■ 1.「ユリシス」

LastUpdate:05/01/01

「私の中にね、チョウがいるのよ」
 ゆっくりとした時間の中で、志摩子さんが唐突にそう言った。
 チョウ――というと、あの「蝶」のことだろうか。なるほど、それは確かに志摩子さんのイメージに合うかもしれない、と乃梨子は思う。蛹より以前の姿では想像しがたいが、魅了する羽根を広げたチョウの魅惑の姿は確かに志摩子さんのイメージとも合致する部分があるように思う。
「でも、どうして?」
 乃梨子は疑問のままを口にする。
 夕暮れ時の落ちかけた陽が志摩子さんを後光のように差し、乃梨子は志摩子さんの姿を視界に捉えながらも、それがいま見ているのが現の光景なのか、あるいは幻想のものであるかまるで見分けがつかない。
 接する機会が多くなるほどに意識する機会は少なくなってきたけれど、やはりこの人って在り得ないぐらい綺麗過ぎるように思う。そんな異質な人は乃梨子が漏らした台詞のそれにふっと小さく笑ってみせた。乃梨子もまた志摩子さんの唇を見て、ああ現なのだとようやく認識できたりして。
「どうしてなのかしら……でも、そんな気がするの」
 目を細めながら志摩子さんがそう言う。
 優しい笑顔。志摩子さんと少しずつ関係を深めていく毎に、見る機会が多くなってきた笑顔。志摩子さんらしく、口を開かずにただ優しい目元で微笑む。それを乃梨子がいつか菩薩のようだと言ったら、さすがに口元を引きつらせていたけれど。
 実際、それはまさに乃梨子の敬愛する菩薩のようなのだ。その笑顔を見るのは乃梨子にとってまさに幸せなこと。見るたびに乃梨子の中にある言いたかったことや不安が、みるみるうちに落ち着いて静かに消えていくのだ。
「へえ、どんなチョウなの?」
 志摩子さんがそう言うから、そこにはきっとチョウがいるのだろう。
「そうね……とても、鮮やかな青色をしているわ」
 そう言いながら志摩子さんが、両腕を胸の前で交差させてみせた。
 両の手のひらの裡に、志摩子さんの胸に宿る青いチョウ。出生の日を待つ胎児のようにそこに宿っているのか、あるいはそこが元々そのチョウの在るべき場所なのか。どちらにしても宿るチョウは間違いなく、志摩子さん同様に綺麗なことだろう。
 時折志摩子さんからまるで人では無いかのような――魔の魅惑を感じる瞬間が無いと言えば嘘になる。なるほどそれはチョウのもたらすものであったか、あるいは魔のチョウを抱える志摩子さん自身が魔性のものであったか。不思議と、例えそうであったとしても違和感無く了承できそうな自分がいた。
 とすると、私はそれに魅了された従か――それも悪くない。
「見たいな」
「えっ?」
「志摩子さんの、チョウ。見せて――」
 結局は志摩子さんが魔の物か否か、そんなことはどうでもいいのだ。
 志摩子さんの頬に紅が差す。乃梨子はいつものように手際よく志摩子さんの制服を脱がせる。志摩子さんは抵抗しないから、それは容易いことだ。
 魔の魅惑は誰がためか。それは他の人を寄せ付けぬ為。そしてたったひとりの従、乃梨子を魅の果てに囚えて逃さぬためか。顔の造詣や髪、仕草の魅惑は他人に知られてもいい。だが、濃淡な制服の呪縛の中に眠るこの密やかな魅惑は誰にも知られてはならぬ。――誰にも、知られてはならぬ。
「あ、乃梨子……」
 口振りや仕草では抵抗する気を見せてみても、本気で抵抗しないのを知っている。だから、乃梨子もそれに躊躇を覚えたりしない。
 いくつかの聖母を纏う布を脱がせる――過程は現の枷を切り離すことに似ている。
「寒いわ……」
 志摩子さんが僅かに躰を震わせながらそう言った。今の季節はまさに真冬。だが、すぐにそんなことは気にならなくなる。
 全てを取り除けば、そこにはまさに聖母が在る。生まれたままの艶姿。その魅惑は誰にも知られることは無い。知られてはならない。乃梨子だけが、この魅の虜であればいい。いままさに外に降る雪と何ひとつ変わらぬような穢れ無き肌、手を滑らせれば絹のように指先を包む柔肌の感触。一度知ってしまえば、他の誰に譲れようか。
「はあっ」
 躰の火照りを表すのか、志摩子さんの吐息は白く空気に溶けていく。
 幾度と無く触れた躰。それを狂わさせるプロセスは、酩酊の渦中にあっても迷わぬよう、しっかりと頭に叩き込んである。
「やあっ、はっ、はあっ……」
 狂っているのは女神のほうか。あるいは従の私こそ狂わされているのか。
 性に侵されていく中でも、必ず志摩子さんは私自身の敏感な箇所を責め返す事を忘れない。どちらか一方が与えることを嫌い、自分からも与え返すことを望む。女神の御手から注がれる魔力が、乃梨子の理性を溶かしていく。
「んはああっ……、志摩子さぁん」
「乃梨子っ……! 乃梨子っ……!」
 私が彼の人の名を呼べば、彼の人もまた応えてくれる。
 快感のひときわ大きい波が躰を襲い、私は床に体を崩した。愛しい人もまた同様に崩れ落ちる。意識が霞がかり、現にもエデンにさえ遠ざかっていく。
 ――ああ、青いチョウが。