■ 33.「泥み恋情15」

LastUpdate:2009/06/02 初出:YURI-sis

「……まさか、また来るとは思わなかった」
「私も、そのつもりはなかったんだけどね」

 

 正直に萃香がそう漏らすと、霊夢は少しばつが悪そうに苦笑しながらそう答えてみせる。昨晩とは変わって、雲に閉ざされて月も見えない夜だ。
 本来は曇りのほうが夜は温かいものなのかもしれないけれど、夕暮れから宵の頃まで冷たい雨が降り続いていたせいか今日は一層肌寒く、そのうえ湿っぽいものだから決して酒を興じるのに相応しい環境ではない。萃香にとっては長く続けている日課だから、悪天候も季節変化の一日と捕える興もあるけれど、何も霊夢がこんな日に付き合う道理もないだろうにと思う。

 

「居たら、邪魔?」
「……そんなことは、ないさ」

 

 ただ、霊夢を楽しませるものを何も提供できないものだから、萃香の方が申し訳なく思うだけのことだ。
 せめてもと思って萃香が杯を差し出すと、霊夢も喜んで受け取ってくれる。昨日は一人で楽しむためだけの小さな杯しか持ち合わせてはいなかったけれど、今日はそれより一回り大きい杯をちゃんと二人分持ってきてある。――結局の所は、萃香もこうして霊夢が来てくれるのを心のどこかで期待してもいたのだ。
 どうせ酒は無限に溢れるのだから、少量ずつやる道理もない。なみなみとはいかないまでも、それなりに一杯の酒を霊夢の杯に萃香は注いでみせる。けれど霊夢は、昨日と同じようにちびちびとしか杯に口を付けようとはしなかった。

 

「………………」

 

 霊夢は今日もただ何も言わずに、空ばかりを見上げていた。
 萃香も見上げてみるけれど、映るのは曇天の暗闇ばかり。月も星も彩らない帳を眺望して何が楽しいのだろうかとも思うけれど。……霊夢はそこに何かを垣間見ているのだろうか、不意に僅かな淋しさを表情に伺わせてみせたり、小さな溜息を吐いてみせたりした。
 酒を楽しむには二種類がある。ひとつは酒自体を興じるもの、もうひとつは酒以外の何かを興じるための添物とするものだ。こんな淋しい夜だから、萃香は前者のつもりで霊夢に一杯の酒を振る舞ったものだけれど、霊夢は後者の気分で酒を楽しんでいるみたいだった。

 

「……何か、聞けることがあるなら、聞くけど?」

 

 萃香がそう口にしたのは、殆ど無意識のうちだったような気がする。淋しそうな霊夢の表情を見ていると……自分に何かしてあげられることはないだろうか、という気持ちになって。その心が言葉となって飛び出してしまっていたのかもしれなかった。
 萃香の言葉は唐突だったから、霊夢は少しだけ驚いたような顔をしてみせて。けれどその一瞬後には、またすぐに淋しそうな表情に戻ってしまう。……見上げてみても萃香には暗闇しか見えない空に、霊夢は何を馳せているのだろうか。

 

「萃香は、さ」
「うん?」
「気づいたらうちに住むようになっているわよね」
「あー……。もしかして、迷惑だったかい?」

 

 もし霊夢の悩みが自分の存在だったらと思うと、萃香は複雑な気持ちだった。
 けれど霊夢がそう思うのも無理はないことかもしれない。萃香がこうして棲みつくようになるまでは、ずっと霊夢はこの広い家で一人を謳歌できていた筈だった。それなりに霊夢に負担を掛けないようには心がけているつもりだったけれど、それでも同じ家に他人が居るというのは言い思いがしないのも無理ないことだろう。

 

「違うわ、そうじゃなくて。……その逆、かな」
「逆、って?」
「だから、その。……あなたは、いつまでうちに居てくれるのかな、って」

 

 霊夢の言葉に、今度は萃香が驚かされる番だった。その訊き方だと、迷惑どことかまるで……霊夢が、萃香がこのままうちに居続けてくれることを望んでいるかのような、そんな風に取れてしまいそうな言葉だったから。
 霊夢の方を振り返ると、彼女の淋しそうな瞳は今は夜空にではなく、萃香の方に向けられていた。殆ど無表情な霊夢の瞳の奥に、けれど確かな寂しさが映っている。その寂しさが――偽りではなく、萃香がここに居ることを望んでいてくれるような気がした。

 

「霊夢が追い出すまでは、ここに居るよ」
「本当に? ずっと居てくれるの?」
「ああ、本当に。鬼は嘘を吐かない、知ってるだろう?」

 

 ついさっきまでは、霊夢のことをただ『強い人間』だと思っていた。
 けれどいま萃香の前で見せてくれる霊夢の総ては、どんなにも脆弱だ。心の弱さは、そのまま存在の弱さで、いまの彼女に萃香は鬼として興味を抱くことができないように思えた。――鬼が求めるのは、いつだって人間の強さに魅せられることなのだから。
 なのに、いま萃香はどんなにも霊夢に魅せられている。こんなにも心の弱さを露呈している霊夢に、けれど普段以上に強固な魅力を感じずにはいられなかった。
(……もしかして私、霊夢のことが好きなのかな?)
 理由はわからないけれど、ふと萃香はそんなことを思う。そう思うだけで、自分の総ての疑問が繋がるような気がするからだ。霊夢が見せてくれる弱さも、自分だけの見せてくれる弱さだと思えば、そこに特別な嬉しさのようなものを感じずにはいられない。――そう思えるほどの理由を、他に萃香は知らないから。
 自分の心を深く暴けば、その気持ちの正体も知ることができるのかもしれない。だけど萃香は、そんな乱暴なやり方でせっかく自分の心に生まれた淡い感情を、明らかにはしたくなかった。
 霊夢の方を見ると、また曇天ばかりを見上げて何か物思いに耽っている。萃香も真似るように見上げてみるけれど、きっとそこには曇天の闇以外を見つけることはできないのだろう。
(――ああ)
 違う、どんなに雲ばかりであっても、見えるものもあるのだ。
 例えば、曇天の向こうから僅かにだけ漏れ出ている月の光。黒闇に濁る雲の向こうから、僅かに滲むような燐光だけを伺わせる遠い遠い月光は、まるでいま萃香が抱えている感情のように淡く、けれど深い熱を持っているように感じられた。