■ Polaris

LastUpdate:2005/04/01 初出:しまのり同盟様の企画に投稿

   ――いつか。
   お姉さまが、私に「ポラリスのようだね」と言ったことがある。
   その時には。私は、お姉さまがそう言った意味を理解しかねて。
   ただ、曖昧な返事しかできなかったのだけれど。



 暦の上ではとうの昔に春。だというのに、冬の冷たさは未だ街に注がれたまま。武蔵野の少し小高い丘の上に建てられたこの学園ではその厳しさはなおさら肌に強く感じられ、薔薇の館の中に足を踏み入れても、コートを脱いで椅子に掛けた瞬間から僅かに肌寒さを意識せずにはいられなくなってしまう。
 大勢でわいわいと騒ぎ賑わっていたならきっと気にならない程度。けれど、それも薔薇の館に三人しかいない今では、志摩子の制服の裾から出た手首や掌、寒さ対策の膝掛けでは抑えられないスカートの中の靴下から露出した脚。そんな端々の場所から、じわじわと冷気が体温に及んでくるのがどうしても感じられてしまう。
 志摩子と祐巳さんと、それに乃梨子。最近はそんな三人だけの組み合わせが多い。
 昨年末の学園祭にクリスマス会に期末試験。今年に入ってすぐの生徒会役員選挙。年末年始にイベントの目白押しだった反動からか、それらの後始末も終えた二月に入ってからというもの、他の三人はめっきり姿を見せる機会が少なくなった。
 忙しない頃には山百合会絡みで奔走せざるを得なかったのだから、それも仕方の無いこと。令さまと由乃さんは部活。祥子さまは家の用事。山百合会に制限されて令さまは部長であるにも関わらず部活にあまり顔を出せず、祥子さまもどうしても外せない用事以外はほとんど断っていたのだと言う。だから暇になった今、その束縛されていた分を取り返す為に山百合会から遠ざかるのは、本当に仕方の無いことだった。
 令さまが部活に出れば由乃さんも出る。だから、だいたいいつも部活に所属していないこの三名が山百合会に毎日顔を合わせるわけだ。
 正確には、祐巳さんや乃梨子とは違って志摩子は部活に入っていないわけではない。けれど、環境整備委員会の仕事なら昼休みにだってできることが殆どだし、他にもやって下さる人が結構いるから、放課後にあまりあちらに時間を費やす必要は無かった。
 閑散期とはいっても、雑事はそれなりにある。でも、そんなつまらないことは暇な人間がやればいい。志摩子も祐巳さんも乃梨子もそう主張して、他の三人を薔薇の館から送り出している。
 ……そのせいで、祐巳さんに元気が無いのは明らかだった。
 理由なんて考える必要も無い。祥子さまに、あまり会えないから。
「……ごめん、私、帰るね」
 祐巳さんがそう言った。来年度の部活の予算案を決める上での参考とする、仮予算案の編集作業がまだ残っていたけれど、さっきから祐巳さんの持ったペンが殆ど動いていなかったのを志摩子も乃梨子も知っているから。だから二人ともそう言った祐巳さまを咎めもせずに、ただコクンと頷いた。
 祐巳さんの姿は、日に日にやつれていくように見えた。
 祥子さまがいないというだけで、ここまで毎日のように疲弊していく祐巳さんの姿は、淋しくもあるけれど同時に羨ましくもあった。それはきっと、それほどまでに深く祐巳さんの中に祥子さまの存在が刻まれているということだから。
 コートを羽織って薔薇の館から帰っていく祐巳さまの背中は、疲れきって小さく丸くなっていた。けれどそれは病人や老人のような弱々しさではなく、どちらかといと志摩子には翼をもがれて失った雛鳥のように見えた。



 カリカリと、ペンを走らせる音だけが響く。
 三人がいなければ、残り三人で済ませればいいように。祐巳さんの調子が優れないようなら、志摩子と乃梨子であとのことは済ませればいい。祐巳さんの担当分だった場所も含めて、志摩子と乃梨子とは作業を再開する。祐巳さんは家で続きの作業をするつもりなのだろうけれど、申し訳ないけれど今の祐巳さまにてきぱきと作業が済ませられるとは……ましてや、予算案などという冷静に対処しなければならない仕事を問題なくこなせるようにはとても思えなかった。
 こんな風に祐巳さんが早めに抜けてしまうのも、今日に始まったことではなくて。昨日も、一昨日も。その前だって、祐巳さんは山百合会の作業から先に抜けて帰っていた。ただし、それは祐巳さんが自発的に先に抜けようとしたわけでは決してなく、祐巳さんの元気の無さがどうしても伝わってくるものだから、志摩子と乃梨子とが祐巳さんに無理に帰るように促したからだ。
 今日だって、本当は祐巳さんはまだ仕事を続けるつもりだったのだろうけど。でも作業が進んでいないのも、自分に元気が無いのも祐巳さん自身が誰よりもわかっていたから、自主的に帰っただけ。実際あと十分も帰らずに作業を続けていたなら、志摩子か乃梨子のどちらかが帰るように促しただろうから。
 三人だった部屋が、乃梨子と二人きりになる。
 祐巳さんがいれば多少は会話が弾む部屋も、乃梨子と二人きりになるとペンが紙を滑る音以外には、ただシンと静まり返ってしまう。
 志摩子も乃梨子も、どちらかといえば淡々と作業を済ませてしまう性格だから。黙々と作業に没頭してしまうことが苦にならない性格だから。会話が無くても息が詰まったりはしないし、むしろ何も考えずにただ予算案だけに思考を集中させられるのは、作業効率という面でもいいことだから。
 部活ごとに一括り三枚程度で提出された仮予算案。それらを志摩子と乃梨子とで分担して、一人当たり二十括りで六十枚。それだけ大量に積み重ねられた書類も、作業に没頭してさえいればみるみる片付いていく。



  ――ガタガタ。バサバサバサ。

「ひゃっ!」
「わっ!」
 急に、風が薔薇の館の窓を強く鳴らし、窓の外で梢が大きな音を立てた。まだ冬を思わせる冷たい空気と同様に、夕方にもかかわらず陽は落ち掛け、薄暗くなり始めていた部屋にいきなり響いてきたそれらの音に驚かされてしまい、志摩子は僅かに悲鳴を上げて身を竦ませる。そして志摩子の悲鳴につられて乃梨子もまた驚きの声を上げた。
「も、もう。驚かせないでよ」
「ごめんなさい、乃梨子」
 そう謝りながら、志摩子は部屋の蛍光灯を付けた。ついさっきまではまだ橙になっていない陽で部屋中明るく照らされていたというのに、いまは灯かり無しでは目が悪くなってしまいそうに思えたからだ。
 ふう、と一息つく。乃梨子もまたそんな一連の些事に没頭していた思考を削がれたのか、背伸びをしたりして一息ついていた。
「――お茶でも淹れるわ。何が飲みたい?」
 志摩子の手元の書類は、もう数括り程度しか残されていなかった。乃梨子も同様にあと少しで全て終わらせられる程度。いくらお互いにこういった単純作業が苦にならない性格とはいえ、何も飲まずに何も会話せずに、ここまで集中していたのだから我ながら苦笑するしかない。どうやら志摩子を驚かせた冬の風も、あのまま続けていたらそれこそ全て終えてしまうまで没頭し続けていたであろう二人に、適切に休憩を勧める役には立ったらしかった。
「あ、じゃあ私が淹れる。志摩子さん、何飲みたい?」
「でも、そのぐらい言い出した私が」
「いいの。私が淹れたいの。……駄目?」
 乃梨子にそう言われると、志摩子も一度は浮かせた腰を再び椅子に落ち着けるしかない。
「じゃあ、紅茶……いえ、熱い緑茶を」
「了解」
 乃梨子が流し場で手早くカップを二つ水洗いする。
 ――この季節の水は、まだ冷たいだろうに。
 最近の乃梨子は、志摩子にこういった雑事をやらせてはくれない。志摩子が自分がやると乃梨子に言っても、結局は上手く言いくるめられてしまう。



 コトンとテーブルに置かれた熱い緑茶が、湯飲みから激しく湯気を立てた。
「ありがとう」
 乃梨子にそうお礼を言って、少量だけ口にする。喉元から熱い緑茶が流し込まれて、体の裡から温められていく気がする。
 ほっとして脇を見上げると、すぐ傍に乃梨子の顔がある。乃梨子は自分用に志摩子と同様に熱い緑茶を淹れたみたいだったけれど、さっきまで作業をしていたテーブルを挟んだ志摩子の向かい側の席には、なかなか戻ろうとはしない。
「うん……?」
 疑問を志摩子がそのまま口にする。
 乃梨子が、テーブルの上に持っていた湯飲みをコトリと置いた。
「……乃梨子?」
 もう一度、傍の乃梨子に問いかけるように訊く。
 乃梨子の指先が、志摩子の指先に絡みつく。

  ――冷たい

 乃梨子の指先は、まるで建物の外に未だ残り続ける冬のように冷たくて。
 細くて、冷たい指先。志摩子の指に絡みつく。乃梨子は両手を志摩子の両手に絡ませながら、覗き込むように志摩子に近すぎる距離で視線を重ねてくるけれど、志摩子はすぐに瞳をそらしてしまう。
 乃梨子の瞳に視線を重ねてしまえば、魅入られてしまうような錯覚。
 もちろん、そんなことある筈が無いのだけれど。
「志摩子さん……」
 ぎゅっと、左右の手が乃梨子に握り締められた。
 きつく握り締められた乃梨子の掌は、それでも真冬のように冷たくて。



 乃梨子はふたりきりになると、いつも積極的に志摩子に触れてくる。
 だから、こうして志摩子に掌を重ねてきたり、鼻と鼻とが触れ合うかのような距離にまで顔を近づけてくるようなことも今日に始まったことではない。
 嫌ではない。……と、思う。
 乃梨子のことは好き。
 けれど……。いざ乃梨子が掌を握り締めてきたり、肌と肌とを触れ合わせたり、視線を重ねてくるスキンシップのそれを……志摩子は上手く、受け止め切れない。
 ただ、流されてしまう。流されているだけで、乃梨子の痛いほどに伝わってくる求めてくる気持ちに志摩子として答えを返せているわけではない。
「志摩子さん……」
 志摩子の耳元すぐ傍で、乃梨子が甘く囁く。
「好き……」
 その言葉の魅惑が。
 魔力が、どれほどまでに志摩子を縛るか。
(ああ……)
 深い酩酊感が、志摩子の中に溢れてくる。
 それは浸り、酔いの儘に身を任せたくなるほどの酔いの誘惑。
 けれど、同時にすこしだけゾワッとした恐怖感に似た感情を背筋にいつも感じる。
 似た感情……も何も無い。そこに志摩子が覚えている感情は、まさに恐怖そのもの。
 乃梨子が酔わせようとして志摩子に齎してくる甘い蜜の魅惑。それを口にして、その蜜で喉を潤して。
 乃梨子の魅惑の儘に、溺れてしまいそうになる自分が。
 ――怖い。



「志摩子さん……」
 甘く囁く乃梨子の声が、まるで冬の妖精が誘惑する唄のように。
「ぎゅっとして、いい……?」
 甘く滲んだ痺れが、脳髄を、全身を侵していく。
 もちろん、志摩子はそれを断れない。大好きな乃梨子だから。
 乃梨子も、志摩子がそれを断れないのを知っていて、訊いているのだ。
 乃梨子の両手が志摩子の背中に回されて、抱き竦められる。
 制服越しとはいえ、殆どゼロの距離で乃梨子の躰が、志摩子の躰に寄り添っている。
 乃梨子の躰は――ひどく冷たい。
 冷たいのに、甘い。

  ――雪娘。
 そんな単語がふと志摩子の頭を過ぎった。
 いつかの日本伝記か、何かで読んだ話。あるいは、怪談だっただろうか。
 雪女とも雪女郎とも呼ばれ、妖怪とも雪の精とも呼ばれる。
 雪娘は、雪田に迷い込んだ人間を魅了する。
 そして、魅了された人間は雪娘によって凍死させられる。

 志摩子を侵し始めている酩酊は、まさにそれに近かった。
 乃梨子の甘い冷たさに、心を委ねてしまいたくなる。
 その先に、まるで乃梨子によって殺されるかのような、ひとすじの恐怖さえ感じるのに。
 乃梨子になら、殺されてもいいか、とも思ってしまう。



「志摩子さん……」
 幾度目かの、乃梨子の甘い声。志摩子は何ひとつそれに抗えない。
「志摩子さんに、キス、したい……」
 哀願するような瞳で。乃梨子が志摩子に数センチの距離で視線を重ねてくる。
 乃梨子のことが好き。それは偽り無い感情だけれど……だけど、そんなこと、いい筈がない。
 ――でも、駄目と言えない。
 拒絶できない。抗えない。
 あるいは「してもいい?」と訊かれたら、まだ志摩子には拒めたかもしれない。
 けれど……「したい」と言われてしまっては。
 愛する乃梨子に強請られてしまえば。もはや既に魅了の淵に堕ちかけている志摩子に、どうして拒絶の言葉が紡げるだろうか。
 伝承に綴られた雪娘の唇の紅は、とても紅いと聞く。
 乃梨子の小さく細い唇の薄紅。
 志摩子を抱き竦めていた腕の拘束が解かれて。そして今度は志摩子の後頭部を支える。
 元々至近距離だった乃梨子の顔が、さらに近づいてくる。
 乃梨子が先に瞳を閉じた。
 理性は否定する。乃梨子と唇を重ねてしまうことに対して、激しくそれをいけないことだと、拒絶を示してくる。けれど、志摩子を侵す乃梨子の魔の魅惑が。そして同時に、キスしたいという志摩子の欲望も、また。
 魅了と、志摩子自身の心に根ざす欲望とが勝った。
 志摩子もまた、乃梨子に倣って瞳を閉じる。


  ――瞳を閉じた、その瞼の裏に
  小さく駆け抜けていく、胸の裡の恐怖心たちを
  志摩子は、見た。



「嫌っ……!」
 言葉も、行動も。まるで全てが志摩子の意志の管轄を離れたかのように。意図せずして志摩子の両手が唐突に強く乃梨子の躰を突き飛ばす。志摩子の躰と殆どゼロの距離で重なっていた乃梨子の躰だけが、まるで同じ細胞同士であるふたりが引き剥がされるような痛烈な痛みを伴って撥ね退けられた。
「……あっ!」
「……えっ!?」
 先に驚いたのが志摩子自身。続いてバランスを失って床に崩れ落ちた乃梨子が、ワンテンポ遅れて驚いてみせた。
 乃梨子が目を丸くしてこちらを伺っている。けれど志摩子自身、いま自分が何をしたのかちゃんと把握できていないのだから、その疑問の視線にも上手く答えることができない。
 ただ、志摩子が乃梨子を突き飛ばした。志摩子が乃梨子を拒絶したという事実だけがそこにはあって。その事実に、突き飛ばされた乃梨子も、突き飛ばした志摩子も、ただ唖然として何も言えなかった。
 途端に、冬のシンとした静けさが部屋の中に溶ける。窓の外でバサバサとコンクリートを削る竹箒のように耳障りな音を立てる梢さえ、いまはどこか異国の地から聞こえてくるラジオのように遠かった。
「し……」
(志摩子さん?)
 乃梨子の瞳が、そう問いかけてくる。
 志摩子の両腕が震えていた。否、志摩子の躰中が、自分のしてしまった行動に震えていた。
(私は、何てことを――!)
 いまさら後悔しても、もう遅かった。
 わなわなと、乃梨子の躰もまた小刻みに震えている。
「乃梨子……!」
 薔薇の館のその部屋から、立ち上がるや否や急に駆け足で飛び出していく乃梨子。
 志摩子もまた部屋を飛び出し、怪談の欄干に体重を委ねながら玄関口からいざ飛び出そうとする乃梨子に叫びかける。
「乃梨子!」
 乃梨子は志摩子のその高い声に一瞬だけびくっと躰を震わせたけれど、乃梨子は立ち止まらなかった。
 バン! と大きく薔薇の館の扉が開かれ、冷たい風が下から志摩子の世界に流れ込んでくる。
(――雪!?)
 まさか、こんな季節外れに。しかし、志摩子が玄関口から吹き上がってきて志摩子の頬にぶつかった礫に左手を添えてみると、それはまさしく氷の冷たさを伴った霙。
 未だに開かれ続けている玄関の扉から流れてくる霙混じりの冬の風の奔流の中で、(もしかして、これは乃梨子の涙だろうか)と志摩子は思う。
 乃梨子の涙は溶けかけた雨に近い霙である筈なのに、それは志摩子の頬でまだ氷のように鋭く凍えていた。

 

                *

 

 プルルルル……。プルルルル……。

 十二度目のコール音を鳴らしたところで、諦めて受話器を置く。
 乃梨子の携帯電話の番号。
 いままで幾度も掛けては番号も暗記した乃梨子の電話番号。その番号、携帯に電話して乃梨子が電話先に出ないことなんて、一度も無かった。そう、ただの一度さえ。
 食事中でも、就寝中でも。マナー違反な電車の中や映画館の中、湯浴みの最中でさえ乃梨子は電波が届かなかったり通話中でない限り、コール音が鳴る限り必ず電話口に出た。
 そこまで無理に電話に出なくても、と志摩子は一度乃梨子を窘めてみたこともあった。けれど、乃梨子は志摩子の言葉には決して頷かずに、反論してみせた。
「志摩子さんからの電話だから、出たいんだよ」
 そう言ってくれた乃梨子の言葉が、どれだけ志摩子に歓喜を与えてくれただろうか。
 けれど……けれど、そこまで言ってくれた乃梨子が、電話に出ない。
(――避けられている)
 たった一度の電話が繋がらなかった、それだけのこと。だけど、それがどれほど重い意味を示しているか。
 謝りたかった。乃梨子に電話で謝りたかった。けれど、電話は発信され受信する行為が成り立たなければ、お互いの合意が成立しなければ決して相手の元に届くことはない。
(もう一度電話しようか。今度は、乃梨子の家の電話のほうに)
 乃梨子が出なくても、何度かお会いした菫子おばさまが出るかもしれない。菫子おばさまにお願いすれば、電話口に乃梨子を呼び出してもらうことも可能かもしれない。
 そこまで考えを及ばせてから、そんなことを考えてしまった自分を志摩子は悔いる。
 そんなことをして何になるだろう。乃梨子が志摩子を避けているのは明白なのに、その乃梨子の意志を無視して無理やり電話口に立たせるだなんて。なんて、卑劣――。
 いちど降ろし、そして再び持ち上げかけた受話器から意を決して手を離す。
 自分の額に手を当てる。――熱は無いようだったが、どこかぐらぐらした不快な不安定感が志摩子の脳で揺れていた。
(乃梨子――)
 最愛の彼女の名前を心の中で呼ぶ。
 その声が、彼女に伝わることなどある筈が無いのに。



   ――夢を見た。
   それは、いつかの現実の回想リコール


「志摩子は、まるでポラリス北極星のようだね」
 夢の中にいる。それは、志摩子にもわかる。
 志摩子の夢の中で、けれどお姉さまは悲しそうに志摩子にそう言った。
 それは、いつかお姉さまが志摩子に告げた言葉。
 実際にその言葉を言われたときには、それが意味するものも何も志摩子にはわからなかったから。だから、突拍子もなく漏らしたその台詞に、ただ困惑することしかできなかった。
 けれど、今は違う。
 やっぱりそれが意味するものは今でもわからないまま。だけど、お姉さまが言ったその言葉は、今度は沁み込むようにすんなりと志摩子の裡に入り込んでくる。
「それは……どういうことですか?」
 夢の中だから。一度は逸した訊き返すその機会を、志摩子は得ることができた。
 志摩子がそう訊き返すと、少しだけお姉さまは目を細めてみせる。
 お姉さまが、いつからか持っていた魔法のステッキを振りかざした。
 すると、志摩子の夢が真っ暗な闇に塗りつぶされていく。
 志摩子の視界が全て黒で塗りつぶされると、そこには無数の星達が輝き始めていた。
 星空の天幕。
 志摩子の夢の中では、お姉さまは魔法使いになっていた。

「あの中で、一番志摩子の近くにある星はどれだろう?」
 お姉さまがそう訊いた。
 夜の帳の中には、無数の星達が煌いている。志摩子はその中の一点を指差して「あれでしょうか?」とお姉さまに問い返す。
 いま志摩子の夢の天幕を彩っているのは夏の夜空。あまり天文には詳しくない志摩子にもそれは簡単に理解することができた。なぜなら、志摩子が指差したその先に、まさに夏の大三角形が眩しく輝いていたから。
「なるほど」
 夢の中のお姉さまは、まるで現実のお姉さまのようにリアルに志摩子の答えに満足したようにそう仰った。
「志摩子、北極星はどれかわかるかい?」
 そう言われて、志摩子は空の端のほうを探し見る。
 どちらが北かわかれば簡単に見つけることができるのだろうけれど、方位磁石が無いからそれは叶わない。もともと詳しくない分野であることも相まって、北極星を見つけるのは決して容易いことではなかった。
 しばらく視線で探し回って、北斗七星を見つけてその傍を探してこぐま座を見つける。ひしゃく形のこぐま座を見つけることができれば、その取っ手にあたる部分の星が北極星だ。
「あれですわ」
 指差してお姉さまに答える。お姉さまがうんうんと頷いて、志摩子の解答が正解であることを教えてくれた。
 こうして改めてみると、意外にも北極星はそんなに明るい星では無かった。
 こぐま座を構成する星の中では明るいほうだけれど……同じこぐま座の中にもうひとつ明るい星がある。それと大して変わらないような明るさ。少なくとも、夏の大三角形を構成するベガ・アルタイル・デネブに比べれば遥かに暗い星だと言えた。
 北天に傾いだ場所にひっそりと佇んでいる北極星は、あるいはとても淋しい星のようにも見えた。
 お姉さまが、志摩子をポラリスのようだねと言った理由が、ようやくひとつだけわかった気がした。
 お姉さまは、志摩子自身よりも、志摩子の心を詳しく知っていたりもするから。
 志摩子の心の裡に、いつだって埋まっているひとつの感情の答え。
 ああ、そうか。私はいつだって、淋しいんだ――。



 お姉さまの指差す先に、夏の大三角形がある。
「あの明るい三つの星の中で、一番遠い星はどれかわかる?」
「……すみません、わかりません」
「適当にでいいから、思ったとおりに選んでごらん?」
 お姉さまにそう促されて、志摩子はひとつの星を選ぶ。
「あれは『デネブ』だね。どうしてあの星を?」
「他の二つに比べて、少しだけ薄暗いように見えたからです」
「なるほど。――正解だよ、志摩子。あの星が大三角形の中では一番遠いんだ」
 お姉さまにそれがデネブだと教えられて、他の二つの星の名前も志摩子は理解する。他の二つ、眩しく輝いている織姫と彦星がどちらかぐらいは志摩子にもなんとなくわかったのだ。
 中学校の理科の授業で、天体関係は多少習ったはずだけれど、今となっては上手く思い出せない。
 そう、確かベガとアルタイルが0等星。最も美しく輝ける星。そして、少しだけ薄暗いデネブが1等星。
 お姉さまは、志摩子のことを「ポラリスのようだ」と言ったけれど。志摩子にはむしろデネブこそ志摩子自身を指し示す星のように思えて仕方が無かった。
 最も明るく輝くベガは、きっと祐巳さん。それに見劣りしないぐらい十分明るいアルタイルは由乃さん。そして、ひとつだけ輝けないでいる私。
「じゃあ訊くけど、そのデネブと、向こうにある北極星。どちらが志摩子の近くにある星だと思う?」
 そんなの、考えるまでもなかった。
 志摩子はデネブを指差して示した。志摩子の頭の真上に輝くデネブは、北極星よりも明るい星だったから。
 けれど、お姉さまは「ブッブー!」と不正解のサイレンをけたたましく上げてみせたのだ。



「夜空というのは不思議でね、中空に――自分の真上に来る星を一番近い星だと錯覚してしまいそうになる」
 けれどデネブは北極星よりも八倍も遠くにあるのだ、とお姉さまは続けて教えてくださった。
「だから、夏が来れば織姫ベガ彦星アルタイルは何だかこうして見上げている自分達の近くに来てくれた様な気がするんだね。……でも、北極星だけはそれはないんだ」
 ――ああ。
 ようやく、お姉さまが志摩子のことを北極星に例えた意味がわかった気がする。
 でも、それだと――
「お姉さまだって、ポラリスではありませんか」
 だから、お姉さまにそう言い返してやった。
 お姉さまは志摩子のその物言いにすこしだけ苦笑してみせてから「そうだね」と自嘲気味に答えてみせた。
 ポラリスの高度は三十五度ぐらい。その高さ、いつも同じ高さに、いつも同じ方角に。
 誰にも近づくことはなく。常に一定の距離を置いて。
 志摩子も、お姉さまも。いつだって、そういう生き方をしてきた。
『志摩子はまるで、ポラリスのようだね』
 そう志摩子に告げるお姉さまの声が、少しだけ悲しそうだったのは。
『私たちはまるで、ポラリスのようだね』
 きっと、その言葉の裏返しだったのではないだろうか。
「決して近づいて来てはくれない。同じ距離をずっと保ったまま、ひっそりと冷たく輝いている」
 お姉さまが続ける。
「2等星の明るさは都心部の光害の中でも容易く見つけられるのに、けれどどこまでも淋しいんだ。
 淋しそうなのに、温もりを求めていないような。孤高の美しさ。――きっと触れれば、冷たい」



「でも、――だけど!」
 ひとつだけ、お姉さまにどうしても伝えたい気持ちが志摩子にはあった。
「孤独なポラリスでも、いいではありませんか! 誰の近くにいられなくても、私たちは同じポラリス同士だから、誰よりもお姉さまの傍にいられるからっ……!」
 それはまさに愛の告白に他ならない。その言葉をお姉さまにぶつけながら、志摩子の心にひとすじの痛みが走るのを痛烈に志摩子は感じていた。その痛みの理由がわからないほど、志摩子は鈍感でなどありえなかった。
「それはいけないよ、志摩子」
 けれど、お姉さまはそんな全身全霊をぶつけた志摩子の告白さえ、簡単にあしらってしまう。
(――どうして!)とお姉さまに訴えたかった。だけど、それができなかったのは。きっと、お姉さまがあまりにも悲しすぎる目をしていたから。
「そんな悲しすぎる求め方ではいけない――いけないんだ」
 吐き捨てるような言葉。
「悲しすぎる行き方しかできない私たちだけれど、だからこそこんな孤独すぎる生き方を止める努力をしなければいけないのだと思うよ。誰かと触れ合う為には勇気も努力も必要だけれど、いつか大事に思える人と一緒に触れ合って生きられるように頑張らなければいけないんだ」
「そんな……」
 そんなことを言われても、志摩子にはどうしたらいいのかわからなかった。
 悲しすぎる行き方しかできない私達だから、きっと未来はどうしようもないのではないか。
 決して報われることのない努力をしても、それこそ悲しすぎるだけではないだろうか。
 志摩子は、そう思った自分の気持ちを、素直にお姉さまに問いかけてみた。
「志摩子――世界は、私達だけで構成されているわけじゃないよ」
 お姉さまがそう言った既視感さえ感じられてしまうその言葉に、私は乃梨子の姿を思い描いていた。



「志摩子、忘れてはいけないよ。私達のように孤独にしか生きられない人間がいるのと同様に、そんな孤独な人間にさえ優しく手を差し伸べてくれる人が必ずいるということをね」
 いちど志摩子の中で乃梨子の顔を思い描くだけで、その乃梨子を想う気持ちがどんどん膨らんでくる。
 枯れることなく沸きたつ水源のように、どこまでもどこまでも。乃梨子を想う気持ち、乃梨子を愛しく想う気持ちだけが溢れかえってくる。
「だから、私たちは努力しなければいけないんだ。差し出された愛しい人の手を、恐れずに握り返せるだけの勇気を持たなければいけないんだ」
 正直言うとね、とお姉さまが続ける。
「志摩子に告白されて、心が揺れたよ。私たちは同じだから、確かに上手くやっていける。悲しすぎる生き方だけれど、きっと私たちはそれを悲しいことだと理解することなくただ一緒に居続けることができるから」
「……でも、それじゃいけないんですね」
 志摩子がそうお姉さまに言うと、「その通り」とお姉さまが頷いてみせた。
「でも……でも、私は乃梨子を拒絶してしまったんです……」
 乃梨子を突き飛ばした手を。乃梨子を自分の躰から引き剥がしたときのあの痛みを、いまでも志摩子は鮮明に覚えている。
「大丈夫、大丈夫だよ志摩子。志摩子はまだ、たったいちど握り返す筈のその手を掴み損ねただけなんだ。愛しい人と手を繋ぎ合わせるチャンスは、まだいくらでもある。やりなおしは、いくらだって効くんだ――」
 いちど掴み損ねても、二度目が。それに躓いても、きっと三度目が。
(――明日、朝一番に謝ろう)
 乃梨子に謝って。赦してもらうしかない。
 簡単には赦してくれないかもしれないけれど、それでも赦してくれるまで。
 私には――乃梨子と生きて行きたいのだから。

 そう決意するや否や、夢の世界からお姉さまの姿は消えていた。
 そこにはもう夜の帳も、星空の天幕もなく。
 ただ、志摩子の瞼を眩しくくすぐる陽光だけが、夢の終わりと朝の訪れを告げていた。

 

                *

 

 朝のホームルームの時間を告げるチャイムが鳴る中、志摩子は乃梨子を教室から連れ出した。
「しっ、志摩子さん……!?」
「来て」
 それは、まるでお姉さまが志摩子を妹にしたときの再現のように。
 夢の中でお姉さまが背中を押してくれたからだろうか。ホームルームをサボるということの罪悪感も、乃梨子にまでその被害を被らせるということさえ、いまの志摩子には些事のように思えて気にもならなかった。
 とはいえ、連れ出したのはいいけれど誰かに咎められるのは好ましいことではない。ホームルームの時間の開始時間と言うこともあって、乃梨子を引きずって廊下を歩けば色んな先生方とも顔を合わせることになる。堂々と志摩子が乃梨子を連れて歩いているから、生徒会関係の都合なのだと先生方が好意的に解釈してくださって何ひとつ咎められることはなかったが、そのままでは落ち着くことも叶わないのでとりあえず薔薇の館にまで連れて行く。
 薔薇の館に鍵は掛かっていない。何故なら乃梨子が登校してくるよりさらに早い時間帯に、志摩子自身が職員室から堂々と鍵を拝借して開けておいたからだ。
「し、志摩子さん、どうしたの? こんなの、志摩子さんらしくないよ?」
 薔薇の館の玄関の扉を閉めて施錠すると、乃梨子がそうまくしたてた。
 私らしくない。その乃梨子の評価は、むしろ志摩子には嬉しく思える評価だった。
「乃梨子」
「は、はい!」
 躰をぎくしゃくに硬くして、乃梨子がそう答える。
 志摩子は硬直した乃梨子から両手を掴み、志摩子の指先を絡ませる。
「え、えっ?」
 乃梨子が戸惑い、顔を赤らめる。それはまるで、昨日の志摩子の姿のように。
 ひととおり乃梨子と指先を絡めあった後、こんどは乃梨子の背中に両腕を回して、強く抱き竦める。
(えっと、次は――)
 昨日、乃梨子にされた思い出を手繰る。
「乃梨子」
「ひゃ、ひゃいっ!?」
「乃梨子に、キス、したいの……」
 瞳を、乃梨子の瞳にまで数センチの場所にまで近づける。
 志摩子と乃梨子の鼻の先がぶつかりあった。
 志摩子は率先して瞳を閉じた。
 だから、乃梨子が瞳を閉じたのかどうかはわからない。
 ただ、その数秒後。私は、生まれて初めて最も愛しい人と唇を触れ合わせることができた。



「ちょっ、の、乃梨子! だ、大丈夫!?」
 長いキスがようやく離れてから数秒、崩れ落ちるように床に膝をついた乃梨子に慌てて志摩子は声を掛ける。乃梨子が、あはははと乾いた笑いを浮かべてみせた。
「こ、腰が抜けた……」
「だ、大丈夫なの?」
「うん、ちょっとびっくりしただけだから」
 そう言うや否や、こんどはじんわりと乃梨子は目元の端に涙を滲ませたものだから、志摩子はというと軽いパニック状態に陥ってしまう。
「ご、ごめんなさい、嫌だったかしら? い、いきなりだったし、乃梨子の許可も貰わないで――」
「ううん、違うの。嬉しいんだよ、志摩子さん。嬉しいんだ……」
 未だに腰を抜かしていて立ち上がれないでいる乃梨子が、ぎゅっと志摩子の脚を抱きしめてそう言った。
「立てる?」
 乃梨子に右手を差し出しながらそう訊く。乃梨子がそれを掴み返した。
「きゃ!」
 力を込めて乃梨子の体を引っ張り上げる。けれど、一瞬ちゃんと立ち上がった乃梨子は再びバランスを崩してしまって、倒れこんでしまう。手を繋いでいた志摩子もろとも、部屋の壁の方にドタンと盛大な音を立てて転んでしまった。
「し、志摩子さん、大丈夫……?」
「ええ」
 思いっきり転ばされた志摩子の髪の毛についた埃を、乃梨子が軽くはたいて落としてくれた。



「ホームルーム、サボっちゃったね……」
「そうね……」
 ついさっき、ホームルーム終了の鐘が聞こえていた。もう数分で一時間目の授業も始まってしまう。
「ごめんなさいね、こんなことをしてしまって」
「あ、ううん……責めるつもりで言ったわけじゃないんだけど」
「ええ、わかってるわ」
 けれど、結果的に志摩子のせいで乃梨子をサボらせることになってしまったから。
「それと順番が逆になってしまったけれど。昨日のことも、ごめんなさい」
「……謝るんだ?」
 訝しそうに、乃梨子が謝った志摩子にそう訊いた。
「謝罪っていうのは、自分の非を認めることなんだよ。志摩子さんそれ、わかって言ってる?」
 志摩子はそう訊いてきた乃梨子の真意をはかりかねたけれど。
「ええ、もちろん」
 乃梨子が悪いのだなんてちっとも思わなかったから、躊躇無くそう答えることができた。
「そっか……じゃあ私は悪くないんだ?」
「ええ、乃梨子は悪くないわ」
「じゃあ、誰が悪いの? 志摩子さん?」
「ええ、そうよ……私が悪かったの」
 そうして乃梨子がそんなことを訊くのかはわからないけれど。悪いほうがあるとすれば、それは志摩子のほうだと思えた。
 どうして乃梨子を拒絶してしまったのか。どうして乃梨子を拒絶する必要などあるだろうか。
 きっと、私が全部悪いのだ。
「じゃあさ」
 乃梨子が、志摩子の横ですっくと立ち上がる。
「乃梨子、腰はもう……」
 大丈夫なの? そう乃梨子に訊こうとしたのも束の間。
 力任せに、乃梨子の手が志摩子の躰を押し倒した。
「こんなことをしても、それでも――私は悪くない・・・・の?」



 志摩子よりも体躯的にも劣る華奢な乃梨子に組み触れられてしまうのは、志摩子が押し倒してきた乃梨子に何ひとつ抗うことをしなかったから。仰向けに倒された志摩子の上に覆い被さるように乃梨子の躰がある今からでも、志摩子が抵抗して撥ね退けようと思えばきっとそうできるのだろう。
 けれど、そんなこと、何ひとつ必要ではなくて。
 今はもう、恐怖さえ遠い。ただ、傍にある乃梨子の温もりだけが。
 ただ、どこまでも心地よくて。
 ――いまさら。
 撫でてくれる冷たい息吹も、温かな日向も求めてなんかいなかったはずなのに。
 こうして、乃梨子とただ制服だけを挟んで体温を交わしているだけで。
 ――きっと、怖かったのは。
 近すぎる距離にまで迫ってくる乃梨子ではなくて。
 いちど、一線をおいていた最低限の距離さえ踏み外して近寄ってしまったなら。
 もう二度と。
 乃梨子無しでは生きていけなくなるような。
 どこまでも、依存せずにはいられなくなるような。
 乃梨子に寄り添わなければ、立つことさえ儘ならなくなるような。……そんな恐怖。

「それで」
 志摩子は、敢えて意地悪に乃梨子に訊く。
「私を押し倒しておいて、乃梨子は何がしたいのかしら?」



 志摩子がそう訊くや否や、乃梨子の顔が朱に染まった。
 陽はとうに落ちて。白色蛍光灯の灯かりの下、けれど夕日が照らしているかのように紅潮させた顔のままで、にっこりと志摩子に微笑みかけてきてくれた。
 組み倒された志摩子の上。乃梨子の瞳から零れ落ちた霙涙。
 泣いている乃梨子を志摩子はごく至近距離で見上げながら、それでも大好きな人の泣き顔を目の当たりにしながらも志摩子が悲しい気持ちに囚われずにいられたのは、むしろ嬉しい気持ちにさえ志摩子がなれたのは、間近で見上げる乃梨子の表情がその涙がとても似合うほどに鮮明な笑顔でいてくれたからだ。
「泣いてるの、志摩子さん?」
 その乃梨子の台詞に、泣いているのはあなたじゃない、と思う。
 けれど、志摩子の視界がいつしか滲んでしまっているのに気づいて、ああ私も泣いているのだと知る。
 涙は、悲しみごと人に伝染するけれど。嬉し涙は、その歓喜ごと人に伝染するものらしい。
 志摩子が胸の裡に抱えた歓喜の程と、まったく同じ量同じ形だけの歓喜の程を乃梨子が抱いてくれているのが志摩子にもわかってしまうから。
「今は、まだ勇気が無いけれど、でも」
 乃梨子が、続ける。
「きっと、もっと触れたくなる。だから」
「ええ」
(――だから、今はこれだけ)
 それ以上言葉を紡ぐことはお互いにしなかったけれど。思いはひとつ。
 乃梨子が目を閉じる。だから、志摩子も倣う。
 さっきとは違って、すこしだけしょっぱい味がするキスの答えは。
 お互いが求め合っている式の解に他ならないことが、もう確認できているから。
 だから、それ以上、急ぎ足になる必要はなかった。



   ――いつか。お姉さまが、私に「ポラリス北極星のようだね」と言ったことがある。
   だけど、私はもうpolar starは ぐ れ 星なんかじゃない。