■ 120.「緋の釣瓶」
秋の陽が落ちるのは本当に早く、澄んでいた筈の清涼な空は簡単に緋色に染まっていく。
さらに鮮やかな夕焼に目を奪われているいると、瞬く間に夜の帳は世界を包み込んでしまった。
天子はただ、その様子を静かに眺めていた。こうした空のもつ幻想性というものは、天に近い場所に住んでいると却って見えなくなってしまうものなのだろうか。少なからず泣きそうになってしまうほど感動的な空の景色は、空から遠ざかった場所に住まうようになったいまになって初めて、天子には見ることができた景色のように思えた。
あるいは、こういった景色が特別に見えるのも、愛する人が傍に居て下さるお陰なのだろうか。ずっと手を繋いで、隣に座っていて下さっているアリスさんのほうを天子がそっと振り返ると。そのことに気付いたアリスさんは、天子に柔らかに微笑みかけて下さった。
「綺麗ね。私、こんなに空が綺麗なものだなんて知らなかった」
「私も、知りませんでした」
きっと心のとても深い場所に刻まれた筈の景色。『思い出』として刻まれるその記憶の傍には、もちろん瞳が灼けるそうなほどの鮮やかな緋色とともに、こうしてアリスさんと一緒にいられたことの幸せもまた刻まれるのだろう。
思い出が、怖い程の勢いで増えていく。天界から離れて、こうしてアリスさんのすぐお傍で生活させて頂くようになってから。毎日のように、幾つもの大切すぎる思い出ばかりが心に深く刻まれていく。もちろんそれは倖せなことで、けれど……あまりに倖せすぎるものだから、ふとした瞬間には逆に不安になってしまうこともあったりするぐらいなのだ。
「もう、冬もきっと近いのでしょうね」
「……そういえば、私。冬は初めてです」
「そうなの? ……天界に住んでいたから、ってことかしら」
「はい。あちらには夏も冬も、在って無いようなものですから」
下界の冬は厳しいと聞くけれど。天子にはその知識も経験もまるでない。
「じゃあ、いまひとつだけアドバイスしてあげるわ」
「あ、はい。何でしょう?」
「もう冬が近いのだから、今日もそろそろ寒くなって来るわ。……そう言う時には、早く帰って暖かい部屋に帰るのが一番だと思う」
真面目な顔をして、アリスさんがそんな風に言ってみせるものだから。
思わず天子は、吹き出してしまう。
「そうですね、早く返りましょう。……私達の暖かい部屋に」
「ええ、本当に。あなたが来てから、随分とあの部屋は暖かくなったわ……」
そう言って、アリスさんは少しだけ目を細める。
まだこちらに来てから、アリスさんの傍に置いて頂くようになってからそれほどの時間も経っていない筈なのに。森の邸宅で過ごさせて頂く暖かな時間は、二人にとっていつでも愛おしく懐かしめるほどの、まるで大切な思い出のようになっているみたいだった。
「……ついでに、暖かな寝床も付けて下さると、私はなお嬉しいのですが」
「ダメよ。今日はベッドで天子を何度も愛して、あなたの体温で温めさせるんだって。……私が、いま決めたから」
くすくすと、微笑むアリスさんに。釣られるように天子も微笑む。
こうして今日の思い出が、きっと夜にはまたひとつ増えていく。アリスさんは私のことを離さないと約束して下さって、天子の方からも決して離れないと誓ったのだから。何度も、何度でも、大切な思い出はどこまでも増えていく。
見上げる空には、もう星の瞬きさえ確かめられる程の深い闇ばかりがある。けれど心に刻んだ緋色の思い出が確かにあるから、天子は何度でもその漆黒の帳に鮮やかな緋色を重ねてみることができる。
まるで心まで灼けそうな程の、鮮やかな緋色。恋をしている天子の心も、まさしくそんな色をしているのだろうか。