■ 12.「従主の密約」

LastUpdate:2009/01/12 初出:YURI-sis

 ――今日は特別な紅茶が飲みたい。

 

 唐突にレミリアがそう口にした瞬間には。普段通りを装いながらも、咲夜の瞳に映る平静さが僅かに揺らいだように見えたのは、たぶん気のせいではないのだろう。
「……かしこまりました」
 心なしか、そう答える咲夜の声も、少しだけ上ずっているようにも聞こえてくる。
 咲夜だけではない。レミリア自信にとってもそれは同じことで、レミリア自信もまた(何気ない一言のように)と何度も意識しながら咲夜にそう告げたというのに、心に溢れすぎるこの緊張をきちんと隠し通せた自信が無かった。
 レミリアが望んだ、『特別な紅茶』。その言葉が指し示すものは、本当に二人にとって特別な意味を持つもので。なればこそ、望んだ側のレミリアも、そして望まれた側の咲夜も。言葉ひとつだけで、こんなにも心を乱されてしまうのだ。

 

 

 

 ――私たちの関係は、この幻想郷の誰よりも明白なものと思う。
 レミリアが主で、咲夜が従。姿格好や仕草、言葉遣いに至る全ての要素が主張するこの主従関係は、もちろん見たとおりそのままで正しい。レミリアは咲夜の主人であることで背負っている自身の責任や義務を常日頃から意識しているし、咲夜もまた従者としての分を忘れることはない。私たち自身、こうした関係であれることを心地よく思ってさえいる。
 けれど私たちの間を繋ぐものは、主従の絆だけではない。当事者である私たち二人の間には主従の他にもうひとつ、どんなにも強固な絆が確かに存在する。レミリアが幻想郷に生きる誰よりも咲夜のことを特別に想い、咲夜もまた誰よりも特別な想いを返してくれる――つまるところ、私たちの間には主従の絆に負けないぐらいに大きな絆として、愛し合う者同士としての絆があるのだった。
 恋愛の本質はきっと、お互いが対等でなければならないようにできている。けれど私たちの関係には先ず『主従』が根強く在るせいか、二人して対等という関係を上手く演じ分けることがどうしてもできなかった。
 だから、いつからか――私たちは『特別な時間』を持つようになった。
 『特別な紅茶』を咲夜に望むことは、『特別な時間』を望むという合図。
 対等になれない私たちだから、せめて対等に少しでも近づけるように。
 こうして普段とは真逆の非対等な関係を望むようになったのは……もしかしたら、自然なことなのかもしれなかった。

 

 

 

 紅茶の準備の為に咲夜が退出してから、レミリアの私室にノックの音が響いたのは僅かに数分後。紅茶を淹れるというのは、あれでなかなか手間が掛かるものだけれど――「どうぞ」とレミリアが入室を許して姿を見せた咲夜の片手には、おそらく時間を止めたのだろう、トレーに乗せられた二つのティーカップがまだ新しい湯気を立てていた。
「特別な紅茶……で、よろしかったですね?」
「ええ」
「では、どうぞこちらを」
 二人分の紅茶、二つのティーカップ。咲夜はその両方のカップをレミリアの傍へと差し出す。
 熟れた果実を思わせる気高い香気は、茶葉が真に上質のものであることの何よりの証拠でもある。本来ならそのままの味と香気とを楽しむのが茶葉に対しての何よりの礼儀でもあるのだろうから、こうした邪道な使い方をすることに抵抗がないと言えば嘘になってしまうが。
 入れられた紅茶二つのうち、左側のものはカップの底が透けて見えるほどの透明度が高い琥珀で満たされている。けれど右側の紅茶はそうではなく、籠もった印象を与えるくすんだ翠が紅茶本来の色味を全て台無しにしてしまっていた。
「出させて頂いた紅茶のうち、片方には『特別なお薬』を混ぜさせて頂きました」
「パチュリーの薬ね?」
「はい。もしもそちらを飲まれたなら、いかにお嬢様でも無事では済まないでしょう」
 どちらに『特別なお薬』が入っているなんて、考えるまでもなく明らかなこと。――もちろん、そんなことは咲夜だって承知していることなのだけれど。
「お嬢様には片方のカップを選んで飲んで頂き、私はお嬢様が選ばなかったほうのカップを飲ませて頂きます」
「……今回の薬は何かしら。媚薬? 弛緩剤? それとも別の何か?」
「両方、とのことです。新しい薬を開発したそうなので、そちらを譲って頂きました」
「そう」
 どんな薬が混じっているにしても、結果は同じことだ。
 『特別なお薬』が入っているほうを飲めば自由を失い、相手の成すが儘になるということ。
「お嬢様のことですから、間違えても『特別なお薬』入りのほうを飲まれることはないと思いますが。……万が一ということもございますので、お許しを頂けましたら」
「ええ、わかっているわ。賭け事はルールを明確にしなくてはいけないものね」
 咲夜の言葉に、コクンと頷いて答える。
「時間は……そうね、夜明けまででいいかしら。もしも私が『特別なお薬』の入ったほうを飲んでしまったなら、咲夜はこの夜が明けるまでの間、私に何をしても構わないわ。どんなに酷いことや痛いことでも構わないし、咲夜が命令することには私は絶対の服従を誓う」
「……ありがとうございます。そのようにお約束を頂けさえしましたら、私も遠慮なく権利を行使することができます」
「もちろん咲夜が負けた場合は、私に絶対服従しないとダメよ?」
「はい、それはもちろん承知しております。……それに私は元よりお嬢様に服従を誓っておりますので、負けたからといって何が変わるわけでもありません」
 そう言ってくれる昨夜の言葉が、今は本心からのものだと信じられるだけに嬉しい。

 

  ――愛している人の為なら、何でもしてあげたいと思うのは当然のこと。
    だからこそ私は従者であれる自分に、これ以上ない喜びを感じることができるのです。

 

 咲夜がそう言ってくれたのは、まだそんなに昔のことではない。当時はまだ咲夜から思いを寄せてもらっているにも拘らず、そのことに気づけないでいる愚かな私でしかなかったのだけれど。
 今は……咲夜に負けないぐらいに、レミリア自身もまた咲夜のことを誰よりも想っているから。
 レミリアのほうからも、こうして愛している人の為に全てを捧げられる機会を持てること。そのことにレミリア自身もまた、これ以上ないほどの喜びを感じるのだ。
「じゃあ、私はこっちのカップを頂くわ」
 そう咲夜に告げてレミリアが選ぶのは、もちろん右側のカップ。明らかに紅茶ではない何かが混ぜられているとしか思えないそれを飲めば、まず間違いなく賭けに負けると知りながら。
「本当に、そちらでよろしいですか?」
「ええ、構わないわ」
「畏まりました」
 もう片方のカップを咲夜が手に取って、口元へと近づける。そのままカップにまだ口を付けずに待っているのは、未だこのタイミングでは存在している筈の、レミリア上位の主従関係があるからだろう。
 けれど、その関係もこの瞬間に終わる。――少なくとも、明日の夜明けが来るまでの間は。
 静かに紅茶に口を付ける。咲夜も倣うように、すぐにカップに口を付けた。
 口を付けた直後にはさっぱりとした紅茶の味わいがあるのに、比重の差で沈んだのか底に近づくにつれてどろりとした明らかに紅茶ではない液体の層がある。紅茶に紛れて味のほうはよくわからないけれど、明らかに違和感のある喉への感触に、一度は咽そうにもなってしまう。
 それでもなんとかカップ一杯分のそれを飲み干す。苦労してレミリアが飲み干したときにはもう、咲夜はカップを下ろしてただこちらを待っている様子だった。
「申し訳ありませんお嬢様、そちらが……」
「……なるほど、私の負けなのね?」
 レミリアの問いに、僅かに躊躇いつつも咲夜は頷いて答える。
「じゃあ、仕方ないわね」
 努めて残念そうな自分を装いながら、そう口にしてみても。どうしてもこれから咲夜に虐げられることへの期待に心が膨らみすぎていて、声が上ずってしまう。
「よろしいですか、お嬢様」
「ええ」
 そう訊いてくる咲夜の声もまた、緊張か何かに震えているのがすぐに判った。
「約束は、夜明けまでだったかしらね?」
「はい。まだ半日近くありますが……本当によろしいのですか?」
「……ええ、構わないわ。許します、咲夜――私のことを、あなたの好きにして頂戴」