■ 57.「端書15」

LastUpdate:2009/02/26 初出:YURI-sis

 唇を押し当てればそれだけで、躰がかぁーっと熱を持つかのよう。
 キスというのはとても特別な行為で。唇を重ねる――たったそれだけのことで二人の空間が密になり、狭い恋愛だけの世界になってしまうかのようだ。押し当てる唇と共に感じられるのは、怖い程にリアルな椛の感触、体温、それに匂い。素朴と例えるべきか、粗野と例えるべきか……少しだけ汗のような匂いの混じった椛の匂いはなんとも形容し難いけれど、こうしてごく密接した距離から感じられる椛の匂いに包まれていると不思議な程に心は安らぐようで、文はこの匂いがとても好きだった。
 だからキスの最中にも、文はその傍に確かな椛の存在を意識することができた。キスをする時には瞼を閉じるのがマナーだというけれど、もしかしたらそれは相手の匂いをより深く感じる為なのかもしれなかった。
 もしもいつかの未来に視力を失うことがあっても、キスをすれば相手が椛かどうか見分けることができる自身が文にはあった。椛の匂いを感じれば、そこに明瞭な椛の存在を感じることができるはずで。視覚なんていう頼りない感覚よりも余程深く鋭敏に、椛の像は文の心に焦点を結ぶのかもしれないとさえ思う。
(……失明なんて、絶対にしたくないけれどね)
 とはいえ、視覚を失えばそれだけ椛を感じられる感覚を失うことで。椛の愛らしい笑顔を初めとした、幾重にも変化する表情。女性らしく……は無いかもしれないけれど、稚くも可愛らしい椛の存在を視覚で感じられなくなることだなんて、絶対に許容できないことだ。

 

「椛」

 

 愛しい人の名前は、口にするだけでさえ特別な感情を胸の裡に沸き起こす。文が感じるこの特別な意識と同じだけのものを、椛も感じてくれているのだろうか。文の言葉に喚起されたかのように、僅かに一瞬だけ――何かに感じ入るかのような特別な表情を、椛が見せてくれたような気がした。
(好き、だなあ)
 こうして傍にいられる時間を持てるたび、文は何度でも椛に恋をする。
 ――椛は、私のことをどう想ってくれているのだろう。そうした疑問もまた、不意をつくかのように時折ごと文の心に襲いかかってくる。
 椛は私のことを『好き』:だと言ってくれる。恥ずかしさから、あまり好きという想いを言葉にして伝えられない不器用な文とは違って、椛は文が望む以上に何度でも『好き』という言葉を率直に訴えかけてきてくれて。もちろん『好き』という言葉を掛けられる一度ごとに、文の心は熱くなるのだけれど。
 時折……怖くなる。椛は嘘を吐くことができるような性格ではないから『好き』と告げてくれる言葉そのものは嘘でなどありはしないのだろうけれど。果たしてそれは……文が椛に抱いている『好き』と、同一のものだろうか。
 私は――疚しい心を椛に対して抱いている。今まで何度となく椛の躰を抱き締めて、唇を奪ってきけれど。そうした行為の裏ではいつも、椛に対して疚しい感情を抱き続けてきた。百度のキスを奪い、椛の躰を拉いできた裏では……一体どれほど、それ以上に椛の躰を求めることを夢見てきただろうか。
(いつも、想うだけしかできない)
 それ以上のことをもし望んでしまうこと。夢見る程に魅力的なことでありながら、同時に考えるだけでも怖いことでさえある。
 椛は私のことを『好き』だと言ってくれる。少なくとも今は、私のことを『好き』だと言ってくれるのだ。
 思いの儘に総てを訴えたい気持ちは勿論ある。あるいは椛がそれを総て受け入れてくれるかも知れないという、淡い願望さえ抱いてもいる。だけど、それでも……! それが変質してしまうかもしれないのだと想えば最後、文には何も言えなくなってしまうのだ。

 

「文、さま」

 

 一度は離れた唇を、今度は椛のほうからも重ねてきてくれる。
 失いたくない。キスされてしまうだけでも、これほど多幸に満たされるというのに――この幸せを全部失うかもしれないという賭けに、一時の衝動や感情で乗ることなんて、できるはずがないのだ。
(キスで、想いが伝わればいいのに)
 そんなことさえ、文は想う。
 もしもそうなら、言葉にできない臆病な心の代わりに。椛に自分の感情の総てを伝えることもできるのだろうか。あるいは……それでさえ、心を伝えることから臆病にも逃げてしまうのだろうか。