■ 38.「泥み恋情18」
「……ごめんなさい、泣くほど嫌だなんて思わなかったのよ」
アリスの泣き顔があまりにも胸に痛くて、たちまち心底申し訳ない気持ちになって紫は謝罪の言葉を口にする。
少なからずアリスからも好かれている自信があったのだけれど……それは紫の幻想に過ぎなかったということなのだろう。喉に詰まるようなアリスの痛切な嗚咽の声ひとつひとつに、紫の心は軋むような痛みを訴えた。
少なくとも紫はアリスを愛していた。愛していればこそ、その相手の悲痛な涙は紫自身にとっても辛く苦しく感じられてならない。――不意打ちのキスは、アリスからも少なからず想われているのだと自覚すればこその行動だったのだけれど、そうやらそれは紫の自惚れに過ぎなかったらしい。その証拠に……アリスは今、こんなにも啜り泣いている。
「本当にごめんなさい。もう二度としないから……」
「……ま、待って。嫌では……ないわ、嫌なんかである筈が」
殆ど涙声になりながら、紫の腕をひしっと掴んでアリスはそう告げてくる。
一瞬その言葉は、彼女なりの優しさなのかと思った。困り顔をしている紫を傷つけないように、泣きながらもアリスが気遣ってくれた言葉なのかと。
けれど、違っていた。アリスは泣きながらも、その表情には一切の悲しみを湛えては居なかったのだ。眉を下げながらも、けれど柔らかに緩んだその表情が示すもの。今度こそ紫の自惚れでないのなら……アリスの表情は、どこから見ても嬉し涙のように見えてしまうのだ。
「私は、悲しくて泣いたりしないわ。た、ただ……」
「……嬉しいと、思ってくれたのかしら?」
「え、ええ。……嬉しくて出る涙を、我慢する方法なんて知らないもの……」
アリスの言葉の真意を確かめるかのように紫が顔を近づけると、まだその両頬に涙の雫痕を湛えたままアリスは、けれど嬉しそうに瞼を閉じてくれる。
唇をもう一度、重ねてみる。熱くて柔らかい感触が、冷えた紫の躰に唇から流れ込んでくるかのようだった。
キスをしながらも、紫は薄目を開けてアリスの表情を見確かめてみる。もしもこの瞬間に、アリスが少しでも悲しそうな表情をしているようなら、すぐにでも彼女の元から顔を離すつもりだったのだけれど。……だけど、アリス頬を新たな雫が伝っているにもかかわらず、そこに見出すことができるのは確かに嬉しそうな表情ひとつだけで。
だから紫も、もう一度しっかりと瞼を閉じて。見えない視界の中で、ただ感触と体温だけを頼りにアリスを感じ入ることだけに没頭することができた。