■ 113.「端書32」
長い間生きてきても、人間を嫌いになれたことなんて無いけれど。
多分、今まで生きてきた中でも。最も人間を好きなのは、現在そのもののように思えた。
「今日は帰らないんだ?」
もう結構遅い時間にもなっているのに。まだ帽子を手に取らない魔理沙に気付いて、萃香がそう訊ねると。訊ねられた魔理沙自身もどこか迷っているのか、訊ねられた言葉に曖昧に「んー」と声を上げてみせた。
「帰ろうと思ってたんだけど、何か雨降りそうな気がするんだよな……」
「あー、最近多いもんねえ」
夏のこの時期には、どうしても雨が多くなってしまう。雨は嫌いではないし、梅雨も夏の風情だと思えば寧ろ好ましくさえ思うのだけれど。それでもやっぱり雨が降ると、霊夢に付き添う境内の掃き掃除と、人里への買い物だけはちょっと不便になってしまうから。それだけが困りものだった。
「……なんか、今更なことを言うかもしれないけどさ」
「うん?」
「萃香って、いっつもここにいるよな?」
ここ、とはつまり博麗神社のこと。
確かに魔理沙の指摘通り、萃香はいつも子の場所に居た。そういえば本来の住み処である妖怪の山にも……もう何ヶ月帰っていないだろうか。それを思い出せなくなるぐらい、萃香は博麗神社にいつも寝泊まりしていたし、もう殆どこちらに住んでいるような感覚にさえなっていた。
もちろん、霊夢がただ一言「帰れ」と口にするなら。それだけで萃香は、家に帰ることを選べるのだろうけれど。ここに住むようになって長いのに、ただの一度さえ霊夢は萃香にそう口にすることは無かったのだ。……それどころか、これだけ一緒に生活しているというのに霊夢の口から萃香を疎むような言葉一つさえ、聞いたことがない。
「……ホントだね、いつもここにいるや」
食事の準備をする時にはいつも萃香のことを呼んでくれるし、たまに萃香が不在の時にも霊夢はちゃんと二人分の食事を準備していてくれる。殆どの場合は三食をいつも霊夢と共にするし、境内や屋内の掃除のときも、買い物に行くときにも萃香はいつも霊夢の傍にいた。
こうした何でもない生活が、けれど不思議な程に萃香の心に安寧の心地を齎してくれている。この場所は、居るだけで……凄く、癒されているかのような心地になるのだ。その理由は、萃香自身にさえ判らないことだけれど。
「なあ。……どうしても萃香に訊いておきたいことがあるんだけど」
「うん? 何だろ」
「そ、その、もしかして、さ。お前も……霊夢のことが、好き、なのか?」
顔を尋常でなく赤らめながら。けれど、魔理沙は真剣な面持ちでそう萃香に訊ねてくる。
(私が、霊夢のことを、好き?)
まさか、と思う。そんなこと、ある筈が――。
霊夢の傍にいるだけで、訳もなく萃香の心は嬉しい気持ちで満たされる。霊夢が自分の存在を認めてくれて、傍にいることを許してくれて。そうして霊夢の傍に自分の存在を置いておけるだけで、不思議な程に歓喜に満ちあふれる心があることを、萃香は知っていた。それは――きっと自分を倒した人間と生活を送れる、そんな今までには有り得なかった幻想が引き起こす、不可思議な感情のひとつなのだと思っていたけれど。
あるいは、それが――恋情の成果であるとするなら。
霊夢のことを特別な存在だと認めながら、けれど魅了の術ように不可解に惹きつけられるこの理由が、今まで何であるのか萃香は見定めることができなかった。霊夢の傍にいられるだけで幸福を感じることができるし、萃香の傍で霊夢が笑顔でいてくれるなら、感じられる多幸感はより深いものになる。――その理由が、萃香には判らなかったのだ。
けれど、魔理沙の言葉がその総てを繋ぎ止めてくれた気がした。もしもこの識別できない、不思議な感情の答えが……恋情であるというなら。まるで魔法のようにさえ感じられる、この不思議さの総てが。簡単に総て理解されてしまうような気がしたのだ。
「――魔理沙は、凄いね」
「それ、全然答えになってないぜ……」
「あ、ごめんね。純粋にそう思ったから……魔理沙は私と違って、聡いなあって」
種明かしされてしまえば、これほど判りやすい感情の動機に、どうして気付けなかったのだろうと思う。
私は、霊夢のことが好きなんだ。だから、霊夢の傍にいたくて、ここから離れられないんだ――。
「……二人で、何の話をしてるの?」
ちょうどそんな風に思っていたところだから。洗い物を終えて居間に戻ってきた霊夢の姿を見て、萃香の心はどきりとする。
(こんなに、綺麗な人だっただろうか……)
夏にしては厚着のように見えて、けれど所々に露出の多い霊夢の服装に、たちまち萃香の心は鷲掴みにされるかのように思う。特別だとはこれまでも意識していた筈なのに、けれどその原因が『恋心』にあるのだと知らされるだけで、霊夢のことはこんなにも特別に見えてしまう。
「萃香っていつもここに居るよな、って話をさ」
「ああ、そういうこと。そんなの簡単な理由だわ」
「そうなのか?」
「ええ。私がね、萃香のことを好きだから、帰さないの。……単純でしょ?」
そう言って、くすくすと笑む霊夢から。
射貫かれたように、萃香は目を離すことができなかった。