■ 7.「寒天の雨」

LastUpdate:05/01/07

「雨……?」
 透き通るような寒天の空。ほどなく訪れる冬の深い深い夜を予感させる、薄暗い空と仄かな橙。それを見上げていた志摩子は頬に冷たい水滴を感じて思わず疑問を浮かべる。雲ひとつ無い空から、果たして雨が降るだろうか。
 そのまま疑問を浮かべて立ちすくむことはすぐに叶わなくなる。いちどだけ感じた頬の冷たさは、一滴、また一滴と断続的にその勢いを増してきて、すぐに小雨の様相を見せてくる。志摩子は慌てて近くのコンビニの軒下に入ると、鞄の中から折り畳みの傘を取り出した。
 軒下から斜めに中天を見上げてみると、やっぱり雲ひとつない空が広がっているのだから面白い。バサッと音を立てて折り畳み傘を広げると、眩しいほどの光をこうこうと湛えるコンビニの軒下を抜け出し、深くなっていく夜闇の雨の中に軽やかに志摩子は身を乗り出した。


 冬が好き。
 渇いた冷たい空気は、ああ私はひとりなのだ、という孤独感をより身近で確かなものにする。そう言うとなんだか卑屈なことのようにも思えてくるが、実際に志摩子は孤独で居ることのほうが嫌いではない。
 誰かに触れて生きるのは、幸せを共有して生きるのは素晴らしいことだと思う。だけど、誰にも寄り添わずに生きていたら、自分ひとりの両手に余るほどの悲しみを抱えることもないから。
 北風が旅人にコートをぎゅっと握り締めさせるように。私もまた、寒さの裡で分厚いコートという殻に篭って生きるのだ。袖から出した両手は誰に繋ぐこともなく、ただ、ひとりで。

 雨が好き。
 傘を広げれば――例えそれがどんなに小さい折り畳み傘であったとしても――自分だけの世界、自分だけの領域を持つことができるから。
 冬のコートよりも狭くて深い場所。誰も、他人の傘の仲には踏み込まない。
 雨と言うカーテンが隔たりを尚深いものにする。雨が深ければ深いほどいい。滝のような雨はひとの温もりを完全に閉ざし、数メートル傍にいるひとの存在すら私の世界から消し去ってしまう。

 夜が好き。
 闇は深いほど私から世界を閉ざす。私から世界を閉ざす。


「あれ、志摩子さん?」
「え?」
 駅ももうすぐ傍というところ。駅前にしては手狭な本屋の軒下から、声を掛けてくる人が居た。
 打楽器のような雨で僅かにしか聞き取れない声。闇と雨で滲んだ視界。それでも、声を掛けてきた主の、彼女の声だけは志摩子に性格に響いてくる。
「乃梨子」
 志摩子が名前を呼ぶと、乃梨子は鞄を胸元に抱えながら一直線にこちらに向かって走ってきた。私もまた、傘の半分のスペースを空けて乃梨子を受け入れる。
「よくわかったわね。暗いし、酷い雨なのに」
「うん、ちゃんと見えたわけじゃないけど。でも自信はあったよ」
 そう言いながら乃梨子はにっこりと笑ってみせた。
 折り畳み傘はとても狭い。その狭い中に二人が入っているのだから、本当に狭い。志摩子の目の前から十センチぐらいしか離れていないその距離で微笑みかけてくる乃梨子に、志摩子はどきどきしてしまう。
 数秒の間だけ乃梨子の体に降り注いだ雨が、乃梨子の頬や唇を伝う。
「寒いね」
 乃梨子がそう唇を動かした。私は咄嗟に沸いたその唇を奪いたい、という邪念を慌てて振り払う。
 志摩子も少しだけ寒さで身震いする。左肩に冷たさを覚えたので見てみると、濃色の制服の肩を雨が濡らしていた。そして志摩子と体を触れ合わせている乃梨子の右肩もまた、雨が侵している。
「……寒いわね」
 志摩子自身か、あるいは乃梨子か。そのどちらに言い聞かせるでもなく、志摩子もそう答える。そして傘の柄を左手に持ち替えると、右手でそっと乃梨子の腰に手を回した。
「あ……」
 乃梨子が仄かに声を上げる。より近くなった距離のせいか、乃梨子の吐息はまだ少しだけ体温を残したまま志摩子の場所にも届いてきた。
 乃梨子は一瞬だけ体を硬くしたけれど、すぐに委ねるように身を任せてきた。志摩子は少しだけ乃梨子の腰に回した手に力を入れ、体を自分の側に寄せた。乃梨子の肩が、冷たい冬の雨に濡れることがないように。


 ひとりで生きていたい、と思う頃があった。
 もし志摩子がそう口にしたなら、隣の乃梨子はなんと言うだろうか。

「志摩子さん、温かい」
 腰に回していた志摩子の手から鞄を奪い取ると、乃梨子がそう言いながらさらに身を寄せてきた。乃梨子の体もまた、温かい。
 制服は体温を交し合うことになんの障害にもならなかった。


 冬が好き。雨が好き。夜が好き。
 雨が志摩子と乃梨子との距離を近づける。冬の寒さに身を寄せ合いながら、夜の闇にが二人だけが世界から閉ざされていく。
「一緒に居てくれるのよね?」
 志摩子がそう言うと、「え?」と一瞬意味の分からないという疑問符一杯の表情を浮かべながら、それでも乃梨子は「うん」と頷いてくれるのだった。