■ 32.「緋色の心」

LastUpdate:2009/02/01 初出:YURI-sis

 初めて会った瞬間に、
 なんて鮮やかに――目を奪う人だろう、と思った。

 

「この後、何処にどういう地震が起きるか判らないけど、そんなのどうでも良いわ。ここは宙に浮いているんだから」
「……ふざけた奴ね。何よ、その自分勝手な行動」

 

 前もって準備しておいた台詞は、その時点ではまだ名前も知らない彼女を怒らせるために用意しておいたもの。誰がこの有頂天に乗り込んでくるのかわからなかったから、誰の神経でも逆撫でするような台詞を選んでおいたのだ。
 怒らせる為に言ったのだから。その台詞を言われた彼女が、天子に対して怒りの感情を抱くのはとても当たり前のことで。
 果たして、彼女から険悪な瞳に睨まれてしまうと。なぜだろう、不思議な程に……天子の心は傷ついた。


     *


(……また、あのときの夢を)
 いつものお布団ではなく、ふかふかのベッドの感触に包まれながら天子は目を覚ます。知らない天井と、知らない部屋。目に飛び込んでくるいつもとは違った風景を確かめて、昨日のことが夢ではないのだと再確認する。
 なんだか最近は浅い眠りしか取ることが出来なかったのに、少し頭がぼうっとする感覚がある所をみると、どうやら余程程深く眠ってしまっていたみたいだった。とても心地良い感覚に包まれていて、なかなか起きたい気持ちになれなかったのは……枕やお布団から、アリスさんの匂いがするからなのかもしれない。
 初めてアリスさんと会った時のことを夢にみるのも、あるいは当然のことなのかもしれなかった。アリスさんに想いを伝えること、一緒に住まわせて欲しいと願い出ること。そうした想いのきっかけは、きっと全部、あの初めて会った瞬間にあると思うから。
 きっと初めて会った瞬間には、もう一目惚れしてしまっていたのだ。なればこそ意図して怒らせたというのに、アリスさんから冷たい視線で睨まれてしまうと……それだけで、天子の心はあのとき傷ついてしまったのだろう。会ってからたった数秒の間にでも、きっと人は人を好きになることができる。好きになった人からは……あんな風に睨まれることなんて、堪えられないことだから。
 アリスさんと初めて会った日からこうして唐突に訪ねてきた昨日まで、天界でひとり夜を過ごすたびに天子はあの日のことを夢見ずにはいられなかった。眠りが深くなった瞬間から、翌日の朝まで……毎夜あの日のことを思い返すように夢見ては、あの日のアリスさんの眼差しに何度でも傷ついて、自責と後悔の気持ちばかりに押しつぶされながら目を覚ましてきたのだ。
 けれど今朝だけは、あの時のことを夢に見て傷つきはしても、それほど天子の心は痛まなかった。きっとそれは、今回の夢では……確かにあの瞬間の夢も見たけれど、それとは別に倖せな夢もたくさん見ることができなからだ。
 それはもちろん、アリスさんから愛して頂いた夜の思い出。思い出として語るにはまだそれほど時間は経っていないのかも知れないけれど……それが新しく鮮烈な記憶である分だけ、初めて会った時の悲しい思い出よりも強く天子の心には記録されている。アリスさんの優しい眼差しに見つめられながら、同じぐらい優しい指先に絆されて、二度も倖せな感覚へと導いて頂いた夜の果報は、きっとこれから毎日でも夢に見ることができるだろう。

 

 そんな幸福感に心を犇めかせていると。
 不意に、コンコン、と天子が居る寝室のドアがノックされた。

 

「あ、は、はい。お、起きていますので、どうぞ」

 

 他に誰もいないはずだから、アリスさんに違いない。そう思って上体を起こす天子。上体を起こしてみて初めて、何も衣服を身につけていない自分の格好に天子は気付かされてしまう。
 慌ててお布団を肩までたくし上げて、自分の躰を隠してみる。
 熱気が冷めてしまったいまの躰には、朝の空気は冷たいけれど。こうして何一つ身に付けていない自分の格好さえ、昨夜アリスさんにあれほど愛して頂いた証拠なのだと思えば。もちろんそのことにさえ、天子は倖せしか感じることができないのだった。