■ 19.「泥み恋情07」

LastUpdate:2009/05/19 初出:YURI-sis

 お店の戸締りの殆どを済ませた後、曇天に向かってジャンプ傘を開くと雨水が勢い良く撥ねた。折りたたみ傘なんかよりはずっといいけれど、芹穂さんから預かった傘は開いてみると改めて小さめのサイズなことを感じさせる手狭さで、そのことが少しだけ不安で――けれどどこか、心が期待に揺らぐ部分もあった。

 

「お待たせ」

 

 最後の戸締まりを済ませた芹穂さんが、そう言ってさらさのすぐ傍にまで肩を寄せてくる。
 二人方を並べて雨の中に飛び出すと、やっぱりお互いに少しずつ肩に雨が掛かってしまいそうで。私たちはより近しい距離にぎゅっと肩を詰める。こんなにも芹穂さんと接近することなんて、当たり前だけれど初めての経験で。しかも芹穂さんの家に着くまでずっとこの距離をキープできるのだと思うと、平静をいつまで保っていられるだろうと、雨に濡れてしまうのとは別の意味でさらさは不安にならずに居られなかった。

 

「ごめんね、小さな傘で。本当はもう一本あれば良かったんだけど」
「そんな。……傘を忘れてしまった私のほうが、謝らないといけません」
「……それは仕方ないよ。今日は降水確率ゼロパーセントだったんだから」

 

 うっかり店に忘れ置きしてあった芹穂さんの置き傘が無かったら、今頃私たちはお店でタクシーを待っていたのだろうか。今日みたいな急に降り出した雨の中でタクシーを呼ぶのは大変だし、きっと待ち時間も長いだろうから。忘れてたの、と口にしながら申し訳なさそうに傘を一本だけ出してくれた芹穂さんのうっかりが、今日ばかりはどんなにも有り難かった。
 それにしても、天気予報って本当に嘘つきだと思う。『快晴の一日』と言っていたのにご覧のどしゃぶりだし、『昨日の陽気が今日も続くでしょう』とも言っていたように思うのだけれど。確かに昨日は夏日の始まりかと思うぐらいに暖かな一日で、そうした陽気は一度始まればあとは暖かさを増していく日々ばかりが続きそうなものだけれど。けれど現実に降る今日の雨は、まるで冬のもののような冷たさを纏っていた。
 さらさの方はまだ寒さを凌げそうな格好だからいい。問題は芹穂さんのほうで、きっと天気予報を信じていらっしゃったのだろう、肩までしかない半袖に幾つもの水滴が纏わっていて、いかにも寒そうな格好だった。

 

「……寒く、ないですか」

 

 さらさが訊ねると、不思議と芹穂さんは少しだけ首を傾げて考えるような素振りをしてみせて。少し間があってから、首を左右に振って否定してみせてくれた。

 

「雨、冷たいのにね。どうしてかな、寒いとはちっとも思ってなかった」
「そうなんですか?」
「うん。……きっと、さらさちゃんの身体があったかいからだね」

 

 そう言って、ぎゅっと芹穂さんはさらに身体を寄せてくる。
 肩が濡れているのは見た目にも心配だったから、雨に濡れないように距離を詰めてくれるのは有り難かったけれど。小さな小さな傘の下で鼓動さえ伝わりそうな程に詰め寄せ合う身体が、さらさにより強い緊張を抱かせてしまう。
 雨に触れれば、それがひどく冷たいことは判る。けれど確かに、さらさも『寒い』とはちっとも感じていなかった。芹穂さんに比べればまだ幾らか厚着であるとはいえ、夕方には訂正されていた天気予報の気温の数字は、本当に低い値であった筈なのに。

 

「……芹穂さんのほうが、あったかいですよ」

 

 服を介しているのが嘘みたいに直接伝わってくる夥しい熱があって、身体が深い場所から熱を帯びていく。寒さなんて僅かにさえ意識できない、傘の下だけの小さな世界だけが。確かに予報通り昨日よりも深く夏日を続けているみたいだった。