■ 19−遣らずの雨

LastUpdate:2008/01/08 初出:web(mixi)

 帰宅して制服から部屋着に着替えたあと。携帯電話だけを片手に、志摩子はいま敷いたばかりの布団にそのまま、ばふっと全身を委ねた。母が日中に天日で干していて下さった布団からは、心を穏やかにさせてくれるお陽様の香りがする。日中の天気さえ良かったなら、この気持ちよさだけは冬でも褪せることがない。
 気持ちよく晴れていた一日だったけれど、それでも寒さは確実に本格さを増してくるみたいで。そのせいだろうか、ここ数日には帰宅してコートを脱いだ瞬間にはもう、どっと押し寄せてくるかのような疲労を感じるようにもなっていた。
 寒い中に身を置いている最中には意外と疲れは感じないものらしく、疲れはいつも気を緩ませた瞬間――寒さから離れた暖かな部屋の中で重たいスクールコートを脱いだ瞬間に、唐突に意識され始めてくる。途中に疲労の蓄積が意識されないせいか、気づいたときには体の疲れはいつも相当なものになっていて、最近では帰宅後は毎日のように、眠るわけでもなく布団を寄る辺にするようになっていた。
 疲れることが嫌いかといえば、そうでもない。特に今みたいに、柔らかな布団の上に身を預けながらじわじわと感じられる疲労感はどこか心地よくさえあって、そういう所も含めて志摩子は冬を好きだなあと思うのだった。
「はぁ……っ」
 穏やかに緩んでいく疲労感の中で、このまま眠ってしまわないように意識して、ため息をひとつ吐いてから。片手に握り締めていた折り畳み式の携帯電話を開いて、志摩子は点灯した画面を操作し始める。
 電話帳には、二つ『福沢』の文字が並んでいる。片方は自宅の電話宛で、もう片方が祐麒さんの携帯への電話番号。もちろん志摩子が選ぶのは後者の『福沢』のほうで、続いて『通話』ではなく『メール送信先に設定』を選んでいく。
 初めには、何一つ操作が判らなかった携帯電話。それでも毎日のように、こうして触れていれば自然と身についていくものらしく、僅かな期間のうちに志摩子は見違えるほど慣れた手つきで操作できるようになっていた。
(……それでも、祐麒さんや乃梨子には遠く及ばないけれど)
 それでも、ひとつのメールを書くのにも十数分は掛かっていた頃に較べれば。数分で打ち込めるようになった現在は、志摩子に慣れを感じさせるのに十分なのだった。

 


  『今週末、由乃さんと一緒に、
   そちらに泊まりに伺うことになりました』

 


 メールを送信してから、志摩子は静かに瞼を閉じる。
 放課後、由乃さんと薔薇の館までご一緒したあと、祐巳さんも交えて『お泊まり』の詳細を話し合って。さらには作業に従事しながら志摩子たちの話を聞いていて、その場で『お泊まり』に参加希望した乃梨子も交えて。
 乃梨子がうちへ泊まりに来たくるようなことは何度かあったのだけれど、志摩子のほうから誰かの家に泊まりに伺うのは初めてのことで。いまから土曜日のことを思うと、本当に緊張で心が埋め尽くされそうにも思えてくる。
 まして宿泊先が祐麒さんも当然いらっしゃる家であるから、なおさら緊張は止め処なくて。まだ水曜日の今日からでは間に二日も挟むというのに、今からこんなに緊張していて大丈夫なのだろうかとさえ思えてしまう程だった。

 


  『ちょうどさっき、祐巳から聞きました。
   ‥‥なんだか、俺の方が少し緊張してしまいます』

 


 祐麒さんにとっては自分の家なのに。
 緊張する、と彼が言うことが少しだけ可笑しくって、自然に口元から笑みが零れてきてしまう。

 


  『私も凄く緊張しています。
   少しでも、お会いできるといいですね』

 


 正直な気持ちだけを綴って、すぐに返事を送信する。
 祐麒さんとの、短い文章だけをやりとりするメール。それが「好きかもしれない」と彼にメールで告白したあの日以来、毎日のようにずっと続いていた。
 本当なら直接電話してしまったほうが、ずっと簡単に言葉は遣り取りできる。けれどメールには直接の言葉よりも何か力強い、不思議な魅力があるように志摩子は感じていた。何気ない短い言葉でも、メールで交わし合うだけで特別なものになるような。そんな、本当に不思議な魅力。
 それに電話とは違って、メールで遣り取りしたことは全てが記録に残る。祐麒さんからの返信を待つ間にはいつも、ここ何日かで随分溜まった既読のメールを、読み返すのが楽しみだった。

 


  > 俺も、志摩子さんのことが、好きみたいです。

 


 それはいつかの深夜に、彼から届いたメール。
 きっと言葉で伝えられても、特別な言葉。
 メールだから何度でも、彼から伝えて貰えたそのときの気持ちの儘で、振り返ることができた。

 


  『きっと会えますよ。
   呼んでくれれば、すぐに伺いますから』

 


 今日の由乃さんを彷彿とさせる力強さが、メールには籠もっていて。
 さらに携帯電話が、連続してメールの着信音を告げる。

 


  『俺も、会いたいですから』

 


 わざわざ追加でメールを送ってまで、祐麒さんがそう伝えてきてくれること。

 そのことが、志摩子にはどんなにも嬉しいことのように思えた。
 最近では携帯電話を買って貰って、心底良かったと思うようになっていた。この小さな機械ひとつのおかげで、こんなにもたくさんの特別に満たされることができて。
 メールって本当に不思議で。普段ならなかなか口には出せないような正直な気持ちも、メールでなら伝えることができたり。それに口では上手く伝えることが難しいような気持ちでさえ、メールに綴ればより伝えたい気持ちのそのままで、相手に届くように思えるのだ。

 


  『土曜日にお会いできるのを、本当に楽しみにしています。
   それに、日曜日のことも』

 


 できるだけ早く返信を書いて、祐麒さんに送信する。
 きっとメールを書くことを初めとして、携帯電話そのものの操作に慣れた理由の一つには、祐麒さんが本当に早く返事を志摩子の元へと返してくれることがあるのだと思う。
 志摩子の情けないぐらいに遅い記述に較べ、祐麒さんからの返信は驚くほど早くて。どうしてもメールには送信してから返事が返ってくるまでに、少しの間があるものだから、メールを送信したあと――特にそれが気持ちの籠もったメールであれば尚更――返事が返ってくるまでに時間が掛かれば掛かるほど、不安はきっと心を苛んでしまうだろうに。
 けれど祐麒さんは、僅かにさえ志摩子に不安を感じさせることがなくて。だから志摩子も、負けないぐらいに。祐麒さんに不安を感じさせることが決してないように、少しでも早く打てるようになりたいと。そう、いつも思っているから。

 


  『こちらこそ、楽しみにしています。
   日曜日のことは、まだ何も考えていないのですが
   何も思いつかなければ、また映画館にでも』

 


 これでも、本当に早く打てるようになってきたのに。それでも志摩子が返信に掛けた時間のおよそ四分の一も掛からずに、祐麒さんからの返信は届いた。
(また、一緒に映画を見に行けるのかな)
 先週初めて体験して以来、また映画を見に行ける日が、志摩子には楽しみで仕方なくて。
 母がテレビ録画で持っている恋愛映画のビデオをひとつ、自宅で見てみたりもしたのだけれど。

 ……あの日、祐麒さんが映画館で見せて下さった『本物』を感じてしまったせいなのだろうか、自宅のテレビ画面で見る映画の感動は驚くほど心には届かなかった。
 あの時、あの瞬間――。スクリーンで感じた、怖いぐらいの臨場感。
 あの時には心底『怖い』とさえ思わされたものなのに。知ってしまった今では、もう『怖い』と思えるあれでないと、満足できなくなってしまったのかもしれなかった。

 


  『またあの時みたいに、雨が降ればいいのに。
   ‥‥なんて思ってしまうのは、いけないですよね』

 


 ふと、そんな返事を綴ってみる。
 先週のように映画を見るのなら。どうせなら先週の再現のように、また狭い狭い傘の世界の中で肩を触れ合わせて歩けたなら、どれだけ倖せだろうかと。
 そう、思ったからだ。

 


  『俺も、そう思っています。
   だから、ひとりじゃないです』

 


 帰ってくる返事には、たった二行の言葉。
 けれどその僅かな二行の幸福が。たちまち体を覆っていた冬の疲労感を、志摩子から奪い去ってしまうのだった。