■ 05−遣らずの雨

LastUpdate:2007/05/01 初出:web(mixi)

 図書館から出ると案の定外は雨模様で。
 しと降る雨は冬の乾いた空気にけぶって、雨霧向こうの景色は仄かに不確かなものとして映る。煩い程の雨はあまり好きにはなれないけれど、このぐらいの静かにそぼ降る雨は志摩子のちょうど好きな按配だった。
「うぁ」
 背中で上がった素っ頓狂な声に振り返ると、祐麒さんが立ち尽くすように雨に見とれていて。
「傘をお忘れに?」
「……はい」
 その様子を見れば、あまりに一目瞭然で。志摩子にあっさり言い当てられた祐麒さんは、少しだけ恥ずかしそうな表情をしながらも、「困ったな……」と白い息と共に吐き出した。
「雨が降るって、判っていたのですか?」
 携帯していた小さな手提げから傘を取り出し、折り畳みの傘を簡単に組み立てる。そんな志摩子の様子を見て訊いてきた祐麒さんに、志摩子は首を振って否定した。
「この傘は、いつも持ち歩いてるだけで……。予報では、今日は雨が降らない筈でしたのにね」
「ああ、やっぱりそうですよね。俺も天気だけは、一応チェックしてきたつもりだったので」
 予報ではゼロパーセントだった雨。でも最近の冬空は、まるで秋頃の空模様のように不確かだ。朝方にはまるで降りそうにもない程カラッとした快晴なのに、昼を回ると急にぐずついたりする。この雨もきっと長くは続かない一過性のものなのだろうけれど……。
「あの」
 呼びかけた声に、祐麒さんが振り返る。
「よろしければ、半分。入られませんか」
「……へっ?」
「映画館まで、そんなに遠いわけでもありませんし。……折り畳み傘で狭いですから、肩は濡れてしまうかもしれないですけれど」
「で、ですが、そんな……」
 しどろもどろな答弁になりながら、なおも祐麒さんは躊躇する。
「だ、だめですよ。俺、ちょっとその辺で傘を買ってきますから」
「ですが、ここから駅前までがそう遠いわけではありませんし、もしかしたら途中で雨が止むかもしれません。……相合傘が、お嫌でしたら無理強いはしないですが」
「嫌だなんて……! でも、俺のせいでちゃんと傘を持って来られた志摩子さんまで濡れてしまうなんて、そんなのおかしいですよ」
「こんなことで祐麒さんが傘をお買いになられることのほうが、勿体無いですし、おかしいです」
 志摩子は引かない。
 あくまで傘を買うという祐麒さんと、あくまで勿体無いと主張する志摩子。その後も何度かお互いの主張がぶつかり合った後、ついに祐麒さんが折れた。
「……いいん、ですね? 本当に」
「はい。狭いですが、宜しければ」
 傘を差し出す。
「もしかしたら誰かに見られるかもしれません。……それでも?」
「それは……」

 祐麒さんの一言に、僅かに逡巡させられる。

「……それは、考え付きませんでした」
 山百合会の志摩子と、花寺生徒会長の祐麒さんと。
 確かにそんな場面を誰かに見られたなら、格好のゴシップなのかもしれなかった。自惚れるわけではないけれど、志摩子の顔は同じ学校の人たちにはあまりに知られているし、それは祐麒さんも同じことだ。
「私は……構いません」
 そこまで判っていて。なのに志摩子は、決断するまでにさして迷わなかった。
「でも、祐麒さんがお嫌でしたら、止めたほうがいいかもしれません」
「俺が?」
「はい。――私は誰に何を思われても気になりません」
 元々誰かに良く見られようとして生きているわけではない。そうした理由で山百合会に入ったわけではない。
 誰に何を思われても、きっと志摩子は気になんてしない。私は親しい友人にさえ、正しい自分を理解してもらえればそれでいいのだと、今まで何度もそう理解して生きてきたから。
 でも、祐麒さんの場合、そうはいかないだろう。
「やっぱり、止めたほうがいい、でしょうか」
 だから志摩子はそう口にする。


 ――いつか、祐麒さんは花寺の中で、実はなかなか微妙な立場に置かれているというのを祐巳さんから聞いたことがあった。味方もいるけれど、敵も多いと。そう聞いたことがあるから。
 私のせいで祐麒さんが口さがない人に何か傷つけられることになるのだとしたら、それは志摩子の望むところではなかった。


「俺が持ちます」
「あっ……」
 なのに、そんな志摩子の心配をよそに。祐麒さんは志摩子の手から傘を簡単に奪い取ると、二人の頭上で翳してみせた。
「こういう時は、男が傘を持つ役目ですから」
「……そういうものですか」
「はい、そういうものです」
 足並みを揃えて、二人雨の中を歩き出す。
 傘を叩く雨の音は結構煩く感じられて。改めて見てみると、二人で言い合う前よりも随分雨足は強まったように見て取れた。傘を叩く音も、地面を叩く音もとても煩くて。
「……志摩子さんって、意外と強情なんですね」
 だけど、そんな煩い打楽器の重奏のなかでも、彼の声はたやすく志摩子の耳に届くのだった。
「父や、妹の乃梨子や、祐巳さんにもたまに言われてしまいます……」
 少しだけ恥ずかしい気持ちになりながら、志摩子は答える。


 雨足はさらに強まる。志摩子はふと周りを見渡してみて、さっきの祐麒さんの指摘がそもそも間違いであると気づいた。
 雨は、世界の何もかもを見えなくする。もし見える世界があるとするなら、それは傘という境界で切り取った世界の中だけで。傘の外の世界になんて、とても目に入りはしないのだった。

 ――こんな雨の中では、世界は無関心になるのかもしれない。

 志摩子たちが周囲で傘を差している人たちに目もくれないように、きっと周囲の誰もが志摩子たちに関心を示さない。私たち二人が同じ傘を共にしているからといって、雨の中の世界では誰もそんなことを気にもとめないだろう。学校から程近い場所だから、もしかしたら見知った人が近くを歩いている可能性も無いわけではないのに。志摩子にとって傘の外に存在している総ての人々は、初めから顔さえも見えない他人でしかないように映って見えた。
 けぶる雨は世界をとても狭いものにする。まして小さな折り畳み傘の世界ならそれはなおさらで、小さな小さな世界の中で、志摩子と祐麒さんとだけが、ただ息をしていた。

 いま、志摩子と同じ世界に居るのは、唯一人で――。


「あ……」
 声が、出てしまう。
 狭い狭い世界の中、傘のアルミ軸を挟んで志摩子と祐麒さんとの視線が一瞬だけ交じり合って、すぐにほどけた。こんなに近すぎる距離では、恥ずかしさのあまりに私は彼と数瞬の間さえ見つめあっていることなんてできない。彼も同じ様子で、お互い同時にすぐに視線を逸らしあった。
 白く空気に溶けていく二人の吐息だけが、小さな世界の中で居場所を共にしている。
 寒いはずなのに、とても温かい切り取られた世界の中で。私は――
 ――初めて、彼のことが好きかもしれない、と。
 まだ淡くだけ浮かんだその気持ちを。けれど確かにこの瞬間に、抱いたのだった。