■ 35.「端書06」

LastUpdate:2009/02/04 初出:YURI-sis

[ミレトス学派]

 

 

「紅魔館の高さを測るにはどうしたらいいでしょう」
「高さを?」
「ええ。但しパチュリーさんひとりで、それも魔法を使わずに、という条件が入りますが」
「そうねえ……」
 困ったように眉尻が下がる。普段から魔法に親しむ人間にとって、何かを為すに用いる材料は多くの場合魔法の力が元になってしまう。それは人とさして変わらない身体能力としての分だけで為せることは、そもそも魔法使いが目標とすべきものではないからである。――何しろこんなこと、本来なら巻尺の端を持って同じ高さまで飛ぶ、その程度で済む話であるのだから。
 人よりは幾らも高じた知恵を持っていても、持っている物差しが違えば物事を考える難易度は何倍にも膨れ上がるからだ。それでもパチュリーの知恵と知識なら、例えば三角法といった高さを計測するための知識を探り当てるまでにさしたる時間は必要ないだろうけれど。
「太陽が昇って、沈みますよね」
 哲学の話をするのであって、数学の話をするのではないのだから。パチュリーが答えに達するのを待たずに早苗は続きを切り出す。パチュリーも「ええ」と頷いてくれた。
「あちらの世界ではピラミッドっていう高さが数十メートルにもなる建造物があるのですが。知っておられますか?」
「ええ、本の知識でなら」
「でしたら話が早いですね。この高さを測るにあたって、ある人は自分の影を使って考えたんです。太陽は地平から上って逆の地平に沈むから、時間に拠って影は幾らでも伸び縮みする。だからある人の身長の高さと影の長さ、その二つが同じ長さになる時間にピラミッドの影の長さを測れば、それはそのまま高さを測ることになる。ある人――タレスという哲学者はそう考えたんです」
「なるほど」
「タレスは測量術や天文学に秀でていて、幾何学的な考え方を生み出しました。ピラミッドの影を測ることはもちろん、他にも『直径に対する円周角は、直角である』というターレス定理を考えたりもした方で、どちらかといえば私達の世界でこの定理の名前で有名な方かもしれません」
 この人に限らず、哲学者は他にも秀でた才覚を持つ多彩な人が多い。
「ああ、ちょうどいいところに来たわね、咲夜」
 いつの間にか、二人の傍には姿勢のいいメイドさんの姿が。宴席で何度か見かけたし、話をしたこともあるから早苗も見知っている、十六夜咲夜さんが音も立てずにそこには居た。早苗はちっとも気づかなかったのに、すぐに気づいたパチュリーさんは凄いな、って思う。
「何か御用でしょうか?」
「飲み物を入れてきて頂戴。早苗は何が飲みたい?」
 急に自分のほうに振られて、一瞬驚く。
「そ、そうですね。では熱い緑茶を頂けますでしょうか」
「緑茶は……すみません、ちょっといま切らしておりまして」
「あ、そうなのですか」
「はい。ですので、少々お待ち下さいね」
 そう言って、ペコリと一礼して咲夜さんは下がっていってしまう。切れているのに、どうして『少々お待ち下さい』なんだろう。なんだか言葉が噛み合っていないような気がするのに、この違和感は早苗だけのものらしく、パチュリーさんいかにも何も思っていないようなはすました表情をしていらっしゃった。
「ええと……続けますね。最初に哲学をした人の多くは、あらゆるものに万物の原理があるのではないかと考えました。タレスも例外ではなくて、タレスは『アルケー』――即ち『万物の根源』に『水』があるのではないか、という考えを提唱したんです」
「ふむ、なるほど聡いわね」
「生物は水なしでは生きられません、人や動物、植物に至るまであらゆるものの養分は水そのものやあるいは水気を孕むものです。絶え間なく活動の側面で生み出し続ける熱そのものさえ、水から生じるものです」
「誰だって死んだら冷たくなるわね」
「はい、死んだ生物は熱を発しません。生存しているということはそのまま熱を発しているということで、そのものは水がなければ生み出されません。総てのものの種子は水気ある自然性を持ち、水こそが水気あるものにとって自然の原理である――そうした考え方をした、と言われています」
 水分がなければ、生きていけない。熱を発するのにも生物は水が必要だから。
 ちょっと喉が渇いてきたなあ、と早苗思う。こうして沢山喋ると喉が渇く。言葉を発するのにも生物は水が必要なのだ。お茶がないのは残念だけれど、それならそれで何か代わりの飲み物が欲しいなあ。
「たしかに水は大事ね。でも、だったら水は何から生まれるのかしら?」
「やっぱり、そう考えちゃいますよね。そうした理由からとは限りませんが、タレスの上げた『水』とは異なったアルケーを提唱した人たちもたくさんいました。例えばアナクシマンドロスはそのひとりで、そもそも万物の根源を『アルケー』と初めて呼んだのはアナクシマンドロスでした。彼はアルケーを『無限なもの』という抽象的な概念で取り上げたんです」
「……なんだか、急に哲学っぽくなってしまったわね」
 パチュリーさんのその言葉の裏には、少なからず哲学そのものに対する揶揄の苦笑が見え隠れする。初めて聞かされればそうした反応をするのも無理ないこと、というより最早当たり前の反応だとさえ思えるので、早苗もつられるように苦笑するしかなかった。
「仰るとおり、哲学には抽象的な概念に拠る解釈が沢山でてきます。アナクシマンドロスが提唱した『無限なもの』という考え方は、それの万物の起源というより解釈の起源でもあるのかもしれませんね。実際、水という特定の存在者を起源とすることは、究極的な実態にはなりえないという考え方を彼自身訴えました。水に限らず、当時の哲学者が起源として挙げるものの多くは四元素(地・水・火・風)の何れ、あるいはその複数や総てだったのですが、彼が言うことは即ちそれらを起源として考えることがそもそもおかしいのだ、という提唱に他ならなかったのです」
「原理に原理などない、ということね?」
「はい、その通りです。実際、後の時代になってからアリストテレスはこの考え方について『すべては原理か原理からのものであるが、無限なるものに原理はないからである』と述べています。それはそのまま、存在するもののひとつを原理として考えるのではなく、存在しないものを原理とするほうが適切であるという考え方でもあります。あらゆる存在するものは必ず有限を持ち、いつしか何らかの形で終を迎えます。だから原理というものがあるなら、そもそも存在を持たず有限でない――即ち、無限であるということなのです」
(そういえば、魔法にも原理はないのかな?)
 ふと、早苗はそんなことを思う。だったらそれは、魔法は万物の起源になるかもしれない。それを言うなら原理の存在しない奇跡を持つ、早苗もだけれど。
「どうぞ、お茶が入りましたので」
 咲夜さんが二人ぶん差し出してくれる湯飲み。その中身は……香りといい色といい、どう見ても緑茶だった。
「切らしておられるのでは無かったのですか?」
「はい、切らしておりました」
 なんで切れているお茶がこうして出てくるんだろう。早苗は首を傾げてしまうけれど、それも瀟洒な咲夜さんだからと思えば、なんとなく納得できてしまうから不思議だった。
 だって彼女はタネのない手品をたくさん持ってる。タネがないっていうのは原理がないっていうことと、もしかしたら同じなのかもしれない。
『――万物の根源は咲夜さんである』
 そんなことを早苗が言い出したら、パチュリーさんは笑うだろうか。