■ 3.「素敵な生活」

LastUpdate:2009/01/03 初出:YURI-sis

 静かに告げた天子の言葉に、けれど心はそれ程ざわめくこともなかった。天子が告げてくれた言葉に対する驚きはもちろんあったのけれど、意外ではなく――アリスの家を訪ねてきてくれて、少しだけ話しているうちに天子が初めからそうした感情を自分に対して向けてくれていることを、他ならぬアリス自身も少なからず理解できていたのかもしれない。
 だから天子の言葉にも(やっぱり、そうなんだ)という気持ちが先行した。平静な心のまま天子が伝えてきてくれる気持ちを理解して――好かれているのだ、ということを自覚してからようやく胸の鼓動が早くなってきてしまう。アリスと視線を交わしながら天子は真摯に想いを告げてきてくれたというのに、視線を向けてきてくれる相手が『私のことを好きな天子』に変わるだけで、急に見つめ合うことが恥ずかしいことのように感じられてしまって。アリスは慌てて彼女から視線を逸らす。
 服の上から心臓の辺りに手を宛がってみて心をどうにか落ち着かせようとするのだけれど、早鐘を打つかのようにままならない心は抑えようがなくて。すぐに、息をすることさえも苦しくなってしまう。

 

「アリスさんは――私のこと、どうですか?」
「ど、どう、って……?」
「私のことは、お嫌いですか?」

 

 まだ彼女の顔のほうへ向き直ることはできないけれど、逸らしたままの視線でぶんぶんとアリスは頭を左右に振って否定する。――少なくとも、嫌いではない。私のことを好きだと言ってくれる天子のことを、どうして嫌いになどなれるだろうか。

 

「では……私のことを、お好きですか?」

 

 天子が続けて訊ねてくる言葉。アリスは、何も答えることができなかった。
 嫌いではない。けれど、だからといって『じゃあ好きなのか』というと……アリスにはよく解らなかった。正直、天子のことが好きかと自分自身に問い掛けるたび、(そうかもしれない)と答えてくる心もある。
 ちらりと、横目で天子のほうを窺う。じっとアリスのほうを未だ見つめ続けてくれている天子と一瞬だけ目が合って、アリスは再びすぐに目を逸らしてしまう。彼女が持つ綺麗な青い髪に、柔和な表情。さっきまでだって、ずっと向き合っていたはずなのに――こんなに綺麗で、可愛い子だったろうか、と今更ながらに思う。
 初めて会った時には、ただ『子供』という印象しか受けなかった。彼女の言動、異変を起こした経緯。どれを取っても天子の我儘と破天荒さだけしか意識できなかったから、ただ(子供なのだなあ)と苦笑するしかなかったのを覚えている。無邪気な子供と思えばこそ悪戯紛いに異変を起こした彼女を悪人だと思うこともなかったし、それ程アリスだって悪い印象を持ちもしなかったわけだけれど。
 ――今では、特別に見えた。僅かに数分前までは『子供』でしかなかった筈の彼女が、今では可愛い少女として、アリスの中で確かなものとして意識されていた。アリスに対しての特別な気持ちを打ち明けてくれた瞬間から、アリスにとっても彼女は特別な少女になったのかもしれなかった。

 

「……アリスさん」

 

 ずずっ、と木椅子の脚が床をずれる音がした。すっくと立ち上がった天子がゆっくりと傍にまで近づいてくるのが解る。……それでも、アリスには恥ずかしくて天子のほうを見る勇気さえない。
 アリスの頬を、柔らかな感触が包んだ。それが天子が差し出した手のひらなのだと、アリスはすぐに気付く。少しだけ冷たい天子の手のひらが、熱くなったアリスの頬には却って心地良くさえ感じられてしまう。

 

「天子……?」

 

 急に頬に触れられた驚きで、アリスは天子の方を上目に見つめる。
 すぐに天子と視線が合ったけれど――今度は逆に、吸い込まれるような彼女の瞳から、目を逸らすことができなかった。僅かずつ距離を詰めてくる天子の顔、近づいてくる視線。驚くほど自然に、アリスの瞼が閉じた。
 期待からか、コクッ、とアリスの喉が鳴った。僅かに遅れて唇に触れてくる――手のひらよりも圧倒的に柔らかな感触。手のひらとは違って夥しいほどの熱を孕んだそれを押し当てられて、アリスの唇は今にも罅ぜてしまいそうなほど、小刻みに震えた。
(キス、だ……)
 触れるだけのキスはお子様がするものだと、いつか恋愛小説で読んだ気がするけれど。きっとそれは、嘘だと思えた。舌も息も交わすことのない触れあうだけのキスだけれど、確かな温もりと感触とでアリスは触れあわせる相手――天子のことを、深くそこに想うことができた。唇を触れあわせるだけのことなんて、本当は手を繋いで指を絡ませるよりも余程薄い繋がり合いなのかもしれないのに――こんなにも恥ずかしくて、苦しくて、息もできない。なのに……馬鹿みたいに倖せだった。
 やがて唇が離れると、それが酷く惜しいことのようにさえ感じられて、心に切ない気持ちばかりが溢れてきてしまう。お酒とはまた違う酩酊が頭を支配していて、くらくらする。あれほどつぶさに感じられた唇の感触は怖いぐらいにリアルだったというのに、まるで夢の中にいるかのように現実感が湧かなかった。
 キスは奪うものだと言うけれど、どちらかといえば天子に『与えられた』という意識がアリスの中でにはあった。静かに瞼を開くと、やっぱり天子とすぐに目があって離せなくなる。気怠い熱が躰と心を包み込んでくるかのようで、躰も心も自由にはならず、今も変わらず恥ずかしいとは想うのに――物理的に目を逸らすことも、そもそも天子の視界から逃れたいという意志を保つことさえアリスにはできなかった。
(この、気持ちが……)
 これほど不確かで、鮮烈な感情。こんな気持ち、今まで誰に対してさえ抱いたことがない。
 だからアリスは、痛感するかのように想う。――この気持ちが、好き、という気持ちなのだと。

 

「……天子」

 

 愛しい人の名前。
 そう意識して口にすると。なるほどアリスの心には、真実として沁み入ってくる。
(私も、あなたのことが)
 アリスが今にもそう口にしかけた刹那。

 

「……ごめんなさい、アリスさん。私……ちょっとだけ、狡いことをしてしまいました」

 

 吐き出し掛けたアリスの言葉を押し止めるかのように。
 心底申し訳なさそうな表情で、天子はそう漏らしてみせる。