■ 01−遣らずの雨

LastUpdate:2007/02/20 初出:web(mixi)

  初めのきっかけは、偶然図書館で見知った顔を見かけたこと。
  私はその時、少しだけ淋しい心を抱いていて。
  彼もまた少しだけ淋しそうな、陰のある表情をしていらして。

  普段の私なら、多分少し挨拶だけをして、それで終わり。

  でも私の寂寥と、彼の翳りとが。たまたま、近しい共感を志摩子に覚えさせたから。
  意気込んだわけでもないのに。不思議に、少しだけ勇気が沸いてきたのかもしれない。

  ――きっと、それだけ。

 

 

 

 

 

 

「祐麒さん、ですよね?」
「……へっ?」
 誰かに話しかけられることなんて、まるで予想していなかったのだろう。流し読みするかのように、ぺらぺらと適当にページを捲っていた彼の細い指先が、私の声でぴくっと震えた。
 シンと静まり返った図書館の中では騒音は禁物。だから私はすぐ傍にまで身を寄せて、囁くように祐麒さんの名前を口にした。でも、そのことが却って祐麒さんを驚かせることになってしまったのかもしれない。音量的には不謹慎というほどではないけれど、急に衝いて出た素っ頓狂な彼の言葉に、近くの席に座っている何人かの利用者が訝しそうに振り返った。
「えっと…………確か藤堂さん、ですよね」
 そのことを察したのだろう。祐麒さんもまた声を努めて潜めながら、そう志摩子に囁いた。
 祐麒さんの口から慣れない苗字が飛び出したことに、少しだけ驚きながら。志摩子は彼の挙げた名前を肯定するように、コクンと頷く。
「すみません、驚かせてしまったみたいで」
「いえ、こちらこそ。……志摩子さんにまで恥をかかせてしまったみたいで」
「そんなことは……」
 否定の言葉をそこまで発しかけて、けれど志摩子は言葉を噤む。
 館内は本当に物音ひとつさえしないほどの静寂に包まれていて、つい先程まではどこかで誰かがページを捲る音さえもよく聞こえるほどだった。そんな中だから小声でやりとりする祐麒さんと志摩子とのちょっとした会話でも、近くで読書に耽る方々にとっては十分に耳障りな騒音になり得るだろう。
「えっと、よろしければ」
「はい?」
「祐麒さんさえよろしいようでしたら、どこか別の場所でお話しませんか。その……あまり読書に、ご執心でいらっしゃらないようでしたら、ですが」
「……そうですね」
 祐麒さんもそのことは察していらしたのだろう。コクンと彼は頷くと、静かに席を立った。
 少しだけ、待っていて頂けますか。祐麒さんはそんな風に志摩子に言い残して、何の躊躇いも無く読んでいた本を閉じた。流し読みしていたぐらいなのだから、もとより読むことにさして関心が無かったのかもしれない。
 気持ち足早に、祐麒さんは本を棚に戻してくる。
「エントランスの休憩所にでも行きましょう。あそこなら、誰の迷惑にもならないでしょうし」
「そうですね」
 コクンと志摩子が頷いたのを見確かめてから、祐麒さんは先導するかのように歩き始める。志摩子もまた離れないように、足早に彼の隣に追いついた。


   *


 受付の横を通り抜けてエントランスに出ると、やっと静寂から開放された気持ちになって志摩子はホッと息をつく。隣を見遣ると祐麒さんも全く同じような表情をしていらして、それがなんだか少しだけ可笑しくってクスッと志摩子は笑みを湛えた。
「……なんですか?」
「いえ」
 志摩子のそんな様子に、訝しそうに祐麒さんが一瞬だけ振り返る。それがまた、志摩子を不思議に心地良い気分にさせた。
「何を飲まれます?」
 エントランスの一角、休憩コーナーの自販機の前で祐麒さんが聞く。三台も並んだ自販機の取り揃えは十分すぎるほどに多いようだけれど、それでも志摩子は迷わない。
「そうですね、私は緑茶にしようかと」
「温かいのでいいです?」
「あ」
 止める暇も無かった。祐麒さんは素早く硬貨を投入すると、志摩子がまさに買おうとしていた視線の先のそれを選んでしまう。
 ガタンッ! と音がして落ちてきた缶を「どうぞ」と祐麒さんが差し出してくる。一瞬躊躇いながらも、おずおずと志摩子はそれを受け取った。
「あ、あの、お代は払いますから」
 慌ててそう申し出るものの、すぐに祐麒さんに却下されてしまう。
「いいですよ。そのぐらいは奢りますから」
「でも」
「奢らせてください。……ジュースひとつ奢る甲斐性は無いのかと、あとで俺が祐巳に怒られてしまいます」
 祐麒さんにそういう風に言われては、志摩子もこれ以上食い下がれない。「すみません」と小さく口にして、引き下がる。あまりこういうことに慣れていない志摩子は、何だかそれだけで、とても申し訳ない気分になってしまった。
 休憩所には小さな円形のテーブルが幾つかと、それぞれに何席かずつの椅子が備え付けてあった。誰も利用客が他にいなかったので一番手近なテーブルに志摩子は腰を下ろす。祐麒さんも自分の飲み物を携えて来ると、志摩子と同じテーブルに腰を下ろした。
「それにしても、よく私の名前覚えていらっしゃいましたね。あまりお話したこともありませんのに」
 志摩子が正直にそう訊くと、祐麒さんは意外そうな目で志摩子を見つめた。
「勿論、覚えています。正直な所を言えば……苗字を思い出すのに少し手間取ってしまいましたが」
「そうなんですか?」
「すぐに『志摩子さん』だということは、思い当たったのですが」
 祐麒さんの言葉に、志摩子自身納得させられてしまう。
「私も苗字を呼ばれるのは久々でしたので、ちょっと新鮮でした」
 それは志摩子の正直な気持ちだった。リリアンの中に於いて身近な人には「志摩子さん」と呼ばれ、そうでない人には「白薔薇さま」と呼ばれる。お姉さまや家族には「志摩子」と呼ばれるのだから、苗字を呼ばれる機会なんて本当に少ない。
「どうぞ志摩子と呼んで下さい。私自身、苗字では呼ばれ慣れていませんから」
「そういうわけには」
「名前で呼んで下さらないと、私も『福沢さん』とお呼びしなければなりません」
 志摩子の言葉に、うっ、と祐麒さんは言葉を詰まらせる。やがて祐麒さんは根負けしたかのように一息吐いてから、了解してくれた。
「わかりました、ではそう呼ばせて頂きますね。えっと……志摩子さん」
「はい、お願いします。祐麒さん」
 僅かに頬を赤らめながら私の名前を呼んでくれる祐麒さんに。何だか、つられて志摩子のほうも少しだけ恥ずかしい気持ちにもなってしまう。