■ 08−遣らずの雨

LastUpdate:2007/06/09 初出:web(mixi)

「すっかり、暗くなってしまいましたね」
 映画館のエントランスから見える窓の外の風景は、もうとっぷりと日が暮れてしまっていて。駅前の繁華街だから周囲が明るくないわけではないけれど、上映中には全く意識しなかった時間の経過を改めてまざまざと見せ付けられたようで、少なからず志摩子は驚かされてしまう。
「なんだか最近急に、夜が早くなった気がします」
 志摩子の言葉に祐麒さんが隣で頷きながら、そんな風に言ってみせる。俺は冬のほうが好きですが、と祐麒さんが続けた言葉に、志摩子もまた頷いた。
 自動ドアを開くと、少しだけ強い風が外から吹き込んでくる。風は冬を想わせるびっくりするような冷たさで擦り抜けて、そちらに志摩子は不意を付かれてしまった。暖かな映画館の中に何時間も留まっていただけに、寒さはより顕著に身に堪えてしまう。
「寒くないですか?」
「あ、大丈夫です。少し驚いてしまっただけで」
 風と共に感じられるのは、鼻腔をくすぐる強い雨の匂い。図書館を出た時にはきっとにわか雨だと思ったのに、随分と長く降っていたらしいそれは、今はザーッと音を立てて地面を洗い流してしまうかのような、強烈な雨模様にまでなっていた。
「……お願いできますか?」
 折りたたみ傘を差しながらそう言うと、祐麒さんが「はい」とだけ言って受け取った。
 本当は少し前から、まだ雨が降っていないだろうかと心に淡い期待を抱いていた。寒い夜だから人肌恋しかっただけかもしれず、あるいはつい今しがたに見た恋愛映画のせいなのかもしれない。持ってきたのが、小さな折り畳み傘でよかったと改めて志摩子は思う。今だけは、彼の温かな体に身を寄せていたかった。
 傘は二人だけを隔離された世界へと閉じ込める。より激しい雨であればなおさら、閉塞感は強いものとなって志摩子たちを閉じ込めた。あまり長い距離ではない駅までの距離を、できるだけゆっくりとした歩調で志摩子たちは歩く。
「映画は……不思議ですね。とても短い時間の中、とても長い時間を体感したような気がします。なのに、いざ現実に戻されてみたら、二時間という時間があっと言う間に過ぎてしまったようにも感じられたりして」
「確かに、言われてみると不思議ですね」
 祐麒さんがそう言った直後に、ピピピピと軽快な電子音がどこからか聞こえて。慌てて祐麒さんはポケットをまさぐって、携帯電話を取り出す。
「……っと、すみません、メールが」
「いえ」
 雨の中、後ろを歩く人の邪魔にならないように、少しだけ手近な店舗の軒下に身を寄せて志摩子たちは佇む。軒下といってもその幅は浅く、結局は傘を差していなければ濡れてしまいそうだ。
「えっと……夕飯は鍋だから早めに帰れ、と祐巳から」
「あら、それはいいですね。今日みたいな寒い日は特に」
「そうですね、ちょっと楽しみです」
 祐麒さんの携帯電話は、いかにも彼らしい黒を貴重にしたシックなものだった。街明かりと夜闇とが交じり合う不確かに淡い薄暗さの中で、返信を打つ手にある携帯電話のボタンや液晶だけが、唯一確かな明晰さをもって光るかのように志摩子には見える。
「祐麒さんも携帯電話、お持ちなんですね」
「あ、はい。夏頃に、祐巳と一緒に親から買って貰ったもので。……って、『も』ということは、志摩子さんもお持ちなんですか?」
「はい、持っています。でないと乃梨子から、今日は来れないという連絡も貰えません」
「……なるほど、それはそうですね」
 祐麒さんと違って、志摩子は出かける前に連絡を受けたわけではない。私は祐麒さんと違って自宅で日がな過ごすことに抵抗を覚えない内向的な性分だから、きっと出かける前に連絡を受けていたなら今日こうしてK駅の繁華街にまで出てくることも無かっただろう。
「私も、祐麒さんと同じで夏ごろから。乃梨子に持つようにせがまれたものですから、両親にお願いして買って頂きました」
「買って正解、というところですね」
「ですね。私は家が少しだけ遠いですし、出かける前に連絡というのも難しいでしょうし」
 バッグから志摩子も、携帯電話を取り出してみせる。
「ご自宅が遠いのですか?」
「ここから電車で三十分、その後にバスで四十分ぐらい掛かってしまいます」
 ああ、と納得するように祐麒さんが頷いてみせる。
「そうか、小寓寺にお住まいなんですよね」
「……そういえば、ご存知でいらっしゃいましたね」
 志摩子は思い出す。確かあれは、花寺生徒会の方々をリリアンにお招きした時のことだ。
「ええ、志摩子さんのお父様が花寺まで講演にいらして下さったとき、俺が直接案内させて頂きましたから。その……大変気持ちの良い方でいらしたので、色々と話し込んでしまいましたし」
「……父がどんな講演をしたのか、聞くのが怖い気がします……」
 父が嫌いなわけでは全く無い。大好きでさえある。けれど実の娘の志摩子にさえ、あの人は……大人なのか、それとも子供なのか、未だに掴みきれない部分がある。無邪気な子供かと思う瞬間もあれば、聡明な大人だと感服させられることもある。
「確かに、かなり遠いですね。……通学も大変でしょう」
「……少しだけ。でも、早起きは得意なもので」
 そう祐麒さんに答えながら、なんとなく志摩子も自分の携帯電話を取り出して、折りたたみ式になっている画面を開いてみる。
 乃梨子が「きっと似合う」と言ってくれたから。迷わずに選んだホワイトが映える携帯電話にはいまはまだ自宅のほかには乃梨子しか登録されていない。
「あ、あの」
 志摩子が声を掛けると、祐麒さんの瞳がまじまじと志摩子を捉える。
「こ……こういうのを訊くのが、もし失礼ではなければ、ですが」
「うん?」
「その……祐麒さんのアドレスとかを、良ければお伺いできませんでしょうか」
 恥かしさで、顔が真っ赤になってしまう。志摩子の視線の先で、祐麒さんの顔にありありと驚きの表情が見て取れてしまうと、恥かしさは余計にどうしようもない。
「あ、あの……す、すみません! だ、ダメですよね、そんな」
「……あ、もちろん構いません。すみません、少し驚いてしまっただけで……俺も、志摩子さんの携帯のアドレス、お伺いしてしまっても、よろしいでしょうか」
「は、はい! ……私のなんかで、よろしいのでしたら」
 まだ自分の電話番号も、メールアドレスも覚えていないものだから。慌てて志摩子は自分の携帯を操作して、調べようとする。説明書を読みながら、簡単な操作で表示できたことは覚えているのだけれど……。
「少し、お借りしても構いませんか?」
「……はい、すみません」
 明らかに手間取っている様子が、祐麒さんには簡単に見て取れたのだろう。今度は別の意味で少しだけ恥かしい気持ちに志摩子はなりながら、祐麒さんに自分の携帯電話を差し出した。
 携帯電話の代わりに、祐麒さんが持っていた傘を志摩子は受け取る。慣れた手つきで祐麒さんはご自分の携帯を操作されると、志摩子の携帯は殆ど操作することなく「どうぞ」と返してくれた。
「乃梨子がしてくれた時にもそうだったので、不思議に思っていたのですが……どうしてそんなに簡単に登録ができるのでしょう?」
 携帯電話に自宅の番号を登録するだけでも、とても苦戦した志摩子なのに。祐麒さんがお互いの携帯にそれぞれ登録をすませるまでには、ものの十数秒程度にしか掛かってはいない。
「携帯同士で、赤外線を使って簡単に登録ができるんです。便利ですよ」
「なるほど……」
 そういえば、そんなことも説明書に載っていた気がする。
「ありがとうございます。……たまに、メールとか送らせて頂いても?」
「もちろん、歓迎です。ただ、打つのが早いほうではないので、返信は気長に待ってくださいね」
「……それは、私こそお願いしなければならないことです」
 返信が来ないのに業を煮やして、乃梨子がメールではなく電話で直接どうしたのか訊いてきたこともあるぐらいに志摩子は打ち込むのが遅い。そのことを祐麒さんに伝えると、「それなら、安心ですね」と言って優しく微笑んでくれた。
 お互いの携帯電話をポケットにしまって、私たちは再び駅へと歩き出す。
 もう駅は志摩子たちのすぐ目の前に見えるところまで来ている。駅に着けば、私たちはもう別れなければならない。
(――どうしよう)
 私たちは家の方向が違うのだから、ここで別れるのは当然のこと。
 なのに、志摩子は不思議なぐらいに心に溢れてきてしまう妙な焦燥感を、どうしても無視することができなかった。