■ 09−遣らずの雨

LastUpdate:2007/06/16 初出:web(mixi)

 傘と地面を叩く雨音は、より強さを増している気がする。

 

 地面を叩く強烈な雨音の煩さは直接的に心に響いてくるけれど、不思議と不快感のようなものを感じさせることがない。雨に煙る視界の閉塞感はまるで折り畳み傘ひとつだけを取り残して、志摩子たち二人だけを世界から隔たらせるみたいだ。
 二人の肩にさえ雨が纏うほどの、一メートルにも満たない狭い狭い世界の中、不思議な高揚感が志摩子の頭を蕩けさせていく。もっと世界が狭くなればいいのに、そんなことさえ考えてしまう。
 駅がさらに一歩一歩近づいていくるにつれて、私はより言葉を紡げなくなった。言葉を発してしまうほどに、無為に祐麒さんとの別れだけが近づいてくるような気がして、迂闊なことは何一つ口にできなくなってしまう。そんな志摩子と同じような気持ちを果たして祐麒さんが抱いて下さっているかは判らないけれど、彼もまた、志摩子が口を噤むにつれて言葉を発さなくなった。
 あと、十数メートルも歩けば駅に辿り着いてしまう。K駅の屋根に包まれた明るい空間がはっきりと見えていても、その眩しい世界が今はただ疎ましい。

 このまま駅になんて永遠に着かなければいいのにと――そんなことさえ考えてしまう。


 冬の雨風は体温を根こそぎ奪ってしまうはずなのに、志摩子の体はぽかぽかしたお湯の中にいるかのように確かな熱を秘めている。雨に肩を寄せる傍らでは、傘を持つ祐麒さんの腕と私の肩とが幾度か触れ合っては離れることを繰り返した。

 ふと、彼のほうを見やる。

 特別背が高いということもない彼は、志摩子とそんなに肩の高さが違うわけではない。志摩子が踵の高いヒールでも履けばちょうど、彼と同じぐらいの目線で並べそうだ。
 祐麒さんは、まっすぐに駅のほうを見据えている。それをいいことに、志摩子はまじまじと彼の顔立ちを伺う。

 傍で見ても欠点なんてまるで見当たらない、隙のない凛々しさ。彼の絹のような素肌は女性的な魅力も感じさせるのに、けれど体躯や顔立ちは十二分に男性的な魅力を感じさせた。


 ――視線は、無意識に祐麒さんの頬に釘付けになった。
 何をする気持ちもなしに漠然と意を決した私は、今までより少しだけ彼の傍に身を寄せる。

 気づけばただ、志摩子の顔は彼の頬に吸い寄せられるみたいに。

 少しだけ背伸びして。

 自然に、靴の踵が浮きあがった。
 そっと、彼の頬に志摩子の唇が触れる。
 味も感触も麻痺して感じられないままに、冬の風に鎮められた祐麒さんの氷のような頬の冷たさだけを、触れた唇が鋭敏に感じ取った――。


 志摩子は自分がいま何をしたのか、一瞬理解することができなかった。
 きっと彼もまた何をされたのか、瞬時には理解できなかったに違いない。
 茫然気味に見つめ返してくる祐麒さんの表情だけが、志摩子の瞳を射抜く。

「……ご、ごめんなさい」
 雨に溶けてしまうような小声で。
「ごめんなさい!」
 もう一度、今度は喉を突くみたいに強い調子で、言葉が飛び出した。


(――私は、一体何を)
 思い悩む傍らで、気付けば志摩子は彼に持ってもらっている自分の傘もそのままに、ただ彼から遠ざかるように雨の中を走ってしまっていた。
 甘い二人きりの世界を残して、私は一目散に駅の中へと逃げ出す。痛いほど冷たいはずの雨さえいまだけは確かなものとして感じられない。心も世界も音までも、ただ総て朧げなものとしてだけ感じられて。
 元々目の前にまで見えていたものだから、力の限りに走った私はすぐに駅に辿り着く。ほとんど定期入れを改札に叩きつけるようにしながら抜けると、そのまま一目散に階段を駆け上がった。
 タイミングよく中央線のホームに来ていた特別快速に飛び乗ると、排気音と共に背後で閉まったドアに背中から体重を預けて、ずるずると力なくその場にへたり込んでしまう。

 走り出したばかりの電車の窓からは今飛び乗ったホームがまだ見えるはずだけれど、志摩子は怖くて後ろを振り返ることができなかった。
 遠ざかっていくホームには――誰もいないのか。あるいは慌てて追いかけてきた彼の姿が見えるのか、それはわからない。
 カタンカタンとレールを走る電車の振動だけが、心の裡に響いていくる。
 リズムに鎮められるように僅かに落ち着きを取り戻し始めた志摩子は、ようやくその場で深い息を吐くことができた。
 電車の中には他に利用客の姿もまばらに見えるのに、いまはそんなことは全然気にならない。

(――どうして)
 志摩子は自分の心に問う。
(――どうして、私はあんなことを)
 気が付けば、祐麒さんの頬にキスをしていた。
 初めからキスをしたい気持ちがあったわけじゃない。ただ気づけば……吸い寄せられるように、彼の頬に自分の唇を重ねてしまっていた。
 寺を訪れる檀家の方やクラスメイトが言ってくれるように、自分のことを「淑やか」だと思ったことは志摩子には一度もない。けれども同時に、自分が突発的にこんなことをしてしまうような、恥知らずな人間だとも思ってはいなかったのに。
(ああ……)
 祐麒さんには申し訳ないことをしたと、心から想う。


 彼はいま、どうしているだろうか。
 まだ私の傘と一緒に、雨の中に取り残されているのだろうか。
(……嫌われた、だろうな)
 漠然と、けれど確かな実感を伴ってそう思う。
 キスした直後の、彼の驚きの表情を頭の中で思い出すことが怖かった。
(どうして?)
 もういちど、心に問う。
(どうして……)
 何度心に訊いても、答えは返ってこない。
 答えが返されない理由を志摩子は理解していた。それは、本当に理由が不明瞭なわけではない。

 きっと改めて心に問うまでもなく、本質的に志摩子自身は、その答えを既に十分すぎるほど理解してしまっているからだ。
(これが、この感情が……)
 初めて心に覚える、恋という感情。

 その感情の答えがこれなのならば、それはなんて愛しく、恐ろしいのだろう。
 まるで自分が自分ではないみたいに。私は……。


 ――傘と、取り残された祐麒さんと、今の私と。誰が一番、狭い世界にいるだろう。

 未だ、どこか不思議でならない感情と向き合いながら。
 志摩子はただ漠然と、そんなことを想った。