■ 02−遣らずの雨

LastUpdate:2007/02/27 初出:web(mixi)

「祐麒さんは、図書館にはよくいらっしゃるのですか?」
 志摩子が訪ねると、これには祐麒さんはすぐに首を振った。
「いえ、普段は全く。本を読むのも好きですし調べ物をすることも少なくは無いのですが、殆どが学校の施設で済んでしまいますから」
「ああ、花寺の――」
「志摩子さんは、普段からここをご利用に?」
 逆に祐麒さんに訪ね返される。志摩子はさっき祐麒さんがそうしたのと同じように、すぐに首を振って否定した。
「それが、滅多に。こういう場所には来ないのです」
「……そうなんですか?」
 少しだけ祐麒さんは驚いたような表情を見せる。確かに私は内向的な性分だし、彼にはそんな風に見えていたとしても無理はない。
「はい。面白そうな本は買い集めてしまう性分ですし、家族が読書家なものですから父の書斎にも読みきれないぐらいに沢山の本が」
「本とは無縁の、うちの家族とは大違いですね」
 祐麒さんはそう言いながらやや苦笑気味に微笑む。志摩子もつられて会釈した。
「それに調べものなどは、やはり私も学校に身近なところで済ませてしまいますね。……校舎の図書室自体は少し手狭いですが、リリアンには大学附属の図書館もありますので、そういう意味では花寺以上に優遇されているのかもしれません」
「ああ……なるほど」
 祐麒さんが得心したかのように深々と頷いた。
 ――そう、本当に。こんな場所に来たのは、今となってはっきりと思い出せない程に久方振りのことで。過去に利用した回数も殆ど無いし、最後に利用したのもここ数年のことではない。
 それだけに、志摩子はしみじみと感動を抱いた。
「……不思議、ですよね」
「え?」
「いえ――私も、祐麒さんも。偶然お会いすること自体、そうそうあることではないように思えますのに。それなのに、私たちはこんな、不思議な場所でお会いしている」
 心に浮かんだ言葉を、有体に口にする。

(…………しまった)
 言ってから志摩子は、自分が口にしたことがとても恥ずかしい台詞だったことに気づかされる。微妙に照れくさい気持ちのせいか頬が軽く熱くなるのを感じながら、きっと笑い飛ばされてしまうだろうな、と胸の裡で思った。
「なるほど……」
 だというのに。そんな志摩子の憶測とは裏腹に、祐麒さんは考え込むように真剣な顔になった。
 祐麒さんは体躯の面ではしっかりと男性でいらっしゃるけれど、彼の見せるあどけない表情のそれは祐巳さんのそれととてもよく似ている。でも時折見せる彼の真剣な表情は、なるほどいかにも男性的な魅力を持っていた。
「確かに不思議です。そうだな――巡り逢わせの運、みたいなのを信じたくなりますね」
「………………え?」
 たっぷり数秒間。志摩子は、祐麒さんの口から飛び出た言葉を心の中で反芻した。彼が笑いもせず真剣に、けれど志摩子以上に恥ずかしいことを口にするものだから。
「あ、あはははっ……!」
 我慢できない。誰の迷惑にもならないエントランスに移動していて良かったと痛感しながら、吹き出すように志摩子はお腹から声を上げてしまう。
 笑われることを覚悟さえしていたのに。逆に志摩子のほうが、笑いの声を上げさせられてしまうだなんて。
「……そこで笑うかなあ」
「ご、ごめんなさい――あ、あはっ」
 笑いの余波はなかなか収まらない。笑ってはいけないと思いながらも、本当に心の底から可笑しいと思ってしまうと、なかなか止め処ないものになってしまう。
 初めは少しだけ、むっとした表情を作って見せた祐麒さんは、けれどやがて志摩子に続くかのように微笑を零してみせて、とうとう自分でも小さく笑い始めてしまった。笑ったことを言い咎められても仕方が無いのに、彼はそうせずに、自分もまた同じように笑い始めてくれたのだ。
「酷いなぁ、笑うなんて。……うん、でも、確かに。今のは我ながらちょっと可笑しい台詞だったかな。あははっ……!」
 彼のそんな対応に、志摩子の心は急速に平静を取り戻す。責めるでもなく、ただ祐麒さんの言葉は沁み入るように志摩子の心に及んできて、好感を抱かせた。
「すみません、酷く笑ってしまって……」
「いえ。そう笑っていただけるなら、いっそ清清しいくらいです」
「私……こんな風にはしたなく笑うことだなんて、初めてかもしれません。不思議です……普段はこんな私じゃないのに」
「わかります。そんな風に、見えます」
 祐麒さんにそう言われて志摩子も頷く。そう見える私が、内面でもまた同じ私であることは、志摩子自身よく自覚していた。
「なんだか、祐麒さんと話していると変な気持ちになってしまいます。心も身体も、全部箍が緩んでしまったような、そんなとても安らかな心地になってしまうんです」
「…………そうですか?」
「はい。本当に、不思議です……」
 同時に少しだけ怖い、とも思う。普段の私でいられなくなる、そんな彼に触れることに。
「取り合えず、褒め言葉として受け取っておきます。うん、そうだな……もしも俺にそんな才能があるなら、確かに少しは意味があるのかもしれません。志摩子さんの貴重な笑い顔も、拝見することができましたし」
 祐麒さんが言った言葉は、致命的な程に気障な台詞だったけれど――今度は、志摩子はそれを笑うことはできなかった。彼の言葉は文面のままに、志摩子の裡に飛び込んでくる。
(どうして)
 心の中で疑問符を浮かべる。その答えは、すぐに導かれた。
 彼は、祐巳さんと同じなのだ。
 祐麒さんが見せる挙動、表情。彼が漏らす言葉、吐息。そのひとつひとつが、まるで祐巳さんのように自然に零れ出るものであるからだ。偽らず、抑えず、何の衒いも無い素直で正直な言葉。
 心は言葉にすると嘘になるはずなのに、彼の言葉はそうではない。だからこそ、率直に志摩子の心を打つのかもしれない。
「祐麒さんって、いい人ですよね」
「え?」
 心に思ったことを志摩子はそのまま口にしてしまう。言ってしまってから自分の吐いた言葉に気づいても、当たり前だけれど、遅い。
 どうしてだろう――彼の前にいると、志摩子は言葉を選ぶことができなくなってしまう。
「褒め言葉の意味で解釈してもいいのかな?」
「あっ……そ、そうですよね。急に『いい人』だなんて言っても、あまり良い意味には聞こえないですよね」
 すみません、と志摩子は慌てて祐麒さんに謝る。
「えっと、どう言い換えればいいでしょう。きっと私、祐麒さんのことが好きなんです」
「……その言葉では、もっと誤解してしまいそうになります」
「ふゎ、あ……そ、そうですよね! 私、何を……!」
 まるで虚像のように無機質な普段の私は、けれど祐麒さんと話していると姿を見せない。
 無機質な私自身こそ、自然体の私なのだと。志摩子自身そう確信していたのに。
(私、どうしてしまったの……)
 心が落ち着かない。いつものように、冷静でいられない。
 彼の傍にいると、私は私でいられなくなってしまう。熱病のように思考がおぼろげになるわけではないのに、けれど心が自由にならない。とてもクリアな思考の中で、なのに自分の心さえ見定められないだなんて。