■ 冬のあしあと

LastUpdate:2004/11/03 初出:snowflakes(同人誌)

 軽快なメロディが音の無かった世界に響き渡る。令はそれを重い気持ちと覚悟で受け止めた。
 無機質な音色群で構成されたポップメロディは僅か数秒で勝手に止まってしまう。それは携帯へのメールの着信を知らせるものだ。メールの内容は見る前からわかっている。空メールだ。
 先刻から落ち着かない様子で小説を読んでいた令は、栞も挟まずにベッドの上に本を投げ捨てた。どうせ内容なんてちっとも頭に入ってない。
 寝間着のボダンに手をやりながら、ひとつひとつを確認するような慎重さで、ゆっくりと外していく。
 音の無い部屋に衣擦れの音だけが響く。外はもう真闇そのもので、時計の短針は二と三の間を示している。外した上着を丁寧に畳みながら令は思う。
――こんな時間にまで起きるようになったのはいつの頃からだったか。
 念入りに暖房を聞かせている部屋とはいえ。寝間着を脱ぎ捨てれば妙に肌寒くも感じてしまう。
 ある冬の日の土曜日。実際には、数時間も前に日曜日へと日が替わった深夜。
 明日(今日)は学校も無く、どこに出かける用事があるわけでもない。強いて言うなら由乃と本屋に行く約束をしているぐらいだが。
 ……こんな遊びをしていては。おそらく、起きるのは二人とも昼過ぎになってしまうことだろう。
 はぁ、と令はおおげさに溜息をついてみせた。そしてそれに背中押されるように手早くブラとショーツを脱ぎ捨てる。最後に靴下も脱いでしまえば、まるで外にいるのと変わらないような寒気すら感じ、からだ躰は小さく震えてくる。
(もしもいま、家族の誰かが入ってきたら……)
 そんな想像が頭を掠める。令の部屋に鍵は掛からない。引き戸だからつっかえ棒などで開かないようにできないことはないが、そうする意味は無い。なぜなら、誰かの手によって開けられるまでも無く、令自身の意思によって、これからこの扉を開けなければならないからだ。
(こんなの、ほとんど変態だよ……)
 だけど冷静にそう思えるのも、この扉を開けるその瞬間までだ。一度この扉の外に出てしまえば、もう二度と正常な思考は帰らない。過去に一度体験して、令は文字通り、それを痛感した。
 一糸まと纏わぬ姿のまま、令は携帯を手に取る。
「メールアリ」の文字脇に添えられる差出人の名前はやはり「島津由乃」。内容は予想通りの空メールだ。
 簡単な操作でそのメールに返信をする。返信内容もやはり空メールのまま。
 受信したメールは「そろそろ時間だよ」の意味。
 送信したメールは「今から行く」という意味。
 送信完了を確認してから、文庫本と同じように携帯も投げ捨てる。いよいよ、外に出なければならない。
 冷や汗がそのまま、令の躰にうっすらと浮かび上がる。奇妙な緊張感と、ごく僅かな恐怖感。背徳感。
 どうして、こんなことをするようになったのだろうか。

     *

 元々は、ケンカが事の発端だった。
 別に令と由乃の間にケンカなんていうのは、珍しいことでもなんでもない。令の動作の何かひとつ気に入らなかったり、あるいは由乃の機嫌が何らかの理由でよくなかったり。そんなことで簡単に二人はケンカに発展してしまう。
 令自身、それは別に嫌ではないとも思っている。
 由乃が意味もなく怒ってきたり、当てちらしてきたりするその相手に、令が選ばれていること。そのこと自体が令を喜ばせていた。もちろん、それに困惑させられたりすることも少なくはないけれど、それだって仲直りさえしてしまえばいい思い出だ。ケンカするほど仲がいいとも言うし、実際私たちは仲がいい。その延長線上にケンカがあるのだと思うし、由乃がそういった感情を正直に令にぶつけてきてくれるのは、純粋に嬉しいことでもある。
 ただ、今回の始まりになったケンカでいつもと違うことがひとつだけあった。それは、普段のケンカのほとんどが由乃の一方的な理由であるのに対して、その回のケンカについては、一方的に令に責任があることだった。
 以前令は由乃とケンカをしているときに、ちょっと由乃にやきもちのひとつも焼いてもらえたらと思って、不必要なほどに乃梨子ちゃんに優しく接した期間があった。実際に由乃はやきもちを焼いてくれたらしいから、そのこと自体は成功だったのだけれど……それが令の意図的な行為であったと知った由乃は怒った。そしてそれは、由乃が怒るのも当然のことであると令も思った。
 だから正直に令は謝ったのだけれど……それで簡単に修復できるようなら良かったのだけれど。何度謝っても由乃はなかなか許してはくれなかった。だって令に一方的な理由があるケンカなんて今までそうそう無かったことだから。だから由乃自身、どの程度で許していいものかが分からなかったのだ。
 そうして何日も過ぎた後の深夜に、令は携帯のメールでも謝っていた。
 正直、令はかなり辛かった。精神的に追い込まれていたと言ってもいい。
 令が求める傍に由乃がいるのは当たり前のことで。寂しいときには、かならず由乃がいるのが当たり前で。
 令の傍にあって当然の人がそこにいないという虚しさ。令は初めて孤独であることの辛さを知ったような気がした。だって本当に、由乃は令と一緒にいるのがあたりまえだったから。令の心や躰の一部分が無理やりに引き剥がされているかのように。それはとても痛くて、辛いことだったのだ。
 ここ数日はいくらメールで謝っても返事の返って来なかったそれに、その時に限って返事が来ているのを見て令は驚かされた。許してくれたのだろうか、という期待とともにメールを急いで開いてみると、そこに書かれた文章は、
『――裸で私の部屋まで来たら許してあげる』
 というものだった。
 もちろん冗談だ。それは令にも簡単に解ることだった。ただ、由乃はまだ許してくれていないだけだ。
 だけど……もう令には本当に耐えられなかったのだ。令と由乃はきっとひとつのもので、離れていられるようにはできていないのだから。令には、由乃がいなければ生きていられないのだから。
 もしこのメールの通りに行動したなら。――そうしたなら、きっと由乃も許さざるを得ないに違いない。その誘惑に、令の理性は勝てなかった。
 そうして、こんな妙な遊びが始まってしまった。
 初めて裸で由乃の部屋を訪れたときに、令はまるで自分が自分で無いかのように、思考は高揚し、躰は火照り、そしてもっとも敏感なつぼみ蕾が、普段ありえないぐらいに濡れそぼっていたのを覚えている。あれを由乃に知られるのは、卒倒してしまいそうなほど恥ずかしかった。
 そしてそれを知ってもらえるのが、とても嬉しいことだとも思った。
 仲直りをして、それから数日後にもまたケンカをした。
 今度悪いのは由乃のほうだった。令は由乃に何も言うことなく、深夜に玄関の鍵を開けて、由乃に空メールを出した。ほどなく、由乃は生まれたままの姿で令の部屋に訪れた。
 いわば、これは二人の間で決められた代償行為。平たく言えば、二人の間で決められた、秘密の罰ゲームだ。
 いつからか、ケンカはこの行為をもってしか許されないものになっている。逆に言えば、この罰ゲームを行えば許さなければいけないことになっている。暗黙のルールが二人の間で約束されていた。

     *

 そして、今回は令が罰ゲームを受ける番だった。
(……あまり考え事をするのはよくないな)
 そう自分に言い聞かせる。躊躇すれば躊躇するほど、外には出づらくなるだけだ。
 動機がどんどん早く加速してくる。令はとうとう意を決し、両手で引き戸に手を掛けた。
 扉を開けた瞬間、異世界に投げ込まれたような錯覚を覚える。それは過去に何度にも体験した感覚だ。
 さっきまですら肌寒いと思っていたのに。部屋の中の十分に暖められた空気はあれよあれよという間に薄らぎ、かもい鴨居をまた跨いでしまえば、まさに冬の寒さが躰を滑っていく。令の体温が急速に奪われていく。
 それとは対比的に、令の思考は熱中症のように朧げになり、どこまでも高揚していく。
 ――おか侵されていく。
 その表現がもっとも適切に思える。正常な思考は奪われ、躰はどこまでも冷え切っていく。そして、しかし。令の躰はより内側の場所から、かぁーっと熱く火照っていくのがわかる。
 下腹部にある自分のもっとも敏感な場所に触れてみて、改めて令は思う。
(……私って、どうしようもない変態だ)
 だけど、初めての時ほどそれが嫌でないのは、いつか令の部屋を訪れた時の由乃のそこもまた、今の令の時と同じように湿っていたからだ。
 そんな自分を認めてしまえる自分がいて。そういった自分を、あざけ嘲る自分がいて。その二律背反のかっとう葛藤に、令はいつも縛られていた。
 薄暗い廊下を、令は一歩一歩踏みしめるように歩いていく。毎日丁寧に水拭きされている床は、裸足で歩くだけでキュッキュッと音を立てる。その音は、令の深いところにまで響いていくようだ。
 玄関で靴を履く。令の部屋と由乃の部屋との間の約束の空間で、ここだけが何かを身につけていい瞬間だ。
 実を言うと初めて由乃の部屋に言ったときには、外に出たときも裸足だったのだけれど……さすがに、島津の家の玄関に砂利が落ちていたりすると危険だし、それに暗い庭を裸足で歩くのは危険だから。ここだけは靴を身に着けていいことにしている。
 静かに、玄関の扉を開ける。ガラガラ……と音を立てて扉は開かれた。より厳しい冷たさがなだれ込んでくる。スースーとした感覚が敏感な場所に。つまり胸の双丘の先端や、あるいは股間に直接的に響いてくる。
 暗順応していた眼に月明かりが眩しい。空を見上げれば雲ひとつ無い晴れた星空。まばゆい光に照らされて、夜の中にくっきりと令の裸身も浮かび上がる。
 雨のときも嫌だったけれど、こんなに明るすぎるのもちょっと嫌だ。夜だからって誰が外を歩いているか分からない。裸で庭を歩いているのを見られて、近所で噂でも立てられたらと思うと……かなり本気で怖い。
 できるだけ路上から見えないように身を低くしながら、令はそそくさと島津家の玄関へと急ぐ。もともと二世帯住宅と呼ぶにふさわ相応しい距離なので、ものの数秒で玄関へと辿り着くことができた。
 支倉家が純和風建築なのに対して、島津家は洋風でも和風でもない、微妙な建物。家屋全体は支倉家と並んで立っていても違和感が無いように和風の作りをしている反面、玄関は洋風の作りで、ドアだって開きドアだ。
 ドアノブを回して、少しだけ引いてみる。鍵が掛かっていないのを確認して、令はそのまま身を屋内へと忍び込ませた。
 支倉の家と同じぐらいに、見慣れた島津の家。家の外が予想以上に明るかったからまだ眼が慣れていなくて何も見えはしない。それでも迷わずに記憶で進めるほどに、ここは令にとって通い慣れた場所だ。
 建物全体の床がカーペットで覆われているかのような島津家は、こういう時にはありがたい。それは階段にも及び、令は剣道で慣れたすり足で、音も立てずに二階へと上がる。上がったその先にあるのが、由乃の部屋だ。
 ゴールへたどり着いた安心感が令の緊張を和らげる。令は慣れた手つきで、由乃の部屋のドアを開いた。
 否。開こうとした。
 ガッ、と鈍い音を立てて、扉はピクリとしか動かない。
 ――開かない!
 令の思考は恐慌をきたした。
 なんで開かない。なんで開かない!
 部屋を間違えているわけではない。そもそも、まさか由乃の部屋を間違えるはずなんて無い。しかし力任せにノブを捻ろうとすればするほど、ノブは強固に抵抗するだけだ。
 しかもその音が、ガッ、ガッ、と深夜の静まり返った島津家に鳴り響く。令は慌てて手を止めた。再び静寂が訪れる。
 由乃の部屋の隣には両親の寝室がある。もし音に気づいたとして、不審に思ってこちらを見にきたら――由乃の両親が令を見間違えるはずは無いだろうし、令自身もきっと逃げられない。
 なんて恐ろしい。令は恐怖に身をすく竦ませる。
 令が音を立てるのをやめると、そこにあるのは絶望的なほどにシンと静まり返った静寂だけだ。恐怖がどんどん心を蝕んでいき、脚が竦みあがる。令は立っていられずに、そのままそこに膝を着いた。
(……令ちゃん)
 由乃の声が聞こえた気がした。
(……令ちゃん、聞こえる?)
 確かになんとか判別できるぐらいの声が、ドアの向こう側から聞こえてくる。それが由乃の声であることを、聞き違える令ではない。令も慌てて由乃と同じぐらいに声をひそめて、ドア越しに話しかけた。
(由乃、聞こえるよ。開けて)
 令の声は震えて、こんがん懇願というよりはあいがん哀願に近い。
 しかしそんな令の気持ちを知ってか知らずか、由乃は声の表情を一切変えることもなく、あくまでたんたん淡々と令に話しかける。
(あんなに音立てたら、お父さんもお母さんも起きて来ちゃうよ。令ちゃんはそんなに裸が見られたいの?)
(だって、由乃の部屋に鍵が掛かってるんだよ。早く、ここを開けて)
(……どうしようかな)
(由乃ぉ)
 令があまりにも情けない声を上げた。
 いままさに令の命運は由乃によって握られている。
(だって令ちゃんも前回私が行ったとき、なかなか開けてくれなかったじゃないの)
(そう……だったっけ?)
(そうだよ。私とっても不安だったんだから)
 そういえば、そうだったかもしれない。
 ちょっとしたおふざけのつもりで、令は確かに由乃が来てもなかなか扉を開けてあげなかった気がする。扉につっかえ棒をするまでもなく、令が引き戸を押さえれば由乃の力では開けることなどできない。無理に力任せに開けようとすれば、それで生じた音を恐れることになるのは由乃のほうだ。
 その立場が、いままさに逆転している。
(ごめん。ホント、ごめん。もうしないから、だから、だから早くここを開けて)
(ダメ)
(由乃ぉ……)
 不安が急速に増してきて、令は膝で立っていることすらできなくなる。へたへたと廊下に尻を着き座り込んだまま、少なくない量の涙を流しながら。
(じゃあ、問題出すね)
(はっ?)
(だから、問題出すから、答えてね)
(なんで)
(だって、今日は令ちゃんへの罰ゲームだから)
(それは、そうだけど)
(だから)
 なんだか、よくわからない理屈だった。
(わかった。じゃあ答えるから)
 なんにしても、早くここを開けてもらわないと、もう令にはこの状況に耐え得うるだけの精神力も無い。
(問題。私が一年の時のクラスは何組?)
(菊組)
(……簡単すぎたか)
 そんなこと、いくら思考がふにゃふにゃになってるからといって、絶対に間違えない。由乃の誕生日も、血液型も、何もかも。絶対に間違えない自信がある。
(正解したんだから、入れてよ)
(まだダメ。じゃあ、祐巳さんの誕生月は何月?)
(えーと、確か、四月)
(……正解)
 隠しもせず、ドアの向こう側で由乃が舌打ちしたのがわかった。
(なんで、祐巳さんのことそんなに詳しいの?)
(詳しいわけじゃないけど、なんか聞いたことあるね)
(祐巳さんのこと、好きなの?)
 由乃の声が嫉妬のそれに変わる。――ヤブヘビだ。
(そんなこと、ないって)
(私よりも、祐巳さんが好き?)
(そんなことない。由乃が一番好きだよ)
(ウソ)
(嘘じゃない)
(ホント?)
(本当)
(……本当かなあ)
(ホントだってば!)
 なんだか、妙な問答をさせられている気分だ。
 だけど、由乃を好きだという気持ちは本当だ。そしてそれは、きっと由乃が求めているレベルをとうに超えてしまっているに違いない。限度を超えてしまった感情はただ醜悪なだけでしかない。
(じゃあ、愛してるって言って)
 だから、それは令にはなかなか言えない、誓いの言葉でもあった。
(愛してるよ、由乃)
 偽りの無い、本心だ。
 令は、由乃を、愛している。
 いつか伝えようと、決めていた真実のきもち。
(結婚してくれる?)
 だから、その由乃の台詞にドキッとしてしまう。
(結婚はできないと思うけれど……)
 こんな時にも、冷静に答えてしまう自分が嫌だ。
 勢いだけの約束さえできない、自分が大嫌いだ。
(してくれないんだ)
(一緒に住むぐらいなら、できると思うよ)
 そのぐらいなら、きっと両親も簡単に許してくれると思う。もちろん、お互いが大学に入った後になってしまうのだろうけれど。
(それから令ちゃんは、恋人を作るの?)
(そんなことない。由乃が好きだよ)
 由乃を思う気持ちは、決して他の感情を寄せ付けない。
だから令は、もしこのまま自分の気持ちを由乃に告げる機会を得られなかったなら、ずっと由乃のことをひっそりと思い続けながら生きて行こうと決めていた。
 それはあまりにも極端な考え方なのかもしれないけれど……きっと令は、由乃が誰か恋人を作ったり、あるいは結婚しても、きっと自分の気持ちを捨てられないだろうから。そんなに簡単に諦められない。きっとずっと、諦められない。どうしても捨てられないどんよく貪欲な感情なら、もう受け入れるしかない。
(本当?)
(本当)
 由乃と同棲。
 由乃と結婚。
 それは何度か考えてきた未来だった。
 だけど、まさかこんな状況で告白することになるとは。
(私のお父さんやお母さん、令ちゃんのお父さんやお母さん。皆に堂々と話せる?)
(……それは)
(……できない?)
 それも、今までに何度だって考えてきたことだ。
 今まで何年にも渡って令が苦悩し続けてきた総てを、いま由乃に吐き出している。ここまで正直に問われている以上、隠し続ける意味も無い。令が、ずっとずっと、考え続けてようやく出した結論。
(……するよ、約束する。由乃がそうしてほしいなら、必ずわかってもらうまで説得する)
(祐巳さんや志摩子さん、祥子さまや黄薔薇さま。蔦子さんに真美さん。みんなにも話せる?)
(……由乃が、そうして欲しいなら、話す)
(きっとみんなけいべつ軽蔑すると思うよ。それでも?)
(私は構わないよ)
 それも、何度か考えた未来だ。
 令は思う。結局のところ、私は由乃だけがいてくれたなら他のことなんてどうでもいいのだ。由乃だけが傍にあればいい。他のものはなにひとつ手に入らなくたっていい。
 由乃だけが、必要。だから。
(それでも私は由乃が欲しいから。由乃が信じてさえくれたなら、誰にどう思われてもいい)
(……本当?)
(うん。私は由乃の為なら、なんだってできるよ)
 言った。とうとう言った。
 まさに心中はそんな感じだった。
 やはりできればこんな状況で言いたいことでは無かったけれど……それでも、いつかは話すべきことで。それもなるべく早く話さなければいけなかったことだ。
(嬉しい……!)
 由乃がドアの向こうで泣いているのが分かった。
 顔が見えない、手も触れられない。それでも、ドアの向こうで流れている由乃の涙を、嬉し涙だと信じても構わないだろうか。肯定の気持ちの裏返しだと信じても、構わないだろうか。
 令もまた本当に嬉しかった。もし由乃がそれでいいのであれば、二人の気持ちが一緒なのなら。もう他に障害なんて、何一つ無いのだから。
(じゃあ、令ちゃんにひとつお願いがあるの)
(うん、なんでも言って。由乃のためなら私、何だってできるから)
(そこでオナニーして)
(………………………………………………は?)
 何度目か分からないが、また令の思考が真っ白になる。いきなり卑語を唱えた由乃への驚きと、欲求されたその行為自体への驚き。
(できない?)
(……できるけど)
 なぜ今。ここで。
 令は未だに正常な思考を取り戻せない。
(やるから、だから部屋に入れて)
(そこではできない?)
(できるけど、できれば部屋の中で)
(うん、部屋の中でもやって欲しいけど。とりあえず、そこでもやって欲しいかな)
 ――なんてことを。
(できない?)
(……できます)
(じゃ、やって)
(……はい)
 もう何を言っても逆らえない気がした。
 おとなしく、令は従うように右手を自分のそれに触れさせる。そこは既に溢れんばかりに潤っていて、令自身、かなり驚かされてしまう。
 部屋で自分を慰めた行為の後ですら、きっとこんなに濡れてはいない。もしいまショーツを身に着けていたら、薄布を通してくっきり透けて見えてしまうほどにぐっしょり濡れてしまっている。
 窓から差し込んできた光が、廊下に零れた令の愛液を浮かび上がらせる。
 死んでしまいたい。と令はちょっぴり本気で思った。
 もちろん、由乃と気持ちを確かめ合ったいま、絶対に死ぬわけにはいかないが。

     *

 いったんそこに触れてしまえば、後は特に支障をきたすものではなかった。令の手は経験に流されるままに、自分の躰のより敏感な部分を、最大限に求めて止まない愛撫で満たそうとする。七割の快感に三割の痛みを含ませること。それが令にとってもっともあっけ呆気なく躰を高みに上らせるためのプロセスだ。
 冷たい風が階段から繋がる廊下に流れた。しかしそれも、令の火照りきった躰には意味を成しはしない。
 甘いうず疼きだけが、感覚を支配している。
 いつもより濃い麻薬が令の脳を侵し、恍惚感に呑まれていく令の思考のもや靄はいつもより深い。裸で、由乃の家の廊下で、という異常性。扉ひとつ隔てた向こう側に由乃がいる、という事実。それらが、普段から令が自分に課しているこの行為を、より深くて、濃密なものへと変化させているのだ。
 心臓はここに来る前から早鐘を打っていた。それも、さらに早く、そして荒々しいものになっていく。
「んっ……!」
 音を漏らしてしまう恐怖は、いまはどこかに忘れてしまったかのように。もし由乃の父母が起きていたなら確実に気づかれる、そのレベルの声を断続的に令は廊下に溢れた冬の空気に、ひび割るように走らせる。実際には今もその恐怖は令の傍にある。しかし、そんなことは些細なことで。今は快感のまま侭に令は動きつづけることしかできない自動人形に過ぎず、ただ性を覚えた獣のように自分の躰に刺激を与えつづける。
 白い吐息が月光に照らされて浮かびあがる。月明りの下でなまめ艶かしくうごめ蠢くしたい肢体は、とてもみだ淫らで美しい。
 令の思考はやがて妄想へと昇華する。
いま令の敏感な芽に触れているのは令自身の手ではなく、由乃の手だ。淫らに開かれた令の両足の間の蕾に、由乃の冷たい指先が差し込まれる。敏感な芽に触れては、優しくそれを撫でたり、あるいはキュッとつねったりする。由乃に触れられているという妄想と指戯が、さらに大量の愛液を令のそこから分泌させる。
「ふあっ、あああっ……!」
 悦びの声が上げられるとともに、さらに令の躰が大きく後ろに傾いだ。
 小さくけいれん痙攣しながら、大きく白い吐息を吐き出す。
 それはなんと、幻想的な光景だろうか。
 気づけば妄想のものではない、由乃の冷たい手が令の躰に触れていた。いや、あるいは意識しすぎた妄想か? それとも現実? 開け放たれた由乃の部屋を見るまでの数瞬、令の頭は混乱してしまうが、ようやくそれを現実だと認識する。
「令ちゃあん……」
 由乃の下が令の乳房の先端に触れた。達した直後だというのに、再び達してしまいそうになるほどに、令の内側に再び過剰な量の快感が芽生えてくる。たくさんのものが麻痺していき、感覚だけに総てが侵されていく。
 しかん弛緩していた筋肉は、再び戻ってきた快感に反応するように緊張していく。張りつめた神経に由乃の舌先が直接的に刺激を与えてくる。そのひとつひとつに、令の躰は踊り狂う。
 再度達するにはそう時間は掛からなかった。大きく開脚された令の脚の間に由乃が顔をうずめる。糸を引く蜜に満たされたそこを吸ってみたり、芽を舐めてみたり。そうした刺激のひとつひとつに、精神は狂気的に侵されていく。刺激は躰の総ての神経に接続され、跳ねるように令の躰は反応した。
 令の吐息は荒い。真っ白に染まった令の吐息が、体温の高さをうかが窺わせる。
 由乃が令の躰にぴったりと頬を寄せてくる。令はそんな由乃を、両腕でしっかりと抱きしめる。
 あるいは由乃も、令と同様にとても深い寂しさの中に埋もれていたのだろうか。
 二度も達した令の躰。それでも令の本能は、さらなる交歓を求めてやまない。
 令は優しく由乃の傍に顔を近づけた。どちらが促すでもなく、自然に二人の瞼は閉じられ、唇が静かに触れる。
これは、始まりのキス。約束のキスだ。

     *

 令の腕に抱きかかえられた由乃の躰がベッドの上におろされる。令もまた由乃の上に覆いかぶさるように躰を下ろし、二人で上下に深いあいながら再び唇を重ねる。
 今度のキスは先刻のもののように、生易しいものでは決して無い。繋がれた唇の隙間から二人の舌が進入し、お互いの体温が行き交う。令の唾液が重力の法則に従って由乃の中に流し込まれ、由乃の舌先が令の歯を舐める。喉を鳴らして唾液がゆっくり飲み込まれ、由乃の舌先にはなんだか甘いような酸っぱいような、よくわからないエナメル質の味がした。
 やがて息苦しくなるのに耐えかねて、ぷはっと放たれるように二人の唇が離れた。混ざり合った唾液が二人の間に糸を引く。令はその糸を左手で切り離してすく掬い取ると、自分の舌でそれを舐めた。
「廊下、あとで掃除しないとね」
 由乃が熱い吐息を洩らしながら言った。
「……すごく濡らしちゃったからなあ。拭いておかないと、見つかったら大変なことに」
「ふふ、令ちゃんの匂いがするから一発でバレるよ」
 そういわれると苦笑いをするしかない。令は由乃の敏感な場所に左手を這わせてみる。あっ、と由乃がキーの高い声を短く上げて敏感に反応する。由乃のそこもまた、令に負けじとも劣らぬほど大量の蜜を滴らせていた。
 それを舐めとってみると、確かに由乃の味がする。
 両手を由乃の小さな胸の膨らみへと這わせる。由乃が小さく息を漏らしたのを確認してから、ゆっくりと揉みしだく動作へと連携させていく。小さい突起をコリコリと指先で回してみたり、軽く抓って遊んでみたりする。
「ふうっ、ううっ……!」
 由乃が決して小さくない音量の声を上げる。そのまま両手で由乃の胸元を遊びながら、令は由乃の首元に舌先を這わせる。そこが由乃のウィークポイントで、胸だけに刺激を与えていたときよりも、確実に声は大きく高いものへと変化していく。
 その舌先の愛撫は後ろは襟首のほうまで、前面は鎖骨にまで及び、その動きひとつひとつが由乃の背筋に通る神経に鋭い感覚を走らせる。時には吸いたててみたり、あるいは鎖骨の出っ張りを甘噛みしてみたり。狂おしい程に身を委ねて、由乃が敏感に躰をくねらせる。由乃が漏らす官能的な喘ぎが、令の中にある疼きも大きいものへと肥大させていく。
 数分の愛撫を続けた後に、令は由乃のもっとも敏感な芽がある近くに右手を這わせながら、いい? と由乃に目で訴えかけてみる。由乃が頷くのを確認してから、その中に指先を一本だけ挿入させる。
「はあっ、ああ……!」
 由乃の声がさらにボルテージを増していく。さすがに音量の点でも、そして由乃が誤って舌を噛みはしないかという点でも心配になってきたものだから、令は手持ちぶさたな左手の人差し指と中指の日本を、由乃の口の中へとゆっくりと差し込む。
「力いっぱい噛んで構わないから」
 由乃自身も自分の上げている声のそれが気になっていたのだろうか、普段以上の素直さで頷くと、おもむろに令の日本の指を前歯で噛み締める。結構な力でくわ咥えられたが、痛いとはちっとも思わなかった。
 性の行為は決して軽い運動量ではない。由乃の手術の話があったときに、令はいつだって泣いてしまいそうなほどに弱りきっっていた頃の自分を知っている。だけど、その頃に由乃が乗り越えてくれた大きな痛みがあったから。こうしていま、幸せな行為にふけ耽ることができる。
 躰の火照りに真っ赤と称してもいいほど顔を紅潮させている由乃を見ると、愛おしさでいっぱいになる。
 人差し指を由乃の中でちゅうそう抽送させてみたり、あるいは由乃の内側を令の伸びた爪の先で軽く引っかいてみたりする。途端に由乃が左手の指先をきつく噛みしめながら、悲鳴にもきょうせい嬌声にも似た声を上げる。同時に力が加わった由乃の躰が、由乃の中に進入している側の指先もきつく締め上げる。それによって、指先が与える刺激はより深く由乃の躰に与えられることになる。悪循環だ。
 さすがに由乃の体力的にもこれ以上は辛そうな気がしたので、令は指先を由乃の中から抜き去る。切なそうなため息を由乃が上げた。そのまま令の中指と親指は由乃の躰のもっとも敏感な芽に刺激を与え続ける。刺激のリズムと同じ速さで、由乃の呼吸と躰の反応が並走を始める。そしてそれは、徐々に加速度を上げていく。
「ひうっ、あっ。はああああ……!」
 由乃が今までで一番大きい声を上げた。躰が大きくブリッジし、浮き上がる。
 やがて筋肉が弛緩し、由乃の躰もドサッと重力と共にベッドへ崩れ落ちた。

   *

 びっしょりと汗ばんだ二人の躰がぴったりとくっつきあう。なるほど、これが幸福感だろうか。
「祥子さまがね」
「……どうしていま祥子の話をするかなあ」
 せっかくの行為の後での寄り添いのひとときを、祥子という名前がなんだかいっきに冷静にさせた。
「いいから今は話させて。前に祥子さまがね、
『私がヒステリックだったり狭量だったりする自分を隠しもせずに出せるのは、信頼した友達だと信じているからこそできる、甘えなのよ』
 ……って言ってたことがあるの」
「ああ……」
 祥子が感情を露骨に表してくれるのは、確かに山百合会の中だけでのことだ。令や由乃、祐巳、志摩子、乃梨子、瞳子、可南子。そういった信頼できる人間の前だけで見せられる弱さ。
 だから祥子は、たとえ令と話している時であっても、廊下や教室などの他の人に見られる場所では決してそれらの感情を表に出すことは無い。それは、許された仲間の間でだから出せる、甘えなのだから。
「私もね」
 由乃の右手が、添い寝する令の左手を握る。
「私も、令ちゃんに色々理不尽なことを言ったり、簡単に怒ったりするのは、ただの甘えなんだよね」
「……知ってる」
「あはは」
 だろうね、と由乃が笑った。
「だけど、本心はね。本当にいつだって、令ちゃんのことが大好きなの。令ちゃんが傍にいてくれれば、私は他に何もいらないの。令ちゃんだけが、あればいいの」
「……由乃」
「それだけは、言っておきたかったの」
 由乃はそういうと、満足そうに眼を閉じた。
「私も、同じ気持ちだからね。由乃」
「うん。信じてる」
 令もゆっくりと眼を閉じた。
 幸せな時間。幸せな場所。
 きっと、それはこの先ずっと失われることが無いのだ。
 なぜなら、相手が自分と同じ気持ちでいてくれるから。
 それは、どんなに幸せなことだろう?
「……ところで令ちゃん」
「なに?」
「もう六時なんだけど。……令ちゃんとこの小父さん、もう起きちゃってるんじゃないかな」
「え、えええええええっ!」
 あわてて時計を見る。六時を過ぎて二十分。
 駄目だ、父はおろか、多分母も起きている。
「……やば」
「うちの両親は会社休みだしまだ起きないけれど……」
「服とかは当然、持って来てないわけだしなあ」
 裸一貫で来ているのだから、当然の話だ。
「……とりあえず、うちの親が起きる前に掃除しよっか。今廊下とか見つかったら、本当にバレるよ」
「靴も部屋に持ってきておかないと……。由乃、悪いけど十時ぐらいになったら私の部屋まで服を取りに行ってきてくれる?」
 やることは山積みだ。
 なんだか目も覚めてしまったし、今日はこのまま買い物にでかけてしまうのもいいかもしれない。
 きっと今日からはもっとこれまで以上に、二人で幸せな時間を過ごしていけるのだろう。
 だって、もう障害なんてない。
「いっそ裸で帰ればぁ?」
「よ、由乃ぉ……」
 二人の未来にあるのは、約束された幸せだけだから。