■ 12−遣らずの雨
「祐麒さんに、私が相談ごとを?」
「うん、何かしてない?」
昼休みの中ごろ、廊下で呼び止められた志摩子は祐巳さんからそんなことを突然訊かれて、思わず首を傾げてしまった。
何しろ昨日の今日だから。祐巳さんから『祐麒さんのこと』について何か訊ねられるぶんには、志摩子には思い当たる節はそれこそ山のようにあるわけだけれど。
でも、少し思案をしてみるのだけれど、やっぱり祐麒さんに志摩子が何か『相談』をするようなことには、どうしても思い当たる節がなかった。
「ごめんなさい、ちょっと思いつかない……かも」
「そっか、私の早合点だったのかなあ」
「……どうして、そのようなことを?」
祐巳さんが急にそんなことを訊いてくる理由が判らなくて、志摩子はそう訊ね返す。
「今朝家を出るときに祐麒がね? 変なこと言ってたの」
「変なこと?」
「うん。もしね、志摩子さんから今日とか明日あたりに何か相談されたりしたなら、それはきっと本当のことだから……なんて」
「……なるほど」
確かに、そんな言い含めるような言い方をされたなら、祐巳さんが誤解するのも無理ないことのように思えた。
もちろん祐麒さんは、隠し事ができない志摩子の性分を知っていらっしゃるからこそ、予め気を回して祐巳さんにそんなふうに言って下さっていたのだろうけれど。
「えっと……祐麒さんに相談していることはない、のだけれど」
確かに、気持ちは心の奥に封じ込めておいても何の意味もなさない。隠しておく心は、ただ疚しさに満たされていくだけでしかないことを、志摩子は十分に知っていた。
それはかつて、隠し事をしていなければ、この学園に通うことができないと。そう思い込んでいた私に――他でもない、祐巳さんたちが教えてくださったことだ。
「……祐巳さんや由乃さんに、相談したいことがあるの」
「私と、由乃さんに?」
「ええ」
――相談というより、報告かもしれないけれど。志摩子がそう付け加えると、祐巳さんは不思議そうな顔で見つめ返してきた。
「志摩子さんが話してくれることなら、もちろん何でも喜んで聞くけれど。……私なんかで、相談の相手が務まるのかなあ」
「ごめんなさいね、気を持たせたいわけではないのだけれど」
相談、と言ってしまったことで却って気を遣わせてしまったかもしれない。
「えっと……祐巳さんや由乃さんに、お話しておきたいことがあるだけなの。本当はいちいち報告するようなことじゃ、ないかもしれないのだけれど。でも……できるだけ祐巳さんや由乃さんに、隠し事はしたくないから」
「そう、なんだ」
祐巳さんが、ようやく何かに得心したかのように頷いてみせた。
「そう言ってくれると、凄く嬉しいかも。――あ、私も志摩子さんには隠し事はしないからね?」
「……ありがとう。でも、あまり気にしないで下さっていいのよ。これは私が言いたくて、勝手にお話しさせて貰いたいだけのことなのだから」
そう、私はあくまで自分の意志でお二人にお話をしたいのだ。
隠し事をしたり、何かを偽るようなことをしたくない。祐巳さんも由乃さんも、本当に志摩子にとって大事な友人だから。お二人がかつての時に私のことを気遣って下さって、そして今でも気に掛けて下さるように、志摩子も大好きな相手にだからこそ心から応えたいと。そう、思うから。
「ん、わかった。由乃さんにお話をしておくから、放課後に薔薇の館で、とかでいい?」
「ええ、ごめんなさいね」
「ううん、今の時期は仕事もないし。私だって、志摩子さんのお話聞きたいし」
祐巳さんの笑顔には、裏表がない。志摩子のようにとりあえず笑顔を浮かべているのではなく、祐巳さんは心から笑顔を浮かべていらっしゃるのが、誰にでも簡単にわかってしまうから。だからこそ志摩子も、祐巳さんと同じように気持ちを素直に伝えておきたいと、そう思えるのだろうか。
「えっと……瞳子ちゃんは、呼ばない方がいい?」
祐巳さんがおそるおそるといった調子でそう訊いてきて、一瞬だけ迷う。
けれどすぐに、志摩子は首を左右に振って答えた。
「もちろん、瞳子ちゃんにもお話を。乃梨子には私の方から声を掛けておきますし」
「うん、わかった」
乃梨子には、別の機会に改めて話すつもりだったけれど。こういうことは、どうせならみんなに一度に話してしまったほうが気が楽になるのかもしれない。祐麒さんも、あんなふうに祐巳さんに言っていたぐらいなのだから、みんなに話してしまっても怒ったりはなさらないだろうし。
(……ああ、そうか)
そこまで考えて、志摩子はようやく気付かされる。
祐巳さんに、祐麒さんが遠回しな言い方で気遣いを見せて下さっていたこと。それは志摩子に、祐巳さんたちに相談するように促すものではなくて。
(私を――気軽にしてくださるように、なのですね)
誰に相談しても、構わないよと。
志摩子が気に病まないように、わざとこんな風に気を回していて下さったのだ。
彼の優しさが、心の内にまで沁み入ってくる。こうして互いに気持ちを確認し合っていてなお、志摩子には自分のことしか気遣う余裕が持てないでいるというのに、彼はこうして先ず私のことを考えて下さっているのだ。
「……どうしたの?」
訝しそうに祐巳さんが見つめてきて、志摩子はふと我に返る。
「すみません、ちょっと考え事を」
「ふうん?」
とりあえず志摩子がそう答えると、なおも祐巳さんは首を傾げてみせて。
「よくわかんないけれど……志摩子さん、気付いてる?」
「え?」
「いまの志摩子さん、何だかすっごい綺麗な笑顔だったよ?」
祐巳さんに、率直にそう言われて。
かぁっと、何かが心の深い場所で、急速に熱くなるのがわかった。
廊下の窓の外に、ふと目を向ける。
リリアンからさして離れていない花寺の校舎は、この角度からは別の校舎が邪魔をしてしまって見ることができないけれど。
見えなくても、この向こうに彼の校舎があって。そこに、彼が居る。
見えなくても、彼の優しさに包まれている実感が、志摩子の心の内には確かな熱を持ちながら、いまでも感じられていた。