■ 64.「緋色の心」

LastUpdate:2009/03/05 初出:YURI-sis

 がくがくと膝が震えて、間もなく立っていられなくなった。崩れるように後ろに座り込んだ天子のお尻を、硬い石の階段が強く打ち付けたけれど、心を奪われている最中であるせいか、その痛みさえ殆ど気にはならなかった。
 そうした様子を見て、アリスさんは表情をさらに心配に曇らせながら天子の顔を覗き込んでくる。こんな妄想に心を遣ってしまっている自分の表情を見られたくなくて、顔を隠そうとするのに……手が動かない。「大丈夫です」と口にしたいのに、その僅かな一言を喉から吐き出すことさえ叶わなかった。
 不快なたくさんの汗が、服や下着の内側にじんわりと滲み出てきていた。問い詰めたいことはたくさんあるはずなのに、何も答えられずに蹲るばかりの天子を……アリスさんはそれ以上には何一つ訊ねることもせず、何も言わずにただ同じ段の隣に座って、そっと肩を寄せて下さった。

 


 天子の躰と心にようやく自由が戻って、言葉を発することができるようになったのは、それからさらに十分弱の時間が必要だった。なんとか落ち着きを取り戻してから、何よりも先ず「すみません」と伝えた天子に対して、アリスさんは嫌な顔ひとつすることなく「いいのよ」と優しく囁いてくださった。

 

「でも、あなたが心配だった事実だから。よければ説明はしてほしいのだけれど」
「あ、はい……それはもちろん」
「……一度部屋に戻りましょうか? それとも、このままがいい?」

 

 そう訊かれて、天子は少し迷う。
 まだ微弱な緊張が今も躰を支配していて……この感覚は、たぶん地下へ通じるこの場所に居続ける限り天子の躰から無くなることはないのだろう。そう考えればここから出て、部屋に戻ったほうがいいとは思うのだけれど。
 でも……こんな恥ずかしいこと、きっと面と向かっては話せない。部屋に戻り、テーブルにアリスさんと向かい合って座ったなら、きっと伝えることができなくなってしまうような気がして。それに比べれば、薄暗い階段で、それも横に並んで座っているから、顔を見ずに話すことができる今のままのほうがいいように思えて。

 

「えっと……このまま、で」
「ん、わかったわ」

 

 天子がそう伝えると、アリスさんはすぐにそう答えてくださった。
 短い了承の返事を返してくださった後には、アリスさんは何一つ天子に言葉を促すようなことはしなくて。ただ、じっと天子が話し始めるのを待って下さっている様子だった。アリスさんから伝わってくるのは、触れた肩から通じてくる温かなぬくもりばかりでで。その心地よい熱を寄る辺に、上手く伝えらることができるよう天子は心をゆっくりと落ち着けていく。
(……こんなことを言って、嫌われてしまわないだろうか)
 一瞬だけ、不安が心を掠めもするけれど。今の天子には、簡単に振り払うことができる。
 だって、どんなアリスさんの一面を見たとしても、天子にはアリスさんのことを好きにしかなれないのだから。そして天子がこれほどアリスさんのことを愛して止まない気持ちと同一のものを、アリスさんのほうでもまた抱いて下さっているのだと。今では強く、信じることができたから。
 不安なんかで、心を冷たくされたりなんてしない。それに肩越しに伝わってくる、アリスさんの体温もあるのだから。冷たくなるどころか、今も天子の心には温かい熱ばかりが届いているのだから。