■ 77.「泥み恋情30」
虚を突かれて電車の昇降口で固まってしまった美穂子の身体を、上埜さんの腕が掴んで引き寄せる。硬直してしまったのと一緒に周囲の音まで聞こえなくなっていたのか、いつしか電車が発車するベルは鳴り終わっていたらしく、美穂子の身体が電車の内からホームへ引き寄せられて間もなく、開いた時と同様に空気が抜ける音と共に電車のドアは閉じてしまった。
「ふふ、ごめんなさいね。驚かしすぎてしまったかしら」
「……あ、こちらこそごめんなさい」
上埜さんが身体を引き寄せて下さらなかったら、降りることさえ儘ならなかっただろうから。純粋に感謝の気持ちから美穂子が頭を下げると、上埜さんはばつの悪そうな顔をしてみせた。
「驚かしたのも私だから、なんだかお礼を言われると却って困ってしまうわね」
そう言って、カラカラと陽気な声で笑ってみせる上埜さんの声を聞くと。
(本当に、逢えたんだ――)
電話越しに訊いたのと同じ声で。同じ笑い方の上埜さんの姿を実際にこうして見ることで、改めて美穂子には上埜さんと本当に逢うことができたのだという実感が沸いてくる。じわじわと心を温めるその感動は、ただひたすらに歓喜に震えるものに他ならなかった。
「大丈夫? もしかして寒い?」
「あ、いえ。……大丈夫、です」
美穂子の震えを見て、心配そうに上埜さんが掛けてくれる声。でも美穂子が身体を震わせているそれは決して寒さからのものではなく――寧ろ暖かかった電車を降りたことで感じるはずの寒さなんて、今の今まで忘れてしまっていたぐらいだった。