■ 72.「互譲の精神」

LastUpdate:2009/03/13 初出:YURI-sis

 パタン、と。本をいつもより少しだけ音を立てて閉じるのが、魔理沙なりの合図。
 だからアリスも、その音を聞くだけでいつしか淋しい気持ちを抱くようになった。

 

「……帰る、のね?」
「もう遅いしな、この本の続きはまた明日読むぜ。……ああ、今日も夕食、美味かったわ」
「ありがと。明日もちゃんと二人分、準備するから」
「おう、期待してる」

 

 魔理沙を見送る為に、アリスも読みかけの本に栞を挟んで、閉じる。
 約束の通り、魔理沙は毎日アリスの許へ会いに来てくれる。けれどそれは同時に、毎日魔理沙と別れなければならない、ということも意味していた。
 本音を言えば、別れたくない。魔理沙に、泊まっていってと口に出来る勇気があればと……いつもアリスは、弱気な自分にがっかりしながら思わずにはいられなかった。今の関係があるのは全部魔理沙の告白のおかげ。告白なんて、相手に拒まれたらとてもリスクが高い気持ちの直截なぶつけ方であるのに、それを勇気を持って行使できた魔理沙は凄いなって……いつも、アリスは羨ましく思う。
 とてもじゃないけれど、私にはそれだけの勇気を持つことができなかった。
(泊まって、だなんて……)
 魔理沙の気持ちを知っている以上、そんなことを口にするのは誘い文句でしかない。泊まっていくよう魔理沙に促すことは、即ち(抱いて欲しい)という意志を伝えることと何も違わないのだ。
 ……抱かれることが嫌な訳じゃない。寧ろ、そうされたいと願う心もまた、アリスの深い場所には確かに存在するのだけれど。それでも……アリスには、そんな強請るような台詞を言える程の、勇気がなかった。
(いっそ魔理沙が、望んでくれたなら)
 そう思う心もある。もしも魔理沙から泊まりたいということを申し出てくれるなら、アリスは多分それを快諾することだろうし。もしも魔理沙が私の躰をベッドに押し倒すなら……私は、抵抗さえせずに彼女の指先を受け入れることを選べるのだろうに。
 それでも、魔理沙がそうしたことを望まないであろうことは、アリスにも容易に想像がついた。今の状態は魔理沙にとって、約束を果たす――その一心だけで成っているものだろうから。十分に約束を果たしているのだ、とアリスのほうから認めてあげない限り、魔理沙が実力行使に及ぶことはないのだろう。……魔理沙は、そういった誠実さを併せ持つ人だから。
(……今日、言えたら、いいのに)
 帰ろうとする魔理沙の背中に「泊まっていけば?」と言葉を投げられたらいい。それだけで私達の関係は、きっと随分と加速するはずなのに。その一言さえ言えない自分が……堪らなく、もどかしい。
(いっそ、外に嵐でも吹き荒れていればいいのに)
 そうしたなら、きっとアリスにも宿泊を促す言葉が言えるのに。
 天候にさえ縋るような、他力本願な自分が……酷く、情けなかった。

 

「――うおっ!?」
「魔理沙?」

 

 帰ろうと玄関の戸を魔理沙が開けると、凄い勢いで内に入り込んでくる雨足があった。
 ばさばさと、森の木々が荒れざわめく音。それと打楽器のように強く地面を叩きつけるかのような、酷い雨の音がたちまち二人の耳には飛び込んでくる。実際、玄関から外の光景を覗き込んでみれば、騒音に負けないぐらいに外の天気は酷い荒れ模様で。……寧ろ、今の今まで二人して気付いていなかったことが驚きだった。
 あまりの驚きに魔理沙が手を離したドアが、バタンと強い風の音と共に玄関に叩きつけられて閉まる。ドアが閉まって閉鎖された世界に戻ると、実際それだけで雨と風の騒音はたちまち耳に届かなくなるから不思議だった。

 

「ど、どうしたものかな……」

 

 戸惑う魔理沙。彼女は純粋に困惑の表情を浮かべて、そんなふうに漏らす。
 きっと――神様が与えてくれたチャンスなのだと思えた。普段は全く勇気が持てない私にも、なけなしの勇気を抱くことができるような。
 背中からアリスはそっと腕を伸ばして、魔理沙の身体を軽く抱き締めるようにする。彼女の髪に自分の顔が近づくと、なんだかとてもいい匂いがして、それだけで胸の鼓動が早くなっていく。

 

「あ、アリス……?」
「……今日はここに、泊まっていって?」

 

 精一杯の勇気の言葉。
 停滞していた筈の二人の関係が、静かに歩み始める足音がした。