■ 17−遣らずの雨

LastUpdate:2007/10/18 初出:web(mixi)

 色濃い橙が、静かにも目に眩い。
 茜と呼ぶには明るすぎるような。そんな鮮明すぎる夕焼けの朱は空だけではなく、街並みも人さえも染め上げている。日中の風景とも、夜の風景ともまるで違う、夕焼け特有の独特で叙情的な世界の中を、志摩子たちは二人並んで歩いていた。
 祐麒さんとの距離は肩が擦れそうなほどに近い。それはまるでいつかの雨降りの日に小さな傘を共にした時のように、意識したわけでもなく気付けばお互いにこんなにも近い距離で並んでいる。
 たった一日限りの、けれど濃密な相傘の時間。あたかも長い間こうして並び歩いてきたかのように、志摩子にとってはこの距離で祐麒さんと一緒にいられることが、とても自然で心地良いことのように感じられた。
 祐麒さんに「好き」と始めに告げたのは、志摩子のほう。だけど志摩子はこうして「好き」な人の隣を歩いていながらも、未だに「好き」の気持ちを漠然としてしか理解できていなかった。
 志摩子が理解する「好き」の意識。それは祐麒さんの傍に居たいと想う気持ちと、この先の未来を祐麒さんの傍で生きて行きたいと想う気持ち。少なくともその二つは「好き」の気持ちの中でも明瞭なものとして志摩子には意識されている。
 けれど同時にその二つの気持ちだけでは整理がつかない気持ちもまた、たくさん「好き」の中に含まれていることも。志摩子は漠然と理解していた。
 それは例えば、キスをせがみたくなる気持ちのような。ついさっき志摩子がそうしたように、自分からするのだけではなく彼からも口吻けを齎されたいと願うような気持ちは、いま志摩子が理解している「好き」の気持ちからだけでは到底解釈できるものではない。
 キスだけではない。他にも祐麒さんに何かをしたい、されたい。そうした欲求が心の裡にたくさんひしめいていることを志摩子は怖いぐらいに意識していた。まるで自分が酷く貪欲になったかのようにさえ思う。
 手を繋ぎたい、笑顔がみたい。そんな簡単な欲求もたくさんあるけれど、同時に……キスよりもなお濃厚な、とても深い祐麒さんとの繋がりを求めたがるような欲求さえ心の裡には溢れている。想像するだけでも心がかあーっと熱くなるような、決して口にすることのできない、これ以上ない躰同士の営みのようなものまで。

 

 


「……どう、されたんですか?」
「はわっ!?」
 想像の世界に馳せられていた志摩子の心を、祐麒さんの言葉が引き戻す。様子を伺うかのように覗き込むような格好で志摩子の表情を見つめてきている祐麒さんの表情が視界のすぐ先にあるものだから。つい先程まで馳せていた想像のビジョンと重なってしまって、志摩子は慌ててぶんぶんと邪な想像を振り払った。
「志摩子さんって、少し祐巳と似ていますよね」
「……百面相が?」
「ええ、それもありますが」
 くすくすと可笑しそうに笑ってみせる祐麒さんを傍らに、志摩子はひっそりと溜息を吐く。
 いけないことだと判っているのに、授業中も友人と話しているときも、いつだってこうなのだ。いちど想像の世界に心を馳せてしまって、しかもそれが祐麒さんのことであるならば。意識はすぐに想像の中に捕らわれてしまって、なかなか現実に帰って来れない。
 祐巳さんや由乃さんたちが気を利かせて、志摩子たちを置いて先に帰って下さっていることが、せめてもの救いだった。いくら親しい友人でも……こんなに恥ずかしい自分の姿なんて、見せられはしないのだから。

 

 


(……祐麒さんは、どう思っていらっしゃるのだろう)
 そんなことを、ふと心に想う。
 志摩子が「好き」と告げたように、祐麒さんもまた「好き」と告げてくれたけれど。
 果たして、祐麒さんはどんな「好き」で志摩子のことを見てくれているのだろう。
 祐麒さんが「好き」と言って下さること自体は、疑いもなく志摩子は受け止められていた。祐麒さんの言葉は祐巳さんのものと同じで、嘘偽りを僅かにさえ伴わないから。だから志摩子も何一つ疑うことなく、彼の言葉はありのまま真実の言葉としてだけ心には捉えられている。
 だけど……だからといって祐麒さんが、どういう気持ちから。志摩子のことを「好き」と思っていてくれるのかは、志摩子自身にさえ判らないことだった。
 もし彼が私に対して望んでくれることがあるなら。その総てに志摩子は、真実答えたいと願う。
 けれど、そんなこと。どうやって祐麒さんに訊ねればいいだろう……。

 

 


 並んで歩きながらも、志摩子たちは言葉を交し合わない。
 それは決して頑なに口を噤んでいるわけではなく。ただ何も言葉を交し合わなくても、二人して性格的に相手の傍に居られるだけで十二分に倖せを感じられるから。
 祐麒さんと話したいことが無かったわけではない。

 日常の話に友人の話、映画の話や次のお休みの話……それこそ話したい内容なんて無数にあったかもしれないのに。
 ――祐麒さんに、こうして実際にお会いするまでは。
 次にお会いしたら、これを話したい。こんなことを訊いてみたい。そんなことを幾つも考えて、そのことに想いを馳せてもいたのに。
 けれど、こうして実際にお会いしたなら。祐麒さんの顔を見てしまうと、それだけで何を話さなくても不思議なぐらいに志摩子は満たされた心地になっているのだった。