■ 110.「緋色の心」

LastUpdate:2009/04/20 初出:YURI-sis

 正直、アリスさんから名前を頂くことができる人形達を、天子は羨ましいと思う。――あるいは、妬ましいとさえ思うのだ。名前を頂けるだけでもきっととても倖せなことである筈なのに、そのうえアリスさんから名前を頂けるということは、ずっと手元に置いて頂けるという証でさえあるのだから。
 私のことも、ずっとアリスさんの手元に置いて頂けたら、と天子は切に希う。その為なら、いまの名前を捨てることなんて何でもないことで。――名前だけではない、もしもアリスさんの手元に置いて頂くことの代わりに、天子がいま持っているものの総てを手放さなければならないのだとしても。きっと私は、何の躊躇もなくそれを選び取ることができてしまうように思えた。天界での知り合いや両親、あるいは衣玖でさえ、天子を繋ぎとめるだけの理由になどなりはしない。

 

「うう……。で、でも、人形ならともかく人の名前なんて、そんな気軽に付けられないわよ……」
「あまり難しく考えて頂かなくても。気軽に付けていただければ、それで十分なのですが」
「そ、そうは言うけど。難しいわよ……」

 

 そう言いながら、アリスさんはうーんうーんと必死に頭を悩ませて下さっているみたいだった。口にしてしまったのは、本当に突拍子もないお願いだったのだと、天子自信も思ってしまうけれど。実際にアリスさんから名前を頂けるかどうかはともかく、私のことでアリスさんがこうして真剣に頭を悩ませて下さっていることは、ただひたすらに嬉しかった。

 

「アリスさんは褒めて下さいましたけれど。……私、本当は自分の名前が、あまり好きではないんです」
「……そうなの?」
「あ、はい。もともと私は『地子(ちこ)』という名前で地上に住んでいたのですが。一族が天界に召し出された時に、天人に相応しい名前に――という理由だけで、無理矢理に改名させられてしまったんです。『天子』っていう名前自体が嫌いなわけじゃないのですが……なんだか、あとから無理矢理押しつけられてしまった名前みたいで。あまり、好きにはなれないんです」
「そう、だったの……」

 

 少し悲しそうに眉を曇らせながら、アリスさんの手のひらが優しく天子の頭を撫でる。
 単純に理由を説明しようと思っただけで、決して心配させようと思って口にしたわけではなかったのだけれど。アリスさんが与えて下さる手のひらの慰撫が、あまりにも優しすぎるから。天子は目を細めながら、ただその心地良さに陶然と感じ入ってしまう。

 

「もう一度同じことを言ってしまうけれど。私は……あなたの名前が好きよ。『天子(てんし)』という今の名前も、『地子』っていう昔の名前も。どちらも、私には愛しすぎる特別な名前だわ」
「……アリスさんにそう言っていただけることは、とても嬉しいです」
「だから、ごめんなさい。あなたがいまの名前を好きではないのだとしても、私にはその全部を捨てさせたいと思うことができないの。『天子(てんし)』という名前はあなたにとても良く似合っているし。それに私が大好きなあなたの綺麗な髪は、やっぱり澄んだ晴天によく似ているから……」

 

 ――やっぱり、名前を頂くだなんて非常識な申し出には、初めから無理があったのだろう。宥めようという語調が籠められているわけではないけれど、アリスさんの言い回しからなんとなくそのことを天子は察する。
 いちどは、もしも……アリスさんから名前を頂くことができるとするなら、それはどんなに素敵なことだろうと。想いを馳せもしたものだけれど。
(それでも、いいかな)
 そんな風にも、天子には思えた。例え新しい名前を頂くことが叶わないにしても、アリスさんは『天子』という名前を好きだと言って下さったのだから。それ以上に望むべきものなんて、ありはしないのだ。あとは……天子自身が、自分の名前を好きになる為の努力をするだけだ。

 

「――天子(てんこ)」
「……………………………………ふぇ?」

 

 アリスさんの言葉の意味がわからなくて、天子は首を傾げてしまう。

 

「だから、あなたの名前よ。同じ漢字でも『天子(てんし)』じゃなくて、『天子(てんこ)』っていうのはどうかしらと思って。……私はあなたの名前が、今のも昔のもどちらも好きだから。あなたの名前を無下にすることはできないけれど。でも、あなたが私から名前を欲しいと思ってくれるのはもちろん嬉しいことだし、叶えてあげたいと思うから。だから……天子(てんこ)なんていう名前は、どうかなって……」