■ 10−遣らずの雨

LastUpdate:2007/--/-- 初出:web(mixi)

   『新着メールはありません。』

 


 携帯に表示された無機質な文字列が、僅かに志摩子を安堵させた。

 一度は眠ろうともしたのだけれど、叶わなかった。寝付きは悪い方ではないと思うのに、二時間近く布団の中で瞼を閉じていても、一向に睡魔は志摩子の意識を滲ませることがない。夕食の後に珈琲を一杯だけ飲んだのがいけなかったのだろうか、と一瞬だけ考えて、志摩子はため息を吐く。

 違う――そういうのじゃないってことぐらい、志摩子にだって判っているのだ。


 祐麒さんにどう言い咎められてしまうのか怖くて。電源を切っていた机の上にある携帯電話を、とうとう眠ることを諦めて志摩子は手に取った。部屋の灯りも点けないまま、月明かりと携帯画面の明るさだけを頼りに初めて新着メールの問い合わせというものをしてみた。
 乃梨子から聞いて、電源を切っていてもメールが受信されてしまうことを志摩子は知っていた。
 きっと、言い咎めるだけでは済まないメールが送られていると思っていた。そう確信しきっていただけに、新着メールの問い合わせをしてみても祐麒さんからメールが届いていないことは、内心ぴりぴりと怯えていた心を少しだけ緩やかにしてくれた。
 何を言われても仕方がないような酷い別れ方をしたのだから、何を言われても受け止めなければいけない、という強い意志が志摩子にはあった。祐麒さんはもしかしたら、そんな志摩子の心までをも察して、咎めることも責めることもせずにメールを送らないでくれているのだろうか。
 安堵の傍ら、少しだけ祐麒さんからのメールが来ていないことに、淋しい、という気持ちがあることに志摩子は気づいている。矛盾している――内心自分の心の様子に呆れながら、けれど正直な気持ちだと理解しているだけに、結局はどうにもできない。
 一定時間操作がされなくて、液晶から光が消えたのを志摩子は適当なボタンを押して元に戻す。携帯電話の右上隅に掲示された時計の時刻は、もう深夜の一時半過ぎを示していた。
(さすがに、もう眠っていますよね……)
 常識的な時間帯ではない。――でも、もし起きていたら?
 考えるよりも行動が先になってしまう。気づけば、携帯電話を持つ指先はボタンを確かめるようにして、たどたどしく文字を紡いでいた。

 


  『もしも、起きていらしたら、お返事を下さい。』

 

 

 逃げ出したことを釈明する文面を一度打ち込んで、消した。

 そのあとに謝罪する文面を打ち込んで、やっぱり消した。
 言い訳をすることも謝ることも、メールで一方的に言い放ってしまうのはなんだか卑劣なことのように思えたからだ。携帯電話で言うにしても、せめて通話しながら彼に直接言うべきことだ。
 だから、結局残ったのは簡潔な一文だけで。送ることを止めようかとも迷いながらも、志摩子は結局送信のボタンを押した。
 メールは、手紙を送ることに似ているけれど決定的に違う。なぜなら、もしも相手がこちらが届けた文章を見ていたなら、すぐに返信を打ち込んで返してくるからだ。便りなら忘れた頃に届くから先んじて焦る心もないのに、メールだと送信したあとにはひどく心が焦燥感に駆られてしまう。
 どうせ眠れないのだから、何か本でも読もうか。――志摩子がちょうどそう考えた矢先、携帯電話はとても早い返信の存在を、深夜にはけたたまし過ぎるほどの電子音で知らせてきた。

 

 

  『起きています。何だか、眠れなくて。』

 

 

 慌てて志摩子は、届いたばかりの返信を確かめる。確かに、本当に起きていない限りありえない速度で返されたメールに、志摩子は少しだけ安心する。メールの着信音で祐麒さんを起こしてしまわないだろうかと、少し心配だったのだ。
 けれど、私は……ここにきて、躊躇う。
 私はどういう意志から、彼が起きているかどうかを訊いてしまったのか。――心で模索するかのように装いながら、本当はその答えをとうに理解していることに、志摩子は気づいている。
 でも……メールに書いてしまうことは、それこそ祐麒さんに嫌われてしまうことになりかねないのではないか。そうした気がかりが、携帯を持つ手を僅かに震わせる。
(――どうせ、もう嫌われたのかもしれないのだから)
 そんな前向きなのか後ろ向きなのか判別しかねる気持ちが、最終的には志摩子の背中を押した。
 どう書けばいいのか判らない。けれど、判らないなりに文字を綴ればいい。

 

 

  『私、祐麒さんのことが、好きかもしれません。』

 

 

 メールで一方的に気持ちを伝えてしまうことは卑怯かもしれない。けれど、もうどれだけ卑怯であっても、それが真実の気持ちを伝えるための寄る辺になるのであれば、私は――。
 葛藤と対峙しながら、志摩子は震える指先で送信のボタンを押す。
 押したあと、もう戻れないという強い気持ちが、とても鈍い気持ちとなって心を締め付けた。
(かもしれない、という言い方はさすがに……)
 同時に――気持ちを伝えるにしても、もう少し書き方というものがあるだろうに――という後悔の気持ちも溢れてくる。今さらになって志摩子はメールの内容について改めたくなるものの、送ってしまったものが取り戻せようはずもない。
 志摩子は、心の深い場所で覚悟を決めた。
 気持ちを撥ね除けられても、それはそれで仕方がないことだし、いっそ諦めもつくに違いない。
(……もともと私には、不相応な感情なのだから)
 夕方に見た映画のワンシーンが心の中で思い出されると、そんな気持ちはより強く伸し掛かったものとして感じられた。

 どうせ私は――映画のようなヒロインになんて、なれはしないのだから。
 その時、携帯電話の液晶が鋭く光った。画面には「受信中」の文字が表示されて、受信メロディが鳴るより早く、志摩子は固唾を飲んでその時を待った。
 軽快なメロディが一瞬なって、ボタン操作で音はすぐに途切れる。開封されたメールを、志摩子は深呼吸をひとつしてから、開いた――。

 

 

  『俺も、志摩子さんのことが、好きみたいです。』

 

 

 読んだ瞬間に――自分の心が大きく揺さぶられる未知の感覚を、志摩子は確かに感じ取った。
 暗闇の中で光るバックライト。映える文字列は明らかに明確なものだし、何度読み返しても違うことがない。何度も、何度でも。指先でなぞるように静かに心の中に刻み取って、ようやく志摩子は心の衝動を落ち着けることができた。
 信じられない気持ちだけが、無尽蔵に心の深い場所から溢れて来るみたいだった。

 ――何かの間違いではないだろうか。あるいは、祐麒さんもきっと眠くて、心に在らぬことを書かれたのでは――。明らかな文面を幾度となく読み確かめてなお、疑念は折れることがない。


 携帯の電話帳を開くと、今日登録してもらったばかりの彼の名前とメールアドレス、そして電話番号が表示される。
 メールを出すときのような相手のことを思って躊躇う気持ちは、もう志摩子の行動を留めるだけの力を一切持ち合わせてはいなかった。相手の迷惑も、時計の時間さえ確かめることなく、通話のボタンを押してしまう。
 ツ、ツ、ツ、と途切れる通信音さえ、逸りすぎる志摩子の気持ちには辛く堪えた。

 通信音が間もなく途絶えて、コール音に変わって、そして。
『……はい』
 ワンコールさえ鳴りやまないうちに。
 何よりも聞きたかった彼の優しい声が、志摩子の耳元すぐ傍から溢れてきた。