■ 03−遣らずの雨

LastUpdate:2007/03/05 初出:web(mixi)

「それで志摩子さんは、今日どうして図書館に?」
「わっ、私ですか?」
 心が不確かに揺れていたから。祐麒さんが投げかけた疑問は当然のものであるのに、志摩子はとても焦ってしまう。意識してしまうとなお、彼の投げかけてくる声までもが特別なものであるかのように感じられてしまうからだ。
 落ち着かないと。そう思い、志摩子は深く息を吸って身体に行き渡らせる。努めて冷静な自分を装うことには慣れているはずの志摩子なのに、祐麒さんの前だと思いのほか難しい。
「私は……本当は図書館に来るつもりなんて、全然無くて」
「そうなんですか?」
 すぐに訊き返してきた祐麒さんに、志摩子は短く「はい」と答えた。
「乃梨子を。えっと……妹の乃梨子とは、確かお会いしたことが?」
「あ、はい、覚えています。確か、おかっぱ頭の」
「ええ、その乃梨子と。駅前のほうで待ち合わせをしていたのですが」
「……彼女の都合が悪くなった?」
 志摩子は頷く。そうでなければ、休日なのに街に一人で出ることなんてない。
「乃梨子は大叔母さまと一緒に住んでいるのですが、そちらが体調を崩されてしまったらしくて。
……情けない話なのですが、いざ一人で街に取り残されてしまうと、あまりする事も無くて……」
 図書館に来るつもりなんて、毛頭無かったのに。乃梨子と待ち合わせをしていたK駅の繁華街では、他の場所のどこに行くにも志摩子には敷居が高いように見えた。
 一人では買い物に行くことも、食事に行くことも躊躇われてしまう。――もともと一人では、騒がしい場所さえ苦手な志摩子だから。行きたい場所というよりも行ける場所が、図書館ぐらいしか思いつかなかったのだ。
 せめて今日がこんなに厳しい冬の日でなければ、まだ公園なり動物園なりに行くこともできたのだろうけれど。最後の砦の図書館でさえ、いざ来てみると何を読んだものか困ってしまって。乃梨子から連絡を受けた時点で帰ればよかった、と図書館に来た時点で志摩子は痛烈に思ったものだ。
「……でも、来てよかったです。こうして祐麒さんとお会いできましたから」
 それが今の志摩子の本心――祐麒さんには、不思議と人の心を素直にさせてしまう力がある。普段は口にできないようなことも彼になら言えてしまうし、言葉を選ばなければ口にできない頑なな志摩子さえ、祐麒さんの力は心を溶かしてしまう。
「や、そんな……俺のほうこそ、付き合わせてしまうみたいで」
「祐麒さんは、どうして今日はこちらに?」
 今度は志摩子が問い返す。祐麒さんは「えっと……」と、どう説明したものか頭の中で整理しているようだった。
「……俺も似たようなもので、小林という友人と約束をしていたのですが」
「小林さん? 確か以前お会いした、花寺の会計さん?」
「あ、はい。その会計の小林と映画を見る約束をしていたのですが」
「小林さんの都合が悪くなった?」
 さっき祐麒さんに言い当てられたように、志摩子もそう口にする。祐麒さんが浮かべた苦笑気味の表情は志摩子の言葉に向けられたものかと思ったけれど、どこか自分に向けて紛らわすかのようにも見えた。
「志摩子さんと違うのは、俺の場合家を出る前に連絡を貰っていたことですね。出かける前から小林が来れないと知っていたんです」
「なのに、家から出かけてこちらに来られたのですか?」
「はい。映画の前売りを買ってあったんです。それで」
「なるほど……」
 K駅を出て直ぐのところに映画施設があることは志摩子も知っていた。入ったことは無いけれど、駅を出た瞬間に上映中の映画を宣伝する大きなポスターが見えてしまう。
 実際に今日も駅前で乃梨子を待っている間に、映画のポスターは何度も志摩子の視界に飛び込んできた。急に暇になった時間を潰す、そのために映画は最適なものかもしれないと思わなかったわけではないけれど、それでも志摩子にはそこに入るという選択肢は生まれなかった。
「……私、映画を見たことが無いんです」
「え?」
 祐麒さんが驚きの声を上げる。志摩子は慌てて、言い繕う。
「あ、テレビでは見たことがあるのですが。映画館、という所に入ったことが無いのです」
「そうなんですか」
「はい。駅を出たときに否応無しに見えてしまうものですから、一度入ってみたいなという憧れはあったのですが」
「……確かに、あれは東口から出る場合には必ず目に入りますね」
 祐麒さんの言葉に、志摩子は頷く。
「映画館で見るのも結構良いものですよ。部屋で一人で見るのもそれはそれでいいですけれど、やっぱりスクリーンで見ながらちゃんとした音響で楽しむと臨場感が全然違います」
「……そんなに、違うものなのですか?」
 テレビ放送でしか映画を見たことがない志摩子には、いまいち実感が伴わない。
「ええ、一度見てみると、きっととても楽しいと思います。特にホラー物なんかは、正直逃げ出したくなるくらいに怖い」
「こ、怖いのはちょっと」
「怖くないのでも、やはり映画館で見ると全然違いますよ。そうだな、これは俺が前に見たファンタジー映画の話なんですが――」
 嬉々として話し出す祐麒さんの声を聴いていると、彼が本当に映画の事を好きなのだということが志摩子にもありありと伝わってくる。祐麒さんの声や話し方には、好きなものについて相手に構わずに捲し立てるような、深いな鬱陶しさが僅かにさえ伴わない。だから志摩子も純粋に興味から彼の話に耳を傾けることができた。
 なんとなく未開の地に足を踏み入れるのを恐れるような気持ちから敬遠していたのだけれど。彼の話はとても判りやすく志摩子の好奇心に響いてきて、素直に志摩子は映画館という場所への憧憬を心の中で強めていった。行こうと思えば今すぐにでも行ける現実感を伴う憧憬だから、そうした感情は欲望と言う形で簡単に心を溢れさせてしまう。
「……映画館のチケットというのは、当日でも買えるものなのでしょうか?」
 殆ど聞き役に徹していた志摩子だったが、居ても立っても居られない気持ちから祐麒さんにそう訊いてしまう。私が急に強く言葉を発したものだから、祐麒さんは一瞬だけ面食らったような表情を見せたものの、すぐに笑顔で嬉しそうに答えてくれた。
「はい、もちろん大丈夫です。封切り直後……映画が上映され始めたばかりだと、当日では見られないこともありますが、今の時期だとまず大丈夫だと思います」
「なるほど……」
 思い出す光景は今日乃梨子を待っていた間に見た、映画のポスター。同じ監督の作品は昔テレビ放送で見て、とても感動したのを覚えている。映画館で見るからといって、それ以上の特別な感動があるとは未だに信じきれない志摩子ではあったが、それでも憧憬はつのって止まない。
「あの」
 好奇心が背中を後押ししたからかもしれない。若しくは、素直に言葉が言えてしまう、彼にだからなのかもしれない。
 今まで疎んじて止まなかった、誰かに何かを求めたりするようなこと。言葉が喉を突いて出るまでに、戒めていたことを破ってしまうための勇気は、殆ど必要ではなかった。
「祐麒さんはこのあと、お時間があったりはしますか……?」
「え?」
 不思議そうな気持ちが映る彼の瞳が私を捉える。それでも私は怯まない。
「……それって」
 彼の言葉に志摩子は頷く。祐麒さんの真摯な瞳は志摩子に躊躇を覚えさせるのではなく、まるでより容易く本音を引き出すかのよう。
「よろしければ、私の好奇心の責任――取って頂けますでしょうか?」
 普段の私には決して言えないような言葉、なのに。