■ 2.「一月の蒼い月」

LastUpdate:05/01/02

 雪道を踏み鳴らして歩く。ザクザクと、靴に踏まれる雪が音を立てた。
 元日の夜に降った雪は翌日の今日になっても溶けずに残っていた。おかげで人通りの多い道ならさておき、わざわざ人気の無さそうな公園を選んで来た二人の足元にはまだ大量の雪が残っている。こんな小さすぎる公園では、誰も雪かきをする人などいないらしい。
 とはいえ、そんなに外は寒くないようだ。少なくとも蔦子には寒さはそれほど感じられなかった。中にトレーナーとセーター、その上からロングコート。普通の冬用標準装備だが、それを寒さは突破できないらしい。もっとも、機材を扱うために手袋を外したら、さすがに指先だけはちょっと寒く感じられたけれど。
 しかし、それも向かいの彼女にとっては通じないようだった。外目に見てもわかるぐらいに肩を震わせているのは寒さのためか。あるいは――緊張感、期待感や不安感からだろうか。
 紅が刺した頬が、彼女の体の火照りを物語っている。熱を持った体には寒さはより冷たく感じられているのだろうか。あるいは寒ささえも感じられないほどに、彼女の裡から迸る熱が溢れているだろうか。
「寒い?」
 試しに蔦子が訊いてみると、彼女はこくこくと首を何度か縦に振ってみせた。
「そう、でも――脱いでね」
 やや有無を言わせない口調で蔦子が言うと、彼女は不承不承といった様子を見せながらも、こくんと頷いてみせた。
「あの、ただその前にちょっとお願いが」
「お?」
「もしよければ……好き、と言って頂けませんか?」
 大胆な格好が彼女を大胆にさせたのだろうか。それは普段の彼女の言動からは考えられないぐらい大胆な台詞のように思えた。だけど、特別なことをする前には、それぐらい特別なほうがいい。
「……好きだよ、笙子」
 カメラのレンズを通しながら、蔦子はそう答えてみせる。
 その台詞は蔦子にとってもまた、大胆なものだった。普段の蔦子は殆ど言葉によって気持ちを伝えることができない。それは笙子も同じことで、だから二人はお互いに言葉でお互いを確かめ合うことができない関係だった。
 二人で性的な行為に及んだことが無いわけではないけれど、その機会も片手で数えられる程度。初めてお互いの気持ちを確かめ合えた時には自然と二人でそういう行為に結びついたりもしたけれど、それ以降はどちらがどちらに「したい」とも言えず、結局のところ儘に求め合うことができない。
 それは、お互いが持った心の弱さが原因だった。
 いちどだけ求めるだけならいい。だけど、何度も求め合ううちに、節操が無いと思われてしまうのではないか。あるいは、行為そのものや私自身に、飽きられてしまったりはしないだろうか。そんな不安が心を支配してしまって、どうしても「したい」と言うことができない。
 笙子以外の人間に対しては日常生活の中では蔦子は努めて積極的だ。消極的なままでは写真家は勤まらない。笙子もまた、日常生活上ではこれでなかなか積極的な人間なのだ。
 なのに、蔦子は笙子のことになると、笙子は蔦子のことになると、こんな風にどうしようもないぐらいに消極的にもなってしまうのだ。
 お互いがお互いを失うことに怯えているから。
 ただの知人になら、別に嫌われてもいい。友達を失うことは悲しいけれど、きっとまだ立ち直れる。だけど……お互いにとってお互いが唯一無二の大切な存在であり、どうしても失うわけにはいかないから。蔦子は笙子を失えば生きていかない。笙子もまた蔦子と離れてなど生きられない。それほどに大切な相手だから。
 そんな、お互いに相手の出方を待ってしまうような受け身の二人が変貌できる瞬間がひとつだけある。それは蔦子がカメラを構えるとき。そして笙子にとってはレンズが向けられるときだ。
「脱いで」
 蔦子が促すと、笙子は膝上十センチ近いダッフルコートを、その場に脱ぎ落としてみせた。
 もともと蔦子の命令によってボタンを留めることを許してはいなかったコートを脱ぐのに、笙子が手間取る要素はどこにもなかった。一瞬で笙子の体から離れたコートが雪の上にバサッと落ちる。雪の中に、蔦子の求める理想の少女像がそこにあった。
 公園の街灯と月明かりを、真っ白な雪が反射するステージ。コートの中から現れたのは、一糸纏わぬ生まれた儘の少女の姿。
 細くて均整な体。胸はお世辞にも豊かとは言いがたいが、それは華奢な彼女にはむしろ相応しいようにも思える。光に輝く金色の髪。まるで天使のように――。
 あえて他人に漏らしたりするようなことはないけれど、蔦子はこの笙子の美しさを誰にも及べないものだと思っている。
 由乃さんよりも華奢で、志摩子さんよりも美しく、そして祐巳さんよりも愛らしい――蔦子がこの世で最も愛する少女。

 マリア様に感謝したい。
 ――笙子と出会わせてくれた幸運を。
 ――笙子と結ばれることができた僥倖を。

 軽く両手を合わせてマリア様に感謝したあと、手早くセッティングして笙子を写真に収めていく。
 機会は笙子に頼めば何度でも与えられるだろうが、この一瞬を写真に収められる時間はとても限られているのだ。
 それに、長時間に及んで、笙子に風邪を引かせることがあってはいけない。
「笙子、もうすこし右腕を上げて……うん、そう」
 被写体の笙子のポージングによって、天使の姿を納めていた写真は幾重もの姿へと変貌をみせる。時に幻想的な写真であり、時に官能的であったりもする。
 優れた写真というのは撮った瞬間にもわかってしまうものだ。一種のカタルシスとなりその感動は体を駆け巡り、その感動自体が写真の優を撮影者に知らせるからだ。
 笙子を写真に収めるときには、一枚一枚のそれぞれ、シャッターを切るそのたびごとに、快感に似た昇華していく感情が蔦子の裡から溢れてくる――。
「ラスト、いくよ――」
 最後に両手を体の左右に投げ出して、掌を全面に向けた――深呼吸をしたあとに、両手を左右に広げるような――ポーズを笙子に求める。笙子がそれに従ってポージングしたあとに、静かに瞳を閉じた。
 私は最後の一枚の写真を撮るときに、よくそのポーズを笙子に要求する。――そのときに、いつも彼女の背から生える純白の『天使の翼』を見るのだと言ったら、笙子はどんな顔をするだろうか。
 蔦子のカメラがフィルム切れの音を告げた。笙子は「冷たいよぅ」と叫びながら、雪を払ったコートを素肌の上に再び身に付ける。
 ――撮影の終わりが、二人で最もたくさんのものを交わしあう時間の終わり。
 少なくとも、今まではそうだった。だけど、蔦子は今日、それをここで終わりにしたくはなかった。
「あ、あのさ……」
 笙子が「うん?」と疑問を顕にした表情で蔦子の方に振り返る。蔦子は溢れる恥ずかしさと、怯えの感情を必死に堪えながら、続きを口にする。
「……帰ったら、一緒にお風呂に入ろっか」
 写真は、きっと彼女に近づく為のひとつのステップでしかない。レンズを通さなくても、少しでも彼女に近づいていく努力をしたかった。
 蔦子がそう言うと、笙子は飛び跳ねながらパアッと顔中に歓喜を溢れさせる。そして、こくこくと頷いてくれる。
 蔦子の隣を歩きながら、笙子が蔦子の左手をぎゅっと握ってきた。
 それは、彼女も蔦子に近づこうと思ってくれている気持ちの表れだと、自惚れても構わないだろうか――。