■ 66.「二竦み」
それはきっと、全くの偶然。お酒のせいで注意力が鈍っていたというのもあるのだろうか、彼女の隣に座ろうと思って近づいた刹那、不意に脚が縺れてしまって。気付けば早苗は、にとりの躰を組み敷くように押し倒してしまっていた。
押し倒した早苗に決して他意があったわけではない。恋愛に置ける駆け引きのようなものは酷く苦手だし、そうした早苗の性分を知っているだけに、にとりも押し倒されたからといってそこに特別な意志を読み取ったりはしないのだろう。
躰を起こして、にとりに謝る。それだけで、簡単に全部無かったことにできるほどの拙い触れあい。実際、普段ならそうした何も無かったことになっていたのだと思う。
だけど――不思議と、早苗もにとりも、身動きが取れなかった。
僅かに潤み、陶然とした瞳。
恐怖の中にも沢山の期待が混じった彩りを纏う、好奇の眼差しを――裏切りたくない。
躰が少しもたつくからといって、心の冷静さを失うほど呑んだわけではない。なのにこうして、普段とは違う位置関係と距離とでにとりと見つめ合ってしまうだけで。普段には意識できないほど特別さを孕んだ何かに、心が突き動かされそうになるのは、どうしてだろう。
にとりは壁を作らない。だから早苗も、彼女の牽かれるままいつでも傍にいることを選ぶことができて。彼女のすぐ近くで過ごせる時間が時間が増えすぎたせいだろうか、いつしか忘れてしまっていたけれど……こうして押し倒す格好ようなで彼女を見つめてみると、改めて早苗はにとりの可憐さを意識せずにはいられなくなる。
離れたほうがいいのは判っているのに、近すぎる距離で繋がるにとりの視線に射竦められて、身体が自由にならないみたいだった。それでも、にとりがいつもの調子でちょっとした軽口を言ってくれたり、あるいはそうでなくとも(仕方ないなあ)という表情で微笑みかけてくれさえしたなら。早苗はすぐにでも彼女から身体を離すことができるはずなのに。
身動きできない早苗と、まるで同じみたいに。にとりもまた、僅かにさえ身体を動かさず、そして言葉を発さなかった。ただ見つめ合うばかり時間が長くなるに連れて、恥ずかしさは確実に水位を上げていくのに。それでも、早苗は視線を彼女から逸らすことができないでいるし、にとりもまたじっと早苗だけを見つめてきてくれる。
「……に、にとりっ」
「う、うん」
停滞した時間に堪えきれなくなったのは早苗の方だった。何か言わなければ――その一心だけで彼女の名前を口にしてしまったけれど、それに続ける言葉を早苗は持たなくて。
だけど、何も言葉を続けないのは変なことだから。早苗は必死に頭を巡らせて、彼女に伝えたいと思えるような言葉を探していく。
「――す、好きっ」
よりによって、飛び出したのはそんな言葉。
確かに何よりも彼女に伝えたいと思い続けて久しく、その意志も何より大きなメッセージだけれど。硬直した二人を解放させる為のものとして、それが最も不適な言葉なのは間違いがなかった。
(わ、私はなんてことを――)
頭の中が混乱でぐるぐるする。にとりと今も視線を重ねながら、彼女が寄せてくれる眼差しがどう変質してしまうのか、その畏怖に一秒ごと怯えずにはいられなくなる。
そうした最中、早苗の頬に、そっと触れる感触あった。
「うん、私も。早苗が好きだよ」
温かなにとりの手のひらが、早苗の頬にじんわりと優しくて。
思わず、早苗の両目から涙の粒が零れ落ちてしまったのは。きっと、その温もりのせいなのだ。