■ 115.「緋色の心」

LastUpdate:2009/04/25 初出:YURI-sis

 ――天子(てんこ)。
 それが、アリスさんが私に与えて下さった名前。
 天子は心の中で何度でも、その特別な名前を反芻する。そう、本当に特別な名前だ――何しろ天子にとって、誰よりも特別な人から付けて頂いた名前なのだから。これ以上に特別なものなんて、在る筈がないのだ。

 

「……ごめんなさい、気に入らなかった?」
「い、いいえ。――いいえっ! ただ、その、あまりにも」
「あまりにも?」
「その……あまりにも、嬉しすぎて。心が、追いつかないんです」

 

 気に入らない筈なんて、どうしてあるだろう。アリスさんが与えてくれるなら、どのような名前であったとしてもそれは世界で唯一つのかけがえない宝物になるはずなのに。まして、アリスさんが『どちらも愛しすぎる特別な名前』とまで言って下さった二つの名前のどちらをも、天子は手放すことなく新しい名前の中に籠めて頂けたのだから。
 天子(てんこ)という名前。新しく頂いた名前と呼べる程には大きな変革を伴わない名前かもしれないけれど、それでも頂いた名前は心の中で反芻する一瞬毎に、鮮やかに天子の心を擽って離さない。こんなにも愛しすぎて、掛け替えのない特別な文字を、私の名前としていいなんて――それは、どれほどの果報であることか。

 

「も、もう一度、私の名前を呼んで下さいませんかっ」
「ええ、何度でも。――天子(てんこ)」
「はうぅっ」
「天子(てんこ)、あなたをこの狭い世界の中で、誰よりも愛しているわ……」

 

 頭を撫でる優しい手のひら。愛しい人に口遊んで頂くたびに、既に十分すぎる程に特別な筈の名前は、けれどより一層特別なものとなって天子の総てに宿り返る。
 不意に、目元に熱いものが潤んだ。嬉しすぎる心が呼んだ涙は、たちどころに天子の目元から溢れて頬を伝い始めてしまう。
(――倖せすぎて、死んじゃいそう)
 昨日アリスさんから『好き』と言っていただけたときには、これ以上に倖せなことなんて在りはしないとさえ思った筈なのに。いまこうして天子が感じている倖せのあまりは、昨日の比ではなかった。幸せが心の裡で犇めきすぎて、却ってどこか怖いぐらいで。いまにもどこかに飛ばされてしまいそうな程の不安定な心を、ただアリスさんの手のひらが繋ぎ止めていて下さっていた。
 名前を頂くと言うことは、アリスさんに所有して頂いたという証。天子が、アリスさんのものになれた証に他ならないのだから。愛する対象となれた悦びより数倍にも感極まるのは、もしかしたら自然なことなのかもしれなかった。