていくように思うのではなく、ひそかな満足感の酩酊で自分の裡に迎え入れたものだ。
 最後まで乃梨子に抗わず否定せず。志摩子さんはこれで確かな形で、乃梨子だけのものとなって自分の中に閉じ込められていくのだから。
 この不思議なぐらい満たされていく感情の答えを、きっと悲しみとは、呼ばない。
 志摩子さんのことは自殺と決め付けられ、教師も生徒も、そして山百合会の仲間でさえ、誰もが乃梨子に最大級の優しさで触れてきた。
 心此処に在らずといった乃梨子の姿を、けれど周りの目は好意的に解釈してくれるのだから……それはなんとも滑稽な姿だった。

 

  

 

 ――本当は私が殺したのに。
 優しく乃梨子に触れてくる総ての人にそう言ってやりたかった。乃梨子がそう言ったならみんなはどんな顔をするのだろう。……ああ、あるいはこの人たちなら、私が殺した、私のせいで死んだというその言葉さえ、好意的に解釈するのかもしれない。そう考えると、優しさや悲しさの顔をして触れてくるそれらの人たちが、乃梨子にとってはなるほどますます滑稽に見えてくるように思える。
 周囲の目は、本当に温かく。そして、乃梨子の心は冷えていくばかりだった。
 どうして冷えてくるのだろう? 乃梨子は確かな形で志摩子さんを手に入れたはずなのに。一時には乃梨子の心を熱く火照らせ、あんなにも震える倖福感で心の裡を満たさせたというのに、何故。
 志摩子さんを失ったわけではない。志摩子さんの永遠を手に入れたのだ。乃梨子が志摩子さんを最も誰にも触れられることのない、孤独の塔に閉じ込めたのだからそれは当たり前のはずなのに。乃梨子だけが志摩子さんを手に入れているというのに、何故。
 もう誰も志摩子さんを手に入れることはできないのだから。だから、何をそんな不可解な畏怖に怯える必要があるだろう……。
 そこまで考えて、けれど乃梨子はハッとする。そうだ、もう一人いた。もう一人だけ、志摩子さんの心に触れることがあったひとが。
 ただ一人、佐藤聖という人だけが、嘗ての志摩子さんの触れていたじゃないか。
 そう考えると、なるほど乃梨子が抱いていた疑問符は自然に解消されていくのだ。志摩子さんが私のものだけになったはずだというのに、理不尽なぐらいに渇いていく感情の答えを。
 彼女は志摩子さんが乃梨子と出あった時から。否、もっとそれ以前から志摩子さんの心を占有していたのだ。
 乃梨子だってそれに気づいていないわけではなかったはずだった。何故なら、そうした志摩子さんの心を乃梨子の知る世界には居ない誰かが囚えているという事実が、より一層乃梨子自信の独占欲に火をつけたのだから。
 そうだ。志摩子さんの心が、今こうして乃梨子が触れることのできていた志摩子さんの躰の裡にはもうないから。だからこそ、この伽藍堂の志摩子さんの裡にあった嘗ての志摩子さんの心を、私は手に入れたかったんだ。
 乃梨子にとっては志摩子さんが初めてのひとだったけれど、志摩子さんにとっては佐藤聖が初めてのひとだから。
 心が喪った人形を乃梨子が手に入れたからといって虚しいだけなのは、それはとても当たり前のことなのだ。
 私は志摩子さんを愛しているから。だから、志摩子さんの総てを手に入れなければ満たされることができないのだ。
 そこまで理解できてしまった以上、乃梨子がやるべきことはひとつ。
 志摩子さんの味を知る為には、乃梨子はもうひとつ囚えなければいけない。

 教師の方にかつての志摩子さんのお姉さまと話してみたい旨を告げると、教師の方はすぐに卒業者名簿を乃梨子に貸し出してくれた。
 校舎の脇にある電話機に小銭を入れて、名簿に見つけたその名前の傍らに添えられた番号を押す。
 トゥルルル……。と何度かのコール音がしたあとに、電話が繋がった。

「初めまして、私リリアン女学園高等部二年の二条乃梨子と申しますが……」