■ もういちど、十二月

LastUpdate:2006/12/24 初出:web

 小さく揺れる薄闇の景色を眺めながら、祐巳は小さく息を吐いた。
 空を眺めてみても、月さえ見えはしない。遍く照らす月明かりも期待できない夜では街灯の拙い灯りしか頼りになるものは見当たらなくて、心許なさはクリスマスだというのにどこか心に寂しいものを抱かせた。
「すみません、遅くなりました」
 そんなことを考えていたものだから。すこしぼうっとしていた祐巳は、背中から掛けられた声で急に我に返る。
「お疲れさま、瞳子ちゃん」
「……乃梨子や、他の方々は?」
 祐巳ひとりマリア様の像の傍で待っていたものだから。いかにも怪訝そうに瞳子ちゃんが訊いてくるそれに、祐巳はふるふると首を左右に振って答える。
「みんな先に帰ったよ。先に帰っちゃっていいから、って私が言ったの」
「そうですか。……寒いですもんね」
「うん、寒いね。だから、さ」
 手袋をあらかじめ外しておいた左手を、コートのポケットから出して瞳子ちゃんのほうに差し出す。祐巳のそんな行動に一瞬だけキョトンとした表情をみせたものの、けれどすぐに意思を察してか、瞳子ちゃんは祐巳のその手を取ってくれた。
 瞳子ちゃんのキンキンに冷えた冷たい手ごと、自分のコートのポケットの中に突っ込む。
「……ホントは、瞳子ちゃんと早く手を繋ぎたくて、みんなに帰って貰っちゃった」
「そうですか」
 素っ気無く応える瞳子ちゃん。
 でもその言葉の陰では。ポケットの中で握る瞳子ちゃんの手に、少しだけ力を込めながら言った祐巳に確かに応えてくれるかのように、言葉とは裏腹にしっかりと祐巳の手を握り返してくれた。
 校門を出て、二人ポケットの中で手を繋いだまま一緒に歩く。私たちの関係は志摩子さんや由乃さん、乃梨子ちゃんにももちろん伝えてあるけれど、それでもさすがに友達の前でまでこんな風に手を繋いでいられるほど、祐巳も瞳子ちゃんも恥ずかしい幸せに浸ることには慣れていなかった。
「今日は、泊まれるの?」
 恥ずかしい気持ちを隠せずに、祐巳がそう訊くと「ええ」と瞳子ちゃんは頷いてくれる。
「折角のクリスマスですし、家族にもその旨は伝えておきましたから。……ですので祐巳さまさえ宜しいようでしたら、泊めて頂けますと」
 そんな瞳子ちゃんの物言いに、祐巳は少し苦笑してみせる。
「半分は瞳子ちゃんの部屋でもあるんだから、そんな風に言わないでよ」
「そう……ですね」
 少し思案する素振りをしてみせてから、瞳子ちゃんはなるほどといった具合に頷く。
 リリアンから程近い場所。徒歩でものの十分も掛からない場所に少しだけ広めの部屋を祐巳が借りたのは、およそ一ヶ月ぐらい前の話だった。
 ――いつかの未来に、瞳子ちゃんと一緒に住むことができたなら。
 そう夢見たのは決して最近のことではない。それはずっと長い間、夢見た未来で……。
 いま三年生の祐巳は、来年になればリリアンの大学側のほうに通うことになる。そのことと、たまたま祐巳の父親が設計した賃貸のマンションがちょうど最近になってリリアンの近場に建ったこととが相俟って、その未来図は現実に近づきつつあった。
「瞳子ちゃんが、私と同い年なら良かったのに」
 もしそうであったなら、晴れて三月の終わりごろからは一緒に住むことができたのに。
 祐巳がそんな風に愚痴を零すと、「いいえ」と言って今度は瞳子ちゃんがフルフルと首を振った。
「一年私が遅くて、良かったのです。だから私はこうして祐巳さまの妹になれた」
「そっか。うん……そうだね」
 ふふ、と瞳子ちゃんが静かに微笑む。
「できるだけ頻繁に泊まりに行きますから。私としても学校が近いのは便利ですし……さすがに、高等部を卒業するまでは一緒に住むわけにはいかないですけど」
「うん」
「いえ……きっと私が心底家を出ることを望んだなら、すぐにでも同棲は現実のものになるとは思うのですが。でも、まだ今の私は、あの家で時間を過ごしたいとも思うのです」
「うん、わかってる。私もそのほうがいいと思う」
 少しだけ残念だけどね、と付け加えてから、祐巳も小さく微笑んだ。
 冬の冷たすぎる空気は少し身体に報えたけれど、それでも私たちはとてもゆっくり家路を辿る。殆ど風が無い夜には、ただしんみりと身体に冷たさが沁み入ってくるように感じられて、どこか心が静かに淋しさを訴えた。
 それでも冬の夜闇に身を置いていても絶えず身体が熱を帯びてくるのは、もしかしたら繋がった両手のせいかもしれなかった。繋いだ初めには凍るように冷たかった瞳子ちゃんの手は、もう祐巳のものよりもよほど温かで、心地いい。
「祐巳さま……」
「……去年のことなら、何も言わなくていいから」
 重い口を開きかけた瞳子ちゃんの次の句を、祐巳の言葉が噤ませる。
「で、ですが、そういうわけにはっ」
 意を決して口を開くや否や、出鼻を挫かれてしまった瞳子ちゃんは、半分しどろもどろな答弁になってみせて。そんな様子に祐巳が小さくクスリと笑ってみせると、カァーッと顔を真っ赤にした瞳子ちゃんは「コホン」とわざとらしい咳払いをひとつ吐いてから、改めて心を落ち着けて口を開いた。
「……ですが、私は。祐巳さまに、本当に酷いことをしてしまいました」
「そんなこと……」
 そこまで口にしながら、けれど祐巳は二の句を継げない。
 本当はすぐに否定するべきだとは判っている。だけど……クリスマスだから。
 今日という特別な日を迎えてから、祐巳の心には何度も一年前のことがリフレインしてやまないのだ。心の中で何度かつての映像が繰り返されても、ただ過去の記憶を辿る映像でしかないそれでさえ、祐巳の心はあまりの辛さに拉がれる思いがするのだった。

 

  『聖夜の施しをなさりたいなら、余所でなさってください』

 

 言葉は酷く心を抉る。
 思い出すだけで、まるであの時のように。今にも泣いてしまいそうだった。
「……ごめん」
「いえ、私こそ、本当に……」
 祐巳が俯きながら吐き出すようにそう言うと、瞳子ちゃんもまた俯いてそう静かに零した。
「……昔の事を思い出して、怖がることなんて無いのにね。今はもうあの時みたいに、瞳子ちゃんに拒絶されることなんて、きっとないのに」
(――そう信じていいんだよね?)
 祐巳が暗にそういう気持ちを込めた視線で瞳子ちゃんの事を見つめると、「勿論です」と瞳子ちゃんはそれに言葉で応えてくれた。
「あの時の私は、もう本当に愚かで……祐巳さまを傷つけることしかできなくて……」
 申し訳なさそうに瞳子ちゃんが言葉を紡ぐと、祐巳もとても申し訳ない気持ちになった。
「あの時はやっぱり、泣かせてしまいました、か……?」
「……う、うん。でも、それは、私が泣き虫だからで」
「や、やっぱり、泣かせてしまいましたよね……」
 一段と瞳子ちゃんは眉を曇らせる。
「私、本当に馬鹿で馬鹿で――絶対に祐巳さまを泣かせたりしないように、って。以前に心の中で誓っていたはずなのに」
「……以前に?」
 以前にって、いつのことだろう、と思う。その時意外で瞳子ちゃんに関係することで泣いた記憶は、どうしても祐巳には思い当たらなかった。
「私、一度だけですが――とても祥子お姉さまのことを憎んだことがあります」
「へ? 憎む、って」
「祥子お姉さまのことを憎むと同時に、自分のことがとても許せなかった。――半分は祥子さまのせいで、半分は私のせい」
「……もしかして」
 半分は祥子さまの、というくだりで祐巳はピンと来る。
「でも、あの時は祥子さまと一緒に行っちゃったから、瞳子ちゃんはその場にいないはずじゃ」
「居ませんでしたけど、でも……祐巳さまが泣いたことは、その……有名、でしたから」
「ゆ、有名だったんだ、はは……」
 いつかの雨の中。祐巳は一度ひどく泣いたことがあった。
 あの時の私はお姉さまの妹である自分の立場を、とても不安定にしかまだ確かめられていなくて。だから、お姉さまが私を置き去りにしていった、それだけのことで心は(捨てられた)と早合点してしまったのだ。
「祐巳さまはあんなことがあったのに、私に親しくして下さって。祐巳さまと触れ合う機会を得るたびに、私はすぐに祐巳さまのことを好きになっていったけれど……同時に、私には祐巳さまのことを好きになる資格なんてない、という自覚もまた、強くなっていった筈なのに」
「瞳子ちゃん……」
「一度ならず二度までも。祐巳さまを泣かせてしまって……酷いことをしてしまっていて。私なんかに、祐巳さまのことを愛する資格なんて無いって理解ってます。……理解ってるんですが……」
 半分涙ぐみながら、瞳子ちゃんは祐巳の胸に顔を埋めてきた。
「お願いですっ……。祐巳さまにいつ棄てられてもどんなにも仕方の無い私ですが、どうか見捨てないで下さい。……私、祐巳さまに棄てられたら、もう」
 私たちは言葉を交わす途中から歩くことを殆ど放棄していたから、並んで歩いていたはずの瞳子ちゃんの前に回りこむことは簡単だった。
「あ……」
 瞳子ちゃんが驚きの声を僅かに漏らす。正面から、祐巳は身体ごと瞳子ちゃんのことを抱き竦めた。
 コート越しでも、確かに伝わる熱があった。瞳子ちゃんは居心地悪そうに少し身じろぎしてみせたものの、祐巳は構わず頑なにひしと抱き締め続ける。やがて瞳子ちゃんも諦めたかのように、祐巳の背中に手を回して軽く抱きしめ返してきてくれた。
「……そんな悲しいこと言わないでよ。私だって、もう瞳子ちゃん無しじゃ」
 それは、祐巳の正直な気持ちだった。
 いつかの拒絶を思い返すたびに酷い恐怖に苛まれる理由。それは、もしもいま――心の全てが瞳子ちゃんに奪われてしまっているいま、瞳子ちゃんに拒絶されてしまったら、きっと生きていけないという恐怖。
「――私はもう、二度と祐巳さまから離れません」
 でも、瞳子ちゃんがまっすぐに見据えてそう言ってくれるから。
 私はただ、何にも怯えることなく、信じていればいいのだと思えた。

 

 


 頬に、涙以外の水滴が触れた。
 ――雪。

 

 雪がまるで、去年の雪の瞬間から今日までを悲しみごと切り取ってしまうようで。
 やっと温かな吐息をつくと、白い吐息は静かに冬に蕩けて消えた。