■ 9.「眠り姫」

LastUpdate:05/01/10

気が付けば、同性のひとが好きだった気がする。
忌々しい忌々しい、とずっと否定していて。
だから乃梨子に会って、私は救われた気すらしたのだ――。


      *


 ひとりでいることを特に苦痛には感じない。実際中学までの志摩子は、祐巳さんや由乃さん、そしてお姉さまと出会うまでの頃の私は、誰とも深くつきあうことなく、大半の日々の時間をひとりで過ごして生きてきた。だからこうしてひとりで黙々と作業をするのが苦痛と思うことなんてない。ましてや自分が割り当てられた仕事について、他の人より多めに時間をとられていることに不満を感じるわけでもない。むしろ自分が費やす何かで他の人の負担が少しでも減るのなら、それは志摩子にとって喜ばしいことでしかない。
 それでも、最近妙な感覚を感じてしまう。
 どこか胸の中で、胸の奥のほうで。しくっと小さく音を立てる淡い痛みがある。
 感情の正体を、志摩子は(なんだろう)と思う。そして少し考えた後に、ああ、と理解することができる。
 きっと私の感情の答えは、寂しい、という気持ちそのもの。
 気づけば、いつも誰かと一緒に過ごしていた。気がつけば、誰かの体温を感じながらの生活が普通になっていた。それを理解すればするほどに、なるほど「寂しい」という感情は増幅してきてしまって、やがて仕事は手につかなくなってしまう。
 祐巳さんは欠席。その影響で祥子さまは仕事が手につかず、昼休みだけ仕事をして放課後は薔薇の館に寄ることもなく早退。祐巳さんのお見舞いにいくのであれば、そうしてくれたほうが私たちとしてもありがたい。病床の祐巳さんに一番効果的な薬はきっと祥子さまに他ならないのだから。
 令さまと由乃さんは部活。今まで冬までの行事が目白押しだったから、確かにそろそろ山百合会としての仕事よりも、部活動への参加を優先されるほうがいいだろう。特に由乃さんは剣道部に入ってまだそんなに間もないのに、先日までほとんど参加できないことに、いつもぼやいていらっしゃったようだし。
 乃梨子は、……乃梨子は志摩子と同じで比較的自由の身なのだけれど、今日に限ってなぜか遅い。乃梨子がここにいてくれたなら、きっと志摩子が今抱いているこの寂しさは、それだけで簡単に払拭されてしまうのに。
 そんなことを考えていると、うじうじしている自分に嫌気がさして、何も手につかなくなってしまった。こんな自分は、らしくないとも思ってしまう。
 冬の冷たい空気が空に舞う今日でも、午後の日差しが暖かい薔薇の館の一室は、ぽかぽかしていて非常に気持ちいい。だから、そんな気分の中で机に伏せっていた志摩子が、陽気に誘われる儘に眠りの中へ落ちてしまうのも、それはきっと仕方のないことなのだ。
 志摩子の夢見は浅い。不眠症とまでいくわけではないけれど、まず眠りに落ちにくい。布団に入ってからきっちり一時間の間はまず眠ることも適わない。二時間から三時間程度粘ってようやく、意識は眠りの中へと落ちていく。
 ようやく得ることができた睡眠の安息も非常に浅いもので、だいたい三時間ぐらいでやがて目は覚めてしまう。そうなるともう二度寝をするだけの眠気もなくなっていて、仕方がないので学校へ早朝から登校する。まだ二年になってからは、志摩子が教室に着いた時にすでに誰かの人影があったことはない。家を出る前に目覚まし時計のアラームを切ってから登校するのが習慣の一部にすらなっている。
 そして夢を見ない。昔はもっと素直に眠れていた頃もあったから、かつての夢の思い出はあるし、それがどんなものかもわかる。だけどもう三年近く、きっと夢を見ていない。眠っている間にも、例えば誰かが部屋に入ってきたり、あるいは地震が起こったり、咄嗟に目を覚ますことすらないけれど、眠っている間に体感したことははっきりと起きてからも覚えている。
 それがいけなかった。
 志摩子が眠りに落ちてから十分弱、乃梨子がビスケット扉を開けて部屋に入ってきたのがわかる。挨拶を交わそうとして、そこに眠っている影があるのを認識して、はっと息を呑む。そうして乃梨子は志摩子から一番遠い席を選んで、鞄の中からパラパラと何枚かの書類を捲りながら、サッサッと文字を記していく。
 志摩子が普通に眠りに落ちることができるのであれば、きっとそれは些細な問題で済ませてしまえたのだろう。だから志摩子は、それをされたことを乃梨子に責めたりしたいとする思いよりも、むしろこんな体質である自分が憎らしく、責任を感じることになる。
 乃梨子が入室してから十分弱、乃梨子は手を止め席を立ち、そして私のすぐ傍まで顔を近づけてくる。
「志摩子さん……」
 乃梨子が志摩子の耳の傍まできて、小さな声で囁きながら訊いてくる。
「眠ってる……よね?」
 乃梨子がそう確認しても、もちろん志摩子はそれに答えない。
 そうして少しの間乃梨子は確認してから、そっと眠っている志摩子の傍に顔を寄せる。窓のほうに顔を向けていた志摩子の唇に、ゆっくりと自分の唇を重ねた。
 僅かな時間が流れ、短く意図を引いてそれは途切れる。気がつけば志摩子は顔を上げ、ぱっちりを瞳を開けて乃梨子のほうを見ていた。怒りや疑問より、ただその衝撃が志摩子の睡眠を一瞬のうちに拡散させてしまったからだ。
 それに驚いたのは乃梨子のほうだろう。志摩子が跳ね起きるように顔を上げて乃梨子のほうをみつめかえすそれに耐え切れなくなったのか、「ごめんっ!」とだけ言葉を残して走るように逃げ出そうとする乃梨子。志摩子はその腕をとっさに掴んで離さない。結果的に乃梨子の勢いに耐え切れなかった志摩子の体がおもむろに乃梨子を巻き込んで床に転倒する。下敷きになった乃梨子の額が、二人分の体重と勢いを乗せたまま床に強打されるのがよくわかった。
 鈍い音が部屋中に響く。乃梨子は声にならない声を上げて、その場にうずくまる。
「のっ、乃梨子っ!」
 気づけば志摩子までが、悲鳴に良く似た声を上げていた。
「ちょっと乃梨子! 大丈夫なの?」
「あうう……。だ、大丈夫……」
 そういう乃梨子の姿は、どこから見ても大丈夫には見えなかった。
「……保険の先生呼んでくる?」
「ううん、大丈夫みたい。ありがとう志摩子さん」
 お互いが一瞬火花のようにパニックになったが、ようやく落ち着いてきた。志摩子が水で冷やしたタオルを持ってきて乃梨子の額に当てる。
「……まあ、これはきっと神様からの罰だよね」
 乃梨子がそうつぶやいた。
「罰、だなんて」
「ごめんね志摩子さん。不快だったでしょ?」
「そんなこと……」
 そんなことはないと言い切れるけれど、それは何かを肯定してしまうような気がして。志摩子はそのまま言葉を濁らせた。
「どうして」訊かないでいるのが、何事も無かったかのように振舞うのが優しさなのかもしれないと志摩子はふと思ったけれど。
「どうして、あんなことしたの……?」
 志摩子はその答えを訊かずにはいられなかった。
 乃梨子は私の瞳をしっかりとみつめてくる。
「志摩子さんのことが、好きだから」
 その問いに、乃梨子は臆面も無く答えてみせる。真剣なのが、ひしひしと志摩子にも伝わってきた。
 志摩子は、狼狽える。だってそれは、志摩子が今までどんなにも塞いできた感情のそのものだったから。
 乃梨子に何と答えていいものだろう。志摩子が進まない思考に頭を抱えて悩ませている間、乃梨子は決して目を逸らさずに志摩子の答えを待っている。五分近く志摩子は悩みに悩みぬいた。果たしてここで簡単にも、いままで志摩子が忌々しいと思ってきた感情を、吐き出してしまっても良いものだろうか。
 乃梨子は決して志摩子の瞳から瞳を逸らさない。
「……乃梨子は、それでいいの?」
 最後は、なかば根負けしたかのように、志摩子はその感情を表してしまう。
「うん、それがいい。私は、志摩子さんが欲しい」
「そう」
 答えた刹那。
 志摩子はそのまま、乃梨子の唇を無理やりに奪った。乃梨子が慌てて顔を遠ざけようとするけれど、志摩子は両の手で乃梨子の後頭部を逃げられないようにひしっと抱きしめる。やがて乃梨子も諦めるようにそれに身を委ねた。
「乃梨子、私は独占欲がとても強いのよ。知ってた?」
 志摩子は勝ち誇りながら、乃梨子にそう微笑んで見せる。