■ 06−遣らずの雨

LastUpdate:2007/05/19 初出:web(mixi)

「落ち着いた?」
 彼の優しい声も、今はどこか虚ろにだけ志摩子に届く。
「……はい、すみません」
 冷えた缶入りの緑茶を持ちながら、少し前まで観ていたスクリーンから出た先にある自動販売機コーナーの、脇に設置されたベンチの隅で。志摩子は未だ立てず、背中から壁に体重を任せるように、力なく全身を預けてしまうしかなかった。
 ――映画に、心を吸い尽くされてしまうかと思った。上映が終わって、入れ替えのために客の退場がアナウンスで促されても、自力では座席を立つことさえできなかった。
 どうして――。
 缶を持つ手は否応無しに震えてくる。心を打つものはたくさんあった。主人公達の勇姿や誠心は素直に志摩子を感動させたし、争いの剣戟や怒号は純粋に志摩子を畏怖の淵へと叩き落した。
 映画が始まってすぐ、志摩子には虚構であるはずの映画世界と現実との境目が判らなくなった。流れていく映画を見ているだけなのに、スクリーンを見ている観客でしかないという意識はすぐに失われてしまって。まるで姿が見えない傍観者として、映画の世界の中にリアルに自分が存在しているかのような気にさえなった。壮観な眺めに身を置けば心は燻るし、一度戦いの中に身を置けばあまりの恐怖に志摩子の心は恐慌をきたした。
「お恥ずかしい限りです……」
 殆ど消え入りそうな程の小さい声で、言葉を紡ぐ。
 映画で腰を抜かすだなんて。さすがの祐麒さんも、呆れたことだろう。
「いえ、そんなことは」
「そんなこと、ありますよ。……せっかくの機会を、こんな形でふいにしてしまうだなんて……」
 志摩子が自身に漏らす愚痴は、途中から殆ど自嘲気味なものになる。すると、目の前の祐麒さんはみるみる焦りの表情を浮かべてみせた。
「……ホント、気にしないで下さい。むしろ俺ばっかり楽しんでしまって、申し訳ないみたいで」
「あ、祐麒さんがちゃんと楽しめたのなら、良かったです」
「俺は十分楽しみました。……逆にそれが、今は申し訳ないぐらいです。自分ばっかり楽しんでいて、志摩子さんのことを気遣う余裕が全然無くって」
「……そんなの、祐麒さんのせいじゃないです。私があまりに、臆病だっただけです……」
 改めてそう言い直してみると、あまりの情けなさに居た堪れないような気にさえなる。
 原作を読んでいるときには、怖いだなんてちっとも思わなかったのに。――映画で見る、ということが、こんなにも物語を生々しく伝えてくるものだなんて、知らなかった。
「志摩子さんは、きっと感受性が強いんですね」
「感受性、ですか」
 祐麒さんに言われて、志摩子は少し首を傾げる。
「どうでしょう? あまり、そういう意識は無いのですが」
「音楽を聞いたり小説を読んだりして、気がつけば泣いている――なんてことが、あるのではないですか?」
「それは……あるかもしれませんが」
 けれど、指摘されたような経験を「感受性」のせいだなんて、考えたこともない。
 そんな風に呼んでしまえば聞こえはいいけれど。つまり単純に「感受性」とは心の弱さや脆さなのではないだろうか。――志摩子がそうした疑問を祐麒さんに直接ぶつけると、彼は苦笑気味に首を左右に振ってみせた。
「そんなことはないです。……それに、心に強い人と弱い人がもしいるのでしたら、志摩子さんは強い人だと思うのですが」
「……私が?」
 あまりにも予想外な彼の台詞に、志摩子は驚かされる。
「ええ、俺の知る限りではそうです。……といっても、家で祐巳に色んな志摩子さんの話を聞いていてそう思うだけで、俺自身は志摩子さんのことについて詳しい訳ではないですが」
「……祐巳さんは、きっと私を買い被っているんです」
 祐麒さんは祐巳さんから、志摩子のどんな話を聞いているのだろう。


 途端に、志摩子は不安になる。祐麒さんは、私のことをどこまで知っているのだろうか。どんな風に聞いて、どう思って下さっているのだろうか。
 ――それは、あまりに志摩子にとって珍しい感情で。
 だから、心に瞬間的に鬩ぎ立ったその感情に、何より志摩子自身とても驚かされてしまう。
 今まで他人にどう思われているかなんて、考えたことも無かった。誰にどう思われても、構わないとさえ思っていた。
 私にとって一握りの、特別な人達にさえ自分のことを正しく理解して貰えれば、それでいい。
(やっぱり、私は……)
 自分の気持ちを、改めて志摩子は再確認せずにいられない。どうやら、私は既に――祐麒さんのことを、完全に「特別な人」として、思い始めているらしかった。


「……狡いです」
「え?」
 祐麒さんが、驚いた表情で見つめ返す。
「……祐麒さんは、狡いです。私は誰からもあなたの話を聞くことができないのに、あなたばかり私のことを知っているだなんて」
「えっ……」
 勝手に、言葉が口から零れ出てしまう。言ってしまってからすぐ、台詞のあまりの恥ずかしさに赤面せずにはいられなくなってしまった。
「え、ええっと……すみません」
「………………こちらこそ、変なことを言ってすみません」
 視線をどこか逸らしたまま、謝る。見れば彼の頬もどこか紅潮しているみたいで、気恥ずかしさも祐麒さんと共有のものと思えば、どこか心地よかったりして。
 祐麒さんと一緒に居るとそれだけで、志摩子の心に沸き立つ感情のひとつひとつが、まるで未知のものばかりになってしまうから不思議だった。
「……あ、すみません。もう平気みたいです」
 違うことばかり考えていたけれど。気づけばすっかり体調は回復していて、志摩子すっくとその場に立ち上がることができた。
「この後とか、どうなさいます?」
「ええっと、もし祐麒さんさえ、宜しければなんですが……」
「あ、はい。俺はもう今日何も予定ないんで、何でも付き合いますよ」
 甘えてしまうようで申し訳ない気持ちもあって、少しだけ志摩子はその先を求めてしまうことに躊躇いを覚える。だけど、このままではきっと、私は駄目だから。
「もう一本、私と一緒に映画を見て頂けませんか」
「……ですが、それは」
「今日このまま帰ってしまったら、きっと私は映画のことを嫌いになってしまう気がするんです。どうしても、私……それだけは嫌なんです」
 映画は、祐麒さんが好きなものだから。
 だから私は、いま逃げてしまいたくはなかった。嫌いになってしまいたくない、彼が好きなものだから……私も一緒に、好きになりたいと思うから。
「いまからもう一本見ると、終わる頃には夜になってしまいますが、構いませんか?」
 そんな志摩子の心の裡を知ってか知らずか、祐麒さんはすぐに志摩子の言葉を受け入れて、そう言ってくれた。
「……宜しいのですか?」
「俺は、もちろん構いません。……普段は一人で見ることが多いですから、嬉しいぐらいです」
 気さくにそう言ってくれる祐麒さんのことが、どんなにも好ましく映る。
「あ、でも、怖くない映画って、ありますでしょうか」
「怖くない映画、ですか」
「さっきみたいに争いの場面があるのは、どうにも怖くて……。できれば、そういうのが極力無いもののほうがいいのですが」
「うーん、そうですね……」
 祐麒さんが、志摩子に対して少しだけ斜め方向に目を向けながら考え込む。見てみると、志摩子が座っているすぐ横に、いま上映中の映画や近日上映が始まる映画をリスト化したポスターが貼ってあった。
「こうしてみると意外と、怖い場面が全く無い映画ってないものですね」
「そうなんですか」
 習うようにポスターを見てみても、並べられたタイトルではどんな映画なのか、疎い志摩子にはまるでわからない。祐麒さんは迷った末に、そのリストからひとつを指差してみせた。
「うーん、これとかなら、大丈夫とは思いますが」
「では、それでお願いできますか?」
 どんな映画かも判らずに志摩子がそう言うと、祐麒さんは少しだけ困った顔をしてみせた。
「……俺は構いませんが、志摩子さんは、いいのですか?」
「私は怖くさえなければ、大丈夫だと思います。どんな映画なのでしょうか?」
「ええっと、なんて言うか……」
 祐麒さんは一瞬、その答えを口にするのを躊躇う。
 彼の顔に刺した朱が、少しだけ鮮明になって、志摩子もすぐにその理由を知ることになった。
「その……恋愛映画、なんですが」