■ 君のとなりに

LastUpdate:2003/06/25 初出:web

 朝の静謐な空気が、体中に澄み渡る。
 ふいに、栞のことが思い出された。この空模様といい、朝の空間が持つ独特の香りといい、栞に初めて会った時のそのままの世界が再現されたかのようだった。ひとつだけ違うところは、今朝は私が未だに慣れることのできないでいる、目覚ましをセットしておいたこと。だから栞と会った時は偶然でも、今この世界に私が存在する理由は必然と言えるのかもしれない。
 大学に入って一人暮らしを始めた。それはかねてより考えていたことだった。入居時の敷礼金はおろか、現在の家賃光熱費まで実家持ちの生活はお世辞にも自立とは言いがたい物だけれど、聖自身は満足している。
 あの時は、栞と初めて会った日には、母親が出した料理を食べて家を出たんだった。
 聖は時間に縛られること無く生きていた。適当な時間に起きて、適当に学校に行く。だから、早く起きることもあれば遅く起きることもある。急がなければ登校時間に間に合わないようなら遅刻してゆっくり行くほうがマシ、と本気で考えていた。母親も慣れたもので、私が早起きしても驚きもせず、顔色ひとつ変えずに普通に朝食を出す。……だからあの日は、電車に乗るまで一時間早く起きたことに気づきもしなかったんだっけ。
 栞、という一文字を心に浮かべるたびに、きしむように搾られて、心に痛みを覚えた頃があった。当時の私は栞に完全依存していたし、栞だけが支配していた。今だから笑っても言える「あれは辛い恋だった」。だけど、その時には笑うなんてできなかった。毎夜眠る時にも、毎朝目覚める時も、いつだって泣いていた私がいた。家にいても学校にいても、満たされることの無い私。音を立てて心を削っていく寂寥。――私は、それを繰り返そうとしているのかもしれない。
「大切なものが出来たら自分から一歩引きなさい」
 だけど、それは逃避でしか無いのではないか。求めるままに、本能の赴くままに。心を打ち砕かなければ、大切なことの何ひとつだって理解れないし、手に入れられないのではないか。
 今なら、今なら触れられるだろうか。触れても、赦されるだろうか。
 重厚な飾り扉を押し開ける。朝の光を浴びて、煌びやかに輝くステンドグラス。荘厳に見下ろすキリスト像。その御許で、深く染まった制服に身を包み、跪く少女。
 瞬間、栞に見えた。だけどそれは、すぐに打ち消される。そこに誰がいるのかなんて、初めからわかっていること。
「志摩子」
 だから私は、その名前を呼んだ。西洋人形のような少女は、ゆっくりとこちらを振り返る。こちらを視認したあと、とても可愛らしく微笑んだ。
「ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう、志摩子」
 志摩子を殆ど目にすることが無かった二年間。志摩子からできるだけ離れようと思った二年間。それだけの時間を経てもいるのに、志摩子の表情、躰、声、雰囲気。その総てが、聖の心を大きく揺さぶった。あるいは、離れていたからこそ、なのだろうか。
「もう『お姉さま』も無いでしょ。私は卒業してもう二年にもなるっていうのに」
「いいえ」聖の手を取り、両手で包むように柔らかく握りながら志摩子は言う。「今までも、これからも。私のお姉さまはあなた一人だけです」
 左手も伸ばし、私も両手で志摩子の両手を取る。
「元々期限付きの約束だったのだけれどもね」
 未だに志摩子が私を姉と呼んでくれるのは、純粋に嬉しい反面、ほんの少しだけ寂しい衝動を含ませた。
「お姉さまの妹であれることは、私の何よりの喜びですから」
 私は確かに志摩子にとって特別な存在になれている。無条件に信頼してくれる志摩子を見ると、私の心の裡から零れる衝動が、なんと浅ましいものであるのかとも思う。
 ――だけど。だから。
 私は待った。二年間待った。私が十二分に問答を繰り返して、繰り返して、繰り返して、繰り返して。それでも答えが出なくて繰り返して。そうして、答えが出せるだけに必要だった時間。
 躊躇いは無い。――筈だった。こうして心を決めて、そして志摩子に会う直前までは。
「志摩子」
 人形のように整った唇が、はい、と返事をする。
「これからいくつか質問をするから、正直に答えて」
「……どうしたのですか、お姉さま」
 優しい目。だけど、その視線すらも、私を、私の心を追い詰める。
 差し指と中指で志摩子の目元をゆっくりと翳す。それに志摩子の瞼が片方ずつ閉じられるのを確認して、私は志摩子の両手を軽く握りなおした。
「言葉はいらない。頷くか、首を振るか、それだけで答えて」
 志摩子は暫く困ったような素振りを見せながらも、やがて小さく首を縦に振った。
 合わせて私も目を閉じる。瞼に包まれた何も見えない世界の中で、ただ志摩子と私のの呼吸する音、そして合わさった手から伝わる動悸の音。体温。それだけが二人の世界を確かに繋いでいた。
「私が志摩子を妹にした時のこと、覚えてる?」
 ――肯定。
 目を開けなくても志摩子がどんな返事をしているかが、繋いだ手から伝わってきた。
「志摩子を妹にした日のこと、私も今でも鮮明に覚えてる。実を言うと、少しだけ自身が無かったりもしたんだ。私じゃ、志摩子に相応しくないんじゃないか。祥子のほうが、相応しいんじゃないか、ってね」
「そんなこと……!」
 ぎゅっと強く手を握り締める。
「駄目、喋るのは反則」
 慌てて志摩子が押し黙る。
「だけど、私は志摩子に告白した。妹になることを望んだ。どうしてだか、解る?」
 ――小さく肯定。
「私にとって志摩子は特別だった。自惚れだったら申し訳ないけど、志摩子にとっても私は特別な存在だったんじゃないかと思う」
 ――強く肯定。
「久保栞」
 志摩子の躰に震えが走る。繋いだ手から伝わる動悸が速くなる。
「……知ってるんだね、志摩子も」
 ――肯定。
「あの時、私が小説のことで色々言われてた時、志摩子は私を避けていたよね」
 ――肯定。
「それは、私の過去は知りたくなかったから?」
 ――。
 志摩子は躊躇っている様子だったが、頷くにも否定するにも、返事をしなかった。
「栞は私の大切な人だった。栞が無ければ今の私は無いし、栞がいたから今の私があるんだ」
 今だからこそ、それは思い出と言うことができる。
「志摩子が栞のことをどれぐらい知っているのかは知らない。だけど、栞のことはいまでも大事な人だし、愛してるんだ。それだけは、先に言っておきたかった……」
 栞のことを忘れたいわけでは無い。むしろ、栞との記憶の総ては私にとってかけがえのない、大切なものでもある。それによって喪失した何かを満たしたいわけでも、求めたいわけでもない。
 それだけは、予め志摩子に伝えておきたかった。伝えておかなければいけなかった。栞とのことを閉鎖したままでいるのは、卑怯なこと以外の何物でもないのだ。
「質問を変えよう。……志摩子は、私が女性を好きだということを知っている?」
 ――。
 長い躊躇いの後に、ゆっくりと志摩子は首を縦に振る。
「……そう。それは、性愛的な意味を含めていることを知っている?」
 ――肯定。
「つまり、私はいわゆるレズビアンなんだ。志摩子に面と向かって言うのは初めてだけど、……やっぱり、知ってたんだね。なんとなく、志摩子にはバレてるんじゃないかって思ってた。私達は交わす言葉が少なかった分、それとは違う、深い意識的な部分で相手の心を伝え合っていたから。だから」
 祥子や令の姉妹に比べれば決定的な程に、私達にはコミュニケーションが欠けていた。だけどそれは、それを必要としない部分で会話できていたから。心を通じ合わせていられたから。
「志摩子は、私を軽蔑する?」
 ――強く否定。
「……いいんだよ、偽らなくても」
 レズビアンであること。それが性的な嫌悪の対象になるのは仕方が無いことだ。いくら精神愛論を唱えようとしても、それは人間の本質的な部分からの軽蔑であり、嫌悪なのだから仕方の無いことなのだと思う。
「そんなこと、無いです」
「……志摩子」
「そんなこと、無いですっ……!」
 冷静な志摩子は、志摩子自身が作り上げている幻像に過ぎない。本質的な部分ではとても激情に流されやすく、それは簡単に綻んでしまうものでもある。歓喜に感動した時、あるいは怒る時。志摩子はあるいはこんなにも幼い一面をも見せる。それは普段の志摩子像のイメージがあるから、ますます際立って見える姿だ。
 私の為に泣いてくれる人がいることはどうしてこんなにも嬉しく、また同時に不安にさせられるものだろうか。志摩子の目元から縦に流れた小さな雫。拭ったそれはとても冷たくて、ただそれだけで心から冷たさに支配されそうになる自分を見た気がした。
「志摩子」
 嗚咽し、掠れ泣く志摩子を私は抱きすくめる。
「お姉さま……?」
 驚きの声を上げるが、それでも志摩子の嗚咽は止まらない。志摩子がひとつ息を咽に詰まらせるたびに、私も心にひとつずつ詰まるような痛みを覚えた。
「どうして、こんなにも自分の心は自由にならないものだろうね。それは、志摩子と契約を交わした日から、自分の中で閉ざした筈の感情でもあったはずなのに」
 心の部屋をひとつずつ閉ざして、気持ちを偽ることだけに上手くなって行く自分がいた。自分の気持ちを押し殺せば、自我を人に見せなければ、ただそれだけのことで世界は簡単に生きていくことができた。心の深い場所では飢えている自分を見ないわけではなかったけれど、飢えという本能的な欲求ですら、私は心の中で閉ざすことをいつしか覚えた。
 だけど、だけど性的欲求とはこんなにも愚かに、ただ求めつづけるものなのか。二年間、いつだってこの感情に禁忌の札を貼りつづけてきた。だけどその気持ちは、拘束すればするほどに唸るように痛みを上げつづけ、いつだって心の場所を奪い、荒れ狂う。
「――志摩子、好きなんだ」
 心はいくらでも美化することができる。だけど、この気持ちはあまりに直線的だから。だから、偽ることも嘯くことももうできない。私の理性も自制心も、そこまで追い詰められるところまできている。
「勿論、愛している、という意味でだよ志摩子。あるいは、性的な意味でもある。私は志摩子の心が欲しい。そして、躰も、私だけのものにしたい。志摩子を全部、独占したいんだ」
 それは、軽蔑されても仕方のない、貪欲な感情。素直な感情はいつだって、汚く見える感情や行為に近い場所にある。精神論を全うすればいくらでも美化することはできるけれど、私はそれが嫌いだった。
 ふいに、風が小さく凪いだ。志摩子の髪が私の顔に触れ、そして唇が触れた。
「……お姉さま、いまご自分がどんな顔をしていらっしゃるか、ご存知ですか?」
 志摩子の、細長くて、氷のように冷たい指が私の顔を撫でる。
「今のお姉さまは、とても辛そう。怒るように、あるいは痛みを訴えるように。――私はお姉さまと離れている間も、ずっとお姉さまを苦しめていたのですか……?」
 確かに意識せず強張った顔をしている自分がそこにいた。愛を告白するには、あまりにも不適当だったかもしれない。
「違う、志摩子のせいじゃない。――私が、全部身勝手だったんだ。志摩子を愛したことも。その気持ちを押しとどめられないことも。志摩子を苦しめると解っていながら、こんなにも傲慢にも志摩子を求めに来たことも。全部、全部! 私が身勝手なだけなんだ――」
 言葉の端々は途切れ途切れになってしまう。私の感情も昂ぶって、涙が頬を伝った。私も、志摩子と同じ。本質的部分では、どんなにも脆い自分しか無い。
「もう、何も言わないで……」
 志摩子のほうからも私の背に手を回してくる。志摩子の躰の温もりが、私の躰に直に伝わってくる。
「私はお姉さまの何も否定しないから、だからそんなにご自分を苦しめるのはおやめになって……!」
 そういう志摩子も、とても苦しそうではないか。私が、ただ私だけが、こんなにも志摩子を傷つけるのか。私さえいなければ、私と出会うことさえなければ。志摩子はもっと幸せに、いられたのではないだろうか。
 だけど、志摩子と出会ってしまった。
 もう修正されることの無い時。そしてもう偽れない自分。だからこそ、癌のように、より一層の苦しみが滲み出るのだろう。
「好きです、お姉さま」
「……志摩子」
「勿論、愛しているという意味ですっ! ええ、お姉さまと同じで性的な意味でもですっ! 私だって、ずっとお姉さまが好きだったのに――! 好きだったんだから――!」
 強い力で抱き竦められた。それは志摩子の力だとは思えないほどで、一瞬私はわけがわからなくなった。
 志摩子の嗚咽はより一層激しいものになる。だけ私も似たようなものだから、もう私が泣いているのか、志摩子が泣いているのか。どちらが声を上げているのか。どちらがしゃくりあげているのか。もうわけがわからない。
「だいたいですね、お姉さまは勝手なんです――! 私の気持ちなんて初めから解っていた筈なんだから。お姉さまが私に嘘をつけないように、私だってお姉さまに嘘がつけないんだから。私は何も否定しないんだから――!」
 それは、真実だった。
 私は、知っていた。志摩子が私を愛してくれていること。私が求めれば、多分拒まれないこと。だけど、認識の外にあるレベルで、私は志摩子を求めることが不安だった。怖かったのだ。
「ごめんね、志摩子」
 時計が無いので解らないが、もう人が来てしまう。いや、人が来ても私は構わないが、きっと志摩子が困る。私は諭すように、志摩子に口付けた。
「ありがとう、志摩子」
 もう何もこれ以上言葉を交わす必要は無かった。もともと、私たちに言葉は必要無いのだ。
 離れていた日々が辛かった。触れられない日々がもどかしかった。だけど今、私たちはこんなにも近くで、深いところで通じ合えている。だから私は満足できた。きっと志摩子も、私と同じ気持ちでいてくれるのだろう。