■ 2.「素敵な生活」

LastUpdate:2009/01/02 初出:YURI-sis

 お湯を注いだ瞬間から、たちどころに良い香りが部屋の中を拡がっていくのが簡単に解った。茶葉の見た目だけで語るなら何の変質もない緑茶のように見えるのに、馨しく上品な花の香りは茉莉花の花弁が確かな割合で封入され、そして丁寧に取り除かれた証なのだろう。アリスが淹れるこのお茶は新年の挨拶として天子が持ってきていた『お持たせ』なのだけれど、こうした高級品をあっさり持ってくる辺り、さすがは天人のお嬢様といった所なのだろうか。
 魔法の燭台を幾つか灯しただけのアリスの自宅は基本的に薄暗い。それは明るい所では落ち着けないアリスが意図的にどの光源も光量を絞ったものに抑えて設計したからなのだけれど、その薄暗い世界に於いても天子の髪は美しく煌めいているようにアリスには見て取れた。素朴な木製のテーブルに備え付けた、素朴な木製の椅子。華がなく質素なアリスの自宅の中において尚、天子の外観が持っている美しさは褪せないように見えた。

 

「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」

 

 丁寧にお辞儀をしてみせる天子は、何故か緊張しているようにも見えた。天子が一口ずずっとお茶に口を付けているのを確かめてから、アリスもまた自分のカップのお茶に口を付ける。……一応、一度は彼女のことをこてんぱんにしてしまった以上、復讐の可能性も無いわけではないから用心するに越したことはない。おそるおそる口に付けてみるお茶は芳醇な花の香りに負けないだけの深く新鮮な味わいを裏に内包しており、間違いなく一級品の茶葉のそれに他ならなかった。
 アリスがささやかな感動を覚えていると、じっと何かを強請るような視線が向かい合わせる天子のほうからずっと寄せられてきていて。はあっ、とアリスは重たい溜息をひとつ吐き出す。お茶は嬉しかったし、お土産まで持ってきてくれた天子の願いを無下にはしたくないと想いながら、それでも彼女の願いを受け入れるわけにはいかなかった。

 

「……駄目よ。できないわ」
「どうしてなのか、聞いてもいいですか?」

 

 天子の言葉は、きっととても自然な問い返し。けれど訊かれて、アリスは言葉に詰まる。
 突然押しかけて『住みたい』なんて言うほうがきっと非常識なのだから、それを拒む理由なんて本当は幾らでも考えられる筈なのに。『一人暮らしが気に入っているから』とか、『他人に生活を影響されたくないから』とか、拒む筈の理由なんて幾らでも並べられるはずなのに。言葉を選ばず、相手を傷つけることを厭わないならば『あなたと一緒に住みたくないから』とはっきり言ってしまうことだってできる……筈なのに。
 けれど不思議と、アリスは悩んでみても天子の要求を拒むだけの理由を並べることができないでいた。理由はアリス自身にもわからない。ただ、ひとつ言えるのは……他ならないアリス自身、天子が提案してきた『一緒に住む』ということを、それほど嫌だと思ってはいないらしいことだった。
 もしもこの提案が魔理沙やパチュリー、早苗といったアリスにとってもっと親しい人からの提案だったならどうだろうか、とアリスは想像する。もしそうなら……きっとアリスは、何の躊躇もなくあっさり断ることができただろう。理由も何もなく『別に一緒に住む必要がないじゃない』と穏便に断ったり、あるいは『それで私に何のメリットがあるの』と素気なく突き放すこともできただろう。
(――ああ、もしかして)
 アリスは思う。一度もしかしたらと思ってしまうと、その考えはすぐさま確信に変わってしまった。
 私は多分、天子の提案してきたことに――少なからず、魅力を感じてしまっているのだ。
 そう感じる明確な理由は、アリス自身にも本当にわからないことではあるのだけれど。けれど、天子と一緒に過ごせる生活に想いを馳せてみると――不思議と、それはとても素敵なことのように思えてしまって仕方がないのだった。
(いつしか独りの生活を、淋しいと感じてしまっていたのだろうか)
 そんな風にもアリスは思う。
 ……それは、きっと真実ではない。一人であることはとても気楽なことで、魔術師としての本文からいっても、そしてアリス自身の性格的にいっても、誰かと一緒に住むことのほうが不自由を感じるであろうことは間違いのないことだった。鬱蒼とした森に独りで住む――そのことが、時折アリスの心に抗いがたい寂寥感を感じさせることがないと言えば嘘になる。それでも偶にしか感じない寂寥感よりも一人で生きる気楽さのほうが、誰かと生活を共にする上で感じるであろう煩わしさのほうが遙かに疎ましい。
 アリスの心の中で少しずつ整理されていく消去法は、確実に真実の心に近づいていく。一人で生きていることに不自由がないのだとしたら、一人で生きることを避ける為に『天子と一緒に生活』に魅力を感じるわけではないのだろう。だとしたら、私の心は――やはり他でもなく、彼女と一緒に紡ぐことのできる『生活』そのものに、なぜか魅力を感じているのだとしか思えなかった。

 

「あなたは……そもそも、どうしてここに住みたいの?」

 

 結局、アリスは彼女を拒むだけの言葉を吐き出すことができなかった。代わりに天子にその理由を訊いてみる。
 彼女の提案を拒むことができないでいる自分の心は、やっぱりどんなに考えてみても解らない。けれどそれ以前の問題として、ここに住みたいと天子が望んでくる理由そのものが、どうしてもアリスには解らないのだ。
 アリスが訊ねると、既に緊張からか薄い紅に彩られていた天子の頬が、より色濃いものになる。天子はほんの少しだけ逡巡してみせたけれど、やがて意を決したようにひとつ頷いてみせてから。

 

「――私、アリスさんのことが好きなのだと思います」

 

 恥ずかしそうに、けれどはっきりと。
 アリスと交錯した視線を違うことなく、そう言い切ってみせた。