■ 07−遣らずの雨
祐麒さんがこの映画を選ぶことを少し躊躇った理由が、志摩子にも判った気がした。
上映が始まる前、まだ明かりが落とされる前に周囲を見渡してみると、周りのお客さんの殆どが男女ペアの方ばかりなのが容易く見て取れてしまう。
(場違いではないだろうか)
心には、一抹の不安を抱かずにはいられない。
けれど不安の隣で、そうした状況は同時に、一抹の淡い嬉しさや期待感を志摩子に抱かせた。
恋愛映画なのだからカップルで来場する方が多いのは当然のことで。だからその中に身を置いている志摩子たちも、そうしたお客さんの一部になれたかのような嬉しさがあった。
そして他のお客さんから、私たちはそうした関係に見えているだろうか――という期待も、心にやっぱり浮かんできてしまって。たくさんの感情が、志摩子の裡で入り混じっていた。
とはいえ、お客さん自体はかなり少ないように見えた。ざっと見る限り、全座席の一割程度にしか埋まっていないほどの空きようで、もしかして人気がない映画なのだろうか、と志摩子は思う。
「……この映画は新作ではなくて、数年前のものなんです。この映画館での上映も間もなく終わるみたいなので、もうさすがにお客さんもまばらですね」
「そうなんですか」
「ええ、なので逆にお得かもしれません」
志摩子の心を察したかのように、祐麒さんがそう言ってくれた。
確かに、人は少なければ少ないほどいいのかもしれない。志摩子はさっき映画を見た時に、そのことをとても強く思っていた。
この灯りが落ちて、スクリーンの光だけが届く暗闇になってしまうと、少しだけ離れた人の存在さえ感じられなくなる。数席離れたお客さんの存在も消え失せて、確かに感じられる存在は隣に座る人だけになって。
さっきの映画はほぼ満席状態だったから、志摩子の左隣には知らない女性のお客さんも座っていたけれど、今度は左隣には誰もいなくて……きっと右隣の祐麒さん以外、何も感じられなくなる。
そうしたことを考えているうちに。
――灯りが徐々に落ちていき、やがて何も見えなくなった。
館内の闇は深い。まだスクリーンさえ光らない、予告編が始まるまで十数秒の間には、すぐ隣の祐麒さんの姿さえ見えない。暗闇の中で、彼の息遣いだけが、静かに志摩子の耳に届いた。
――ベルリンで出会った日本人の男女が、一目で恋に落ちる。
映画は、そうした導入で始まる恋物語だった。
女性視点で紡がれる緻密な描写の前に、志摩子の心はすぐ現実を置き去りに、映画の中に取り込まれてしまうみたいだった。
志摩子はすぐに主人公の女性に、自身の姿を重ね合わせた。熱い恋など、まるでしたことがないのに、急展開に進んでいく関係や主人公の心情にも、志摩子は取り残されない。
恋人の男性役の俳優は、どこか祐麒さんに似ているように見えた。
だからなのか、特に志摩子が意識しなくても、男性の姿はそのまま祐麒さんの姿に見えた。
恋は、やがてすれ違う。
お互いが犯した、幾つかのほんの小さな過ちで、二人の関係は簡単にその形を留めてはいられなくなってしまう。
強固な愛ほど、その実は脆いのかもしれない。
……やがて映画は、悲恋の結末を迎えた。
束の間に感じられる二時間が、あっという間に過ぎて。
やがて場内に灯りが点いて。それでも――私はまた、座席から動けなかった。
さっきみたいな恐怖からではない。純粋に、感動に心を打ちのめされてしまった。
志摩子は恥かしい気持ちから、慌てて強くこするようにハンカチで目元を拭う。けれど拭っても少し経つとまたじわじわと、瞳から熱いものが込み上げてきてしまう。
ふと場内から、すすり泣く女性の声が聞こえてきて。
(ああ、泣いてしまってもいいのだ――)
そう志摩子は理解する。
泣くことを自分に許してしまうと、ますます志摩子の瞳から溢れ出てくる涙は勢いづいてきて、止め処ないものになってしまった。
さっきみたいに人気作ではないからなのか、退場のアナウンスは流れなかった。
隣の祐麒さんも、少しも急かしては来ない。
「すみません……」
志摩子が俯いたまま謝ると、祐麒さんは隣から優しく「うん」とだけ答えてくれて。
だから志摩子はゆっくりと時間を掛けて、悲しみに拉がれている心を偽ることなく、彼の隣で泣くことができた。